京都おすすめ散歩道

定番から穴場まで京都のお散歩コースを地元民の視点からご紹介

原谷苑 ~空一面を桜が覆う百花繚乱の苑

京都市西北部の山の上にある原谷苑は知る人ぞ知る桜の名所です。京都市中心部よりだいぶ遅い時期に見ごろを迎え、いつも気になりながらタイミングが遭わず訪れずじまいでした。念願かなって足を運ぶことが出来た原谷苑の夢のように美しい様を是非ご紹介したいと思います。

 

(2023年4月3日訪問)

 

 

原谷苑の場所

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原谷苑の行き方

シャトルバスで(おすすめ!)

 わら天神前の鳥居前から無料のシャトルバスが出ています。

 シャトルバスの実施時期や運行時間は原谷苑の公式サイトからご確認ください。

 2023年は9:00以降20分間隔ぐらいで3台のバスが運行しており、乗車時間は15分程です。

 

   ★わら天神への行き方

  ・JR京都駅より市バス50、急行101、205で約40分「わら天神」下車すぐ

         JRバス高雄京北線で約30分「わら天神」下車すぐ

  ・京阪三条駅より市バス15系統で約30分「わら天神」下車すぐ

  ・阪急西院駅より市バス205系統で約16分「わら天神」下車すぐ

  ・地下鉄北大路駅より市バス204、205系統で約15分「わら天神」下車すぐ

 

わら天神前から1時間に一本程度、市バスも出ていますが、地元の方の足になっており、非常に混みあうそうですので、シャトルバスをお勧めします。

 

今回のスタートはわら天神前から出発するシャトルバスです。

わら天神の写真を撮り忘れたので、雪の日に金閣寺を訪問した際に撮影した雪景色のわら天神の写真です(笑)この鳥居の前あたりにシャトルバスの係の方が立っておられます。

 

行きのバスの写真も撮り忘れていたので、これは帰りに乗ったバスの写真です。他の色のバスもありました。「原谷苑 無料シャトルバス」の表示があります。

私が訪問した日は平日でしたが、原谷苑の桜が満開の頃だったので、わら天神前にもすでに沢山の人の列がありました。定員は約28名で、乗り切れなかったら次のバスを待ちます。私は3台分ぐらい待ちました。乗車時間は15分ほどです。

 

原谷苑に到着です。もう帰りのバスを待つ人の列がありました。

 

バス乗り場の横には駐車場があります。事前予約が必要なようですが、詳細は公式サイトをご確認ください。

 

シャトルバスから降りるとすぐ西門から入場できます。11:30に入場したので、すでにお客さんでいっぱいでした。

 

入苑料は変動制で、1000円~(現金のみ)。この日は恐らく最高額の1500円でした。入苑料が高いということは、桜が一番良い状態だということなので、高くても値打ちありますよ!

 

原谷苑とは

原谷苑は金閣寺から北西の山間、原谷にある桜の名所で、北山杉などの木材を取り扱う村岩農園所有の桜苑です。例年 4月上旬から下旬まで(2023年は3月25日から)と、紅葉の時期の11月下旬~12月上旬に一般公開されます。およそ4000坪もの広大な敷地に、さくら20数種類400本以上があります。春には、まず紅しだれ桜が咲き出し、薄墨桜、染井吉野、メインの八重紅しだれ桜、黄桜、緑桜、菊桜、郷桜などが4月下旬まで順次咲き続けます。桜だけでなくツツジシャクナゲなどの花も咲く、知る人ぞ知るお花見の穴場スポットです。

原谷はもともとゴミ捨て場で養分の少ない国有の土地を、戦後、満州からの引き上げ者が開拓を託されたそうですが、あまりに辺境な土地で開拓の成果も上がらないまま逃げ出された方も多かったとか。そんな土地を原谷苑の2代目当主が譲り受け、果樹や野菜、サツマイモ、花木など様々な植物を植えた中で、最初は桜の数種類だけが順調に育ったそうです。当初は親戚・友人等の身内だけで花見を楽しんでおられましたが、そのうちに人づてに評判が広がり、桜や紅葉の時期だけ一般公開するようになったということです。

 

早速中へ入って行きましょう。

苑内は、桜だけでなく、様々な種類の花が咲き誇り、まるで花の洪水のようです!

 

 

シダレザクラと言えば、円山公園のものも大きくて立派ですが、原谷苑のシダレザクラは空一面を覆うほど背も高く自由に伸びている感じ。野性味があり非常に生命力の強さを感じました。

原谷苑の2代目当主がこの地に様々な種類の植物を植えたものの、桜の数種類だけが順調に育ったということで、桜がこの土地に合っていたのかもしれませんね。その後、更に土を入れ替えるなど様々な工夫を重ね、今では紅葉や沢山の種類の花木も美しく咲き誇る庭になりました。

 

沢山の花が彩る苑内

原谷苑で見られる花木の写真が掲示されていました。

 

ヒガンザクラとレンギョウツツジの仲間でしょうか。三種類の花の鮮やかな競演です。

 

ボケの花も濃い赤とピンク色が鮮やかです。左の桜は御衣黄です。

 

ユキヤナギもあちこちで見られました。

 

レンギョウも大きくて迫力があります。

 

しだれ桜ならぬしだれ桃

 

金子ゲンカイ(ツツジ

 

ヤマブキも一つ一つの花が大きいです。

 

釣鐘型の小さな花が可愛いアセビ

 

利休梅(リキュウバイ)

 

4000坪の苑内は起伏に富み、とにかく花、花、花で地図を見ていても、どこを歩いているのかわからなくなるほどです。

 

 

 

 

原谷苑の美しさは噂には聞いていたのですが、今まで訪れる機会がありませんでした。今回スイスから里帰りした旧友と一緒に原谷苑を訪れ、まるで桜の洪水のような満開の桜を堪能することが出来、本当にラッキーでした。帰りもシャトルバスを利用してわら天神前で降りました。

 

わら天神周辺のカフェでランチをいただいてから、北野天満宮も参拝してきました。こちらも本殿裏や梅苑付近の桜がまだ少し咲いていました。

 

原谷苑は京都人でも訪れたことのある人はそんなに多くは無いと思います。京都市内の中心部より山側で気温が低い分、桜も遅い時期まで楽しめます。わら天神だけでなく金閣寺平野神社北野天満宮も徒歩圏内の絶好のお散歩コースですので、機会があれば是非足をお運びください。

 

周辺のおすすめスポットを以下でもご紹介しています。

 

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堀川周辺の桜の名所めぐり③妙顕寺 ~京都初の日蓮宗寺院

堀川紫明を少し南へ下がったあたりにある寺社仏閣には、知る人ぞ知る隠れた桜の名所がいくつかあります。このあたりは電車の駅から少し距離があり観光地化されていないので、桜のピークの時期でもそれほど人も多くなく、それぞれ徒歩10分ほどで移動できる距離にあるので、お散歩にぴったりのコースです。

今回は、日蓮宗の寺院として京都で初めて創建された妙顕寺をご紹介します。

(2023年3月27日訪問)

 

 

妙顕寺の場所

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妙顕寺の行き方

電車で

 ・京都市地下鉄「鞍馬口駅」より徒歩約10分

 ・京都市地下鉄「今出川駅」より徒歩約15分

 

バスで

 ・京都市バス 9,12,67系統「堀川寺之内」より徒歩約5分

 

 

今回のスタートは本法寺の仁王門です。

本法寺への行き方は以下でご紹介しています。

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仁王門の前の道を北へ30mほど進みます。

 

一筋目を東(右)へ曲がり、住宅街の細い路地を120mほど進みます。

 

突き当りを南(右)へ曲がり、40mほど進みます。

 

ほどなく桜に囲まれた美しい境内が見えてきます。

 

妙顕寺とは

妙顕寺日蓮宗大本山の寺院で山号は具足山です。日蓮の孫弟子にあたる日像が、鎌倉時代後期、元亨元年(1321)に創建した、京都における日蓮宗最初の寺院です。

応仁の乱や宗派間の紛争(天文法難)によりたびたびの移転をしてきましたが、戦国時代には東西は西洞院から油小路、南北は御池から二条にわたる大規模な敷地をもち、本能寺の変後は豊臣秀吉が京都の宿所としていました。

その後天正11年(1584)に秀吉に土地を与えられ現在地へと移転しました。秀吉は妙顕寺跡地に二条新邸(妙顕寺城)へと改造し、その城を二条城と呼び、聚楽第築城まで京都の拠点としていました。

天明8年(1788)の「天明の大火」により焼失しましたが、その後本堂は49年以上かけて焼失以前の姿に復元されました。

 

本堂の北側に庭園の受付があります。

 

桜の向こうに見えているのが方丈です。お客様を迎え入れる伽藍の一つで、僧侶の居住する場所です。拝観や御朱印の受付や物品販売もこちらで行っています。

 

早速入ってきます。

 

四海唱導の庭

写真正面に見える勅使門に面し、朝廷や皇室などの貴人を迎えるための庭です。「四海唱導」とは、世界中のあらゆる人々を法華経の教えに導き、その功徳によって人々を救うという意味がこめられています。滝から流れ落ちた水が白砂で表した大海へと広がっている様子を表しています。勅使門の後ろの大きな屋根が本堂です。

 

妙顕寺にはこの他に「孟宗竹の坪庭」「光琳曲水の庭」「抱一曲水の庭」がありますが、現在、改修工事中で拝観することが出来ませんでした。それぞれに見ごたえがありそうな立派なお庭のようですので、また日を改めてじっくり拝観したいと思います。

(工事期間は令和7年3月末までとのことです。詳しくは妙顕寺の公式サイト

https://www.shikaishodo-myokenji.org/

をご確認ください)

 

桜でいっぱいの境内

妙顕寺の境内は桜が多数植えられており、ちょうど見ごろを迎えていました。

勅使門

先ほどの四海唱導の庭の正面に見えていた勅使門を外側から撮影。

 

鐘楼堂

鐘楼堂です。梵鐘は正徳3年(1713)に鋳造されました。鐘楼堂は天明の大火(1788)で焼失後、再建されたものです。昭和40年(1965)、大門の東側から、五重塔があった現在の場所に移築されました。毎夕5時と除夜の鐘の際に鐘撞が行われます。

 

三菩薩堂

日蓮宗で三菩薩と呼ばれる日蓮大菩薩、日朗菩薩、日像菩薩と大覚を祀ります。天明の大火後に再建された際には、仮本堂とされていました。

 

寿福院塔

前田利家の側室である寿福院日栄が自らの来世の冥福を祈り建てた石塔です。寿福院は日蓮宗の大寄進者であり、建立した石塔が各地に残っています。

 

総門

妙顕寺正面にある大門です。いつでも参拝できるように閉門することなく常に開門しているそうです。

 

妙顕寺では、春と秋の特別公開時にライトアップも開催され、その際本堂・仏殿・客殿・書院などが開放されるそうです。今回は満開の桜を目的に訪問しましたが、機会があれば、秋の特別公開も訪問してみたいです。

 

3回にわたり、堀川周辺のかくれた桜の名所をご紹介してきました。電車の駅からは少し距離があり行きにくいのですが、お散歩にはちょうど良い距離感です。春の桜だけでなく、秋の紅葉の時期も見ごたえがありそうです。京都は春よりも秋の紅葉の時期のほうが混雑しますので、人込みを避けてじっくりと紅葉を楽しみたい方は、是非一度足をお運びください。

 

周辺の桜の名所を以下でご紹介しています。

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堀川周辺の桜の名所めぐり②本法寺 ~苦難を乗り越え結んだ芸術家との縁

堀川紫明を少し南へ下がったあたりにある寺社仏閣には、知る人ぞ知る隠れた桜の名所がいくつかあります。このあたりは電車の駅から少し距離があり観光地化されていないので、桜のピークの時期でもそれほど人も多くなく、それぞれ徒歩10分ほどで移動できる距離にあるので、お散歩にぴったりのコースです。

今回は度重なる苦難の中でも、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した芸術家たちとの深い縁を結び、現在までその芸術を護り続ける本法寺をご紹介します。

 

(2023年3月27日訪問)

 

本法寺の場所

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本法寺の行き方

電車で

 ・京都市地下鉄「鞍馬口駅」から徒歩約15分

 

バスで

 ・京都市バス9系統「堀川寺之内」から徒歩3分

 

今回のスタートは、水火天満宮です。

地下鉄鞍馬口駅から水火天満宮までの行き方は、以下で詳しくご紹介しています。是非一緒にご参拝ください。

 

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水火天満宮堀川通に面しており、市バス「天神公園前」停留所の真ん前です。

 

水火天満宮の南隣が天神公園です。

 

堀川通を南へ50mほど進みます。

 

一筋目を東(左)へ曲がります。

 

東へ曲がったところです。前方右手の赤い三角コーンのところが本法寺の入口です。

 

この路地を南へ進みます。

 

春季特別寺宝展の案内が出ていました。

 

こちらから入っていきます。

 

本法寺とは

叡昌山本法寺は、室町時代に活躍した日蓮宗の日親上人(1407-88)によって築かれた日蓮宗の本山です。開創の時期や場所は諸説ありますが、永享8年(1436)に東洞院綾小路に造られた「弘通所(ぐずうしょ)」が始まりとされています。その後、永享12年(1440)に、日親上人の幕府諌暁(かんぎょう:為政者に対し国家の安危を進言すること。日親の場合法華経の信仰を時の将軍足利義教へ説いた)が原因で投獄され、寺も焼かれてしまいました。日親が投獄された際に獄中で出会ったのが、江戸時代初期に日本文化に大きな影響を与えた芸術家・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の曽祖父にあたる本阿弥清信でした。以降、清信は日清上人に深く帰依し、本阿弥家は本法寺の大檀家になりました。その後も幾度かの法難により、一時は都を逃れ、大阪の堺へ避難しますが、京都の一条戻橋あたりに再興。更に豊臣秀吉の都市区画整備によって、天正15年(1587)に現在の地である堀川寺之内に移りました。その時、本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂宇の建立・整備が行われました。しかし、天明8年(1788)の大火で堂宇のほとんどを焼失。現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたもので、本堂、開山堂、多宝塔、仁王門、庫裏、書院などすべてが京都府有形文化財に指定されています。

 

さきほどの門から入ると本堂があります。

 

本堂の北側に拝観入口となる庫裏があります。

 

庫裏から入っていきます。

 

庫裏の入口で拝観料を納めて中へ入ります。写真奥の赤い絨毯を敷いた廊下がある建物が、寺宝を展示する涅槃会館です。

 

長谷川等伯の佛涅槃図

拝観順路に従って、まず赤い字で「1」と書かれた扉の部屋へ向かいます。

 

室内は撮影禁止でしたので、ここからは本法寺の公式サイトの画像を拝借します。

 

写真:本法寺公式サイトより

長谷川等伯「佛涅槃図」

本法寺の「佛涅槃図」(国指定重要文化財)は、京都三大涅槃図のひとつに数えられ、その大きさは縦約10m、横約6mに及びます。作者は安土桃山時代から江戸初期を代表する絵師 長谷川等伯(1539~1610)で、自身の息子久蔵の七回忌追善供養や心を寄せた日蓮宗僧侶らの供養を目的に、61歳の時にこの絵を描き本法寺に奉献しました。

「佛涅槃図」は、通常 原寸大の複製を展示していますが、毎年3月14日~4月15日の期間に真筆が展示されるため、運よく私も真筆を拝観しました。実際、この絵の前に立つと、そのスケールの大きさに度肝を抜かれます。等伯がこの絵を本法寺に奉献した当時は、本法寺の本堂は現在よりずっと巨大な建物だったので、こんな大きな絵も架けることが出来たそうです。しかし天明の大火で本堂などが焼失してからは、絵を架ける場所が無かったそうです。上記の写真のように、下から見上げる感じになり、この絵を展示するために、1階から2階を吹き抜けにしたこの涅槃会館が建てられたそうです。

この図は横たわった釈迦を菩薩や仏弟子、動物が取り囲み、釈迦の入滅を悲しむ様子を描いています。この図の左上の端あたりには、等伯自身も描き込まれています。

当時隆盛を極めていた狩野派に対抗するため、等伯本法寺に奉献する前に、宮中で披露するという世間の耳目を引く行動に出ました。また自身を「雪舟より五代」と称した系図もこの頃描いたとされます。長谷川派が狩野派に匹敵するだけのブランド力を身につけるため、宮中や雪舟という権威を巧みに利用したのですね。

 

本堂の前には長谷川等伯の像が建っています。

 

 

涅槃会館には佛涅槃図の他に、本阿弥光悦の作と伝わる「馬上杯」や翁面、修復が完成したばかりの狩野山楽作と伝わる『唐獅子図』なども拝観できました。

 

十の庭

涅槃会館と唐門の間にあるのが十(つなし)の庭です。数字の1から9を数える時に「ひとつ、ふたつ…」と最後に「つ」がつきますが、10には「つ」がつかないことより「十」を「つなし」と読ませるそうです。この庭には9個の石と、見る人の心にもうひとつの石(意志)が存在することから「十の庭」と名付けられたということです。

 

開山堂から見る桜

沢山の寺宝を拝観した後、開山堂へ向かいます。

 

開山堂の中から本堂を囲む桜を見ることが出来ます。

開山堂の建物の柱などの間から見る桜もまた見事です。

 

巴の庭

拝観順路に従って廊下を進みます。

 

渡り廊下の屋根の下に「三つ巴の庭」の表示がありました。

 

枯山水庭園「巴の庭」は、三つの築山を巴の形に置かれたことからその名の由来があります。

この巴の庭を作庭したのは、涅槃会館でも「馬上杯」や能面などいくつか作品が展示されていた本阿弥光悦です。本法寺が本阿弥家の菩提寺だったこともあり、光悦の作品が本法寺にはたくさん所蔵されており、更に国指定の名勝庭園まで作庭していたんですね。光悦は、その他に書や茶の湯などにも才能を発揮したそうで、今でいうマルチアーティストだったんですね!

 

ちょっとわかりにくいのですが、手前の半円が二つ組み合わさって丸くなっているのが「日」、10本の切石で囲んだ十角形の小さな池は季節になると蓮が咲き「蓮」を表し、二つ合わせて、本法寺の宗祖「日蓮」を表します。庭園の中央に「日蓮」の字が象られているとは、何とも斬新ですね。ここにも光悦の日蓮宗に対する信心深さが伝わってきます。

 

先ほどの写真の右奥あたりにある枯滝組です。奥にある立石で滝石とし、小石(粟石)により水の流れを表現しています。手前に置かれた縞模様の石により、流れ落ちる水を表現しています。手前には苔むした石橋もありますね。

 

 

桜満開の境内

多宝塔は寛政年間(1789~1801)の再建です。

反対側から撮影。

 

境内には摩利支尊天を祀る「摩利支天堂」があります。気力・体力・財力の守護神です。

 

摩利支天堂の前から多宝塔の方を振り返ると、桜のトンネルが!!

 

桜のトンネルの終着点(出発点でもありますが)に仁王門。どうやら私は本法寺の裏側から逆ルートを歩いて来たようです。

 

仁王門です。どう見ても、こちらが正門ですね。

 

 

コロナ前の2019年に本法寺を訪れた時は4月中旬だったため、もう桜は散り始めていました。そのため本法寺がこんなにも桜が綺麗な所だとはあまり認識していませんでした。長谷川等伯の佛涅槃図の真筆をはじめ本法寺と縁の深い芸術家の作品も拝観出来ますので、是非桜の時期に訪れてみてはいかがでしょうか。

堀川周辺の桜の名所めぐり①水火天満宮 ~水難・火難除けの天神さん

堀川紫明を少し南へ下がったあたりにある寺社仏閣には、知る人ぞ知る隠れた桜の名所がいくつかあります。このあたりは電車の駅から少し距離があり観光地化されていないので、桜のピークの時期でもそれほど人も多くなく、それぞれ徒歩10分ほどで移動できる距離にあるので、お散歩にぴったりのコースです。

今回は水難・火難除けの「水火の天神さん」として親しまれている水火天満宮(すいかてんまんぐう)をご紹介します。

(2023年3月27日訪問)

 

水火天満宮の場所

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水火天満宮の行き方

電車で

 京都市地下鉄「鞍馬口駅」下車 徒歩約10分

 

バスで

 京都市バス 9,12,67系統「天神公園前」下車すぐ

 

今回のスタートは地下鉄鞍馬口駅です。

改札を出たら左へ向かいます。

 

左を向いたところです。紫明通へ行きたいので出口2を目指します。

 

奥に見えている顔段を上がります。

 

階段を上がり切って外へ出ました。目の前は烏丸通です。烏丸通を南(右)へ向かいます。

 

南へ向いたところです。烏丸通を50mほど進みます。

 

烏丸鞍馬口の信号を西(右)へ曲がります。

 

西へ向いたところです。鞍馬口通をしばらく西へ進みます。

 

鞍馬口通を300mほど進むと、立派な門構えの建物があります。

 

立て札によると「擁翆園」という庭園でした。室町幕府四代将軍 足利義持管領細川満元が、金閣寺造営の余材をもって築いた邸宅がその始まりです。細川満元の没後、岩栖院(がんすいん)という寺に改められ、慶長15年(1610)に徳川家康から旧領地として後藤長乗(彫金師)に与えられました。長乗が加賀の前田利常や小堀遠州の助力を得て造園した庭園がこの擁翆園です。庭園は池泉回遊式で、琵琶湖を模した池の周りに、しだれ桜、花水木、紅葉、白椿など四季折々で花が咲き、趣き深い風情を漂わせているそうですが、現在は企業の本社と研究所が敷地内にあり、一般には公開されていないようです。残念…

 

鞍馬口通を250mあまり西へ進むと紫明通に出ますので道なりに南西へ進みます。

 

道なりに南西へ進むと右手に大日本スクリーンの本社があり、面している大きな通りが堀川通です。そのまま堀川通沿いを道なりに南(左)へ進みます。

 

堀川通を100mほど南へ進むと市バス「天神公園前」停留所があります。

 

バスの停留所の前が水火天満宮です。

 

水火天満宮とは

水火天満宮は、延長元年(923)、後醍醐天により水難・火難除けの守護神として延暦寺の尊意僧正に勅願があり、菅原道真の神霊を勧請して建立されました。以前は現在地より少し西の上天神町にありましたが、堀川通の拡張に伴って1952年に現在の場所に移転しました。地元の人には「水火の天神さん」として親しまれています。

 

さっそく中へ入っていきましょう。

 

この日は団体の会合があったようで、境内に椅子が並べられ、関係者が集まりつつありました。それとは別に満開の桜を写真に納める参拝者の姿も数人見られました。

 

拝殿周りを枝垂れ桜が華やかに彩ります。

 

三つの神石(登天石、出世石、玉子石)など

こじんまりとした境内ですが、何やらご利益がありそうな霊石や末社がたくさん並んでいます。

登天石

菅原道真公が大宰府の地で亡くなった後、都では天変地異が相次ぎ、雷火の災いが重なったことから、菅公の怨霊の祟りと不安が高まりました。当時の帝、醍醐天皇は、延暦寺の尊意僧正に祈願を依頼し、勅命を受けた尊意が延暦寺を下りて宮中へ向かう途中、鴨川が突如増水し町へと流れ込みました。尊意が手にした数珠をひともみして、天に向かい神剣をかざして祈ったところ、たちまち水位が下がり、水面が真っ二つに分かれ、一つの石が現れました。その上に菅公の神霊が現れ、やがて昇天し、雷雨もやんだということで、尊意がその石を持ち帰り供養して、登天石と名付けました。

この石に祈ると「迷子が無事に戻る」と言われています。

 

出世石

登天石の右横にある神石は出世石と呼ばれ、大願成就、世に出る石として信仰されています。

 

玉子神石

玉子神石は、元々は道真公の御愛石で、家族の出産に玉子石に安産を祈願されたとのことです。妊娠五カ月目以降にこの石に祈るとご利益があり、「子宝に恵まれない婦人がこの石に祈ると、良き子宝を得ること夥しくある」そうです。出産の際、卵のように『つるり』と生まれてくることから、玉子石と呼ばれています。

 

金龍水

都名水の一つで、鎮座以来、いかなる大旱(ひでり)でも渇水したことが無く、濁ることもなく水質が良好であったそうです。また、眼病を患う人が、この清水によって平癒した人が多かったと伝わる井戸水です。

 

六玉稲荷大明神

六玉大明神など3社を祀る稲荷社です。元々は東本願寺渉成園にあったものが、明治維新以前に移されました。特に縁結びの「就職祈願」「人材確保」にご利益があるとされる珍しいお稲荷さんです。

その他境内には秋葉大神、白太夫社、弁財天などの末社もあります。

 

水火天満宮の境内はとても小さいのですが、二本のしだれ桜は境内を覆うように大きく枝を広げ、桜のカーテンのようです。木の下に立つと桜色の霞の中にいるような幻想的な気分になります。六玉稲荷社をはじめとする末社や登天石などのご神石もあり、沢山のご利益がありそうなありがたい神社です。次回以降にご紹介する桜の名所も近隣に沢山ありますので、是非一度足をお運びください。

 

神泉苑 ~平安時代から続くお花見の名所

今年の桜は本当に早く咲き始め、お花見の計画に慌てた方も多かったと思います。お花見に宴会はつきものですが、このように桜を愛でるための花見の宴が日本で一番初めに行われた場所が、この神泉苑と言われています。京都の観光スポットの一つ、二条城のすぐ南に位置しながら、京都人でもあまり訪れたことが無いのではないでしょうか。今回はお花見の元祖ともいえる場所、神泉苑に満開の桜を見に訪れました。

 

 

神泉苑の場所

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神泉苑の行き方

電車で

 ・阪急四条大宮駅より北へ徒歩10分

 ・JR二条駅より東へ徒歩10分

 ・JR京都駅→地下鉄東西線二条城前駅」下車 徒歩2分

バスで

 ・市バス15系統「神泉苑前」下車すぐ

 ・市バス9、50系統「堀川御池」下車 徒歩5分

 

最寄りのJR二条駅から神泉苑への行き方は、以下で詳しくご紹介しています。

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今回のスタートは神泉苑の大鳥居です。

二条城の南に位置し、御池通に面しているこじんまりとした庭園です。

 

神泉苑とは

神泉苑平安京の造営と同時に計画された大宮苑で、延暦13年(794)、桓武天皇により禁苑(天皇のための庭園)として造営されました。平安京の(大内裏)の南東隣りに位置し、南北4町東西2町の約8ヘクタールもある広大な苑池でした。神の泉の名の通り豊かに水が湧き出て、どんな干天でも枯れず、灌漑用にも水を供給したそうです。

苑内には、大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が造られ、敷地の北部には乾臨閣を主殿とし、右閣、左閣、西釣台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う壮大な宮殿がありました。

 桓武天皇による延暦19年(800)の行幸以来、歴代天皇神泉苑で宴遊され、9月9日の重陽節会(菊の節句)や7月7日の相撲節会など季節の行事も恒例として行われました。嵯峨天皇は43回も神泉苑行幸され、弘仁3年(812)には神泉苑で「花宴の節」を行い、これが日本で初の花見の宴と言われています。

 

その後、神泉苑は鎌倉期には荒廃し、慶長年間、徳川家康が二条城を築くにあたり、広い池の多くが壊され、初期の八分の一ほどに縮小してしまいました。平安京の真ん中に位置した遊宴の大池はしのぶべくもないものの、深々とした池、後ほどご紹介する弁財天堂や善女龍王社の佇まい、朱塗りの法成橋には、平安時代の華やかな様子が伝えられています。

 

ちなみに神泉苑が面している「御池通」の「御池」とは、この神泉苑の中の池に通じていた道であることから、江戸時代中頃から「御池通」と呼ばれるようになったそうです。

 

善女龍王社と法正橋

大鳥居を入って真正面にあるのが善女龍王社です。

天長元年(824)、日本中が干ばつに見舞われ、淳和天皇の勅命により、弘法大師空海神泉苑の池畔で雨ごいの祈祷を行いました。空海北インドの無熱池の善女龍王を勧請(呼び寄せる)したところ、日本中に大雨が降りました。これ以降、神泉苑の池には善女龍王が棲んでいると言われており、「善女龍王社(ぜんにょりゅうおうしゃ)」というお社のなかに祀られています。

 

神泉苑で一番のフォトスポットが、この「法成橋(ほうじょうばし)」です。先ほどの「善女龍王社」と本堂の間に架かっている朱塗りの橋です。

 

法正橋のうえを、善女龍王社で授けられるお守りを胸に抱いて一つだけ願い事を念じながら善女龍王へお参りすると、その願いは必ず成就すると言われているそうです。

 

法正橋のたもとに建っているのが本堂で、利生殿とも呼ばれます。弘化4年(1847)に東寺の大元師堂を移築したものです。ご本尊は聖観音で後光明天皇の供養のために父の後水尾法皇によって造立されました。

 

恵方

善女龍王社の南に「恵方社」という小さなお社があり、日本で唯一「くるくる回転する社」と言われています。節分の時に食べる恵方巻の「恵方」と同じく、その年の縁起の良い方角を指しており、お社自体が恵方を向くように、前年の大晦日に調整されているそうです。

この恵方には歳徳神(としとくじん)という神様がいて、陰陽道では福徳の神様とされ、吉の方角にお参りすると願いが叶うと言われています。

 

 

弁天堂

増運弁財天は法成就池のほとりに祀られており財宝を授けてくださいます。水音が弁天様の奏でる琵琶の音色に聞こえると伝えられています。

神泉苑の弁天堂は江戸時代から境内の東側にあり、元文2年(1737)や安永9年(1780)の境内図では、多宝塔のそばの池中に社殿があったそうです。天明の大火(1788)で堂舎が焼失したとされ、現在の弁天堂はその後再建されたものです。

 

宝筐院塔

宝篋印塔は、貞観元年(1684)に弘法大師御入定850回忌にあたり、神泉苑の池中に建立されたそうです。宝永地震(1707)などで損壊した後、享保2年(1717)に再興されました。この供養塔に礼拝すると滅罪延命などのご利益や、ご先祖様へのご供養にも通ずると伝えられます。

 

鎮守稲荷社

鎮守稲荷社のご祭神は矢劔大明神(やつるぎだいみょうじん)です。

手に持った矢と剣で、参詣の人々を守護される神様だそうです。

神泉苑の稲荷社は江戸後期からあることが古文書により判明しています。

 

 

鐘楼堂

この鐘楼は江戸時代、宝永年間の華洛細見図や安永9年刊の都名所図会にも描写されており、江戸・明治時代の頃は境内の南西に位置し、現在は東北へと移築されています。

鐘の表面の東西南北には四智如来梵字が記された、密教的な曼荼羅を表すものとなっており、梵鐘そのものが大日如来と一体であると考えられます。

 

 





前回訪れたのは昨年の1月末だったため、花はほとんど咲いていませんでしたが、今回は桜が満開で、平安時代に花見の宴が催されたほどの華やかな雰囲気も伝わってきました。街中とは思えないほど静かで清澄な気に満ち、京都でも有数のパワースポットとされているのも頷けます。春の桜だけなく、夏の紫陽花、秋の紅葉など四季折々に美しい自然の姿を見せてくれます。写真を撮り忘れたのですが、池にはかわいいアヒルがいて、近隣の方や参拝者の人気を集めています。二条城からも徒歩5分、周辺の駅からも徒歩10分ほどとアクセスも大変良いので、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

 



妙心寺退蔵院 ~紅しだれ桜に華やぐ境内

妙心寺臨済宗妙心寺派大本山で、石畳で結ばれた一つの寺町を形作っており、46もの塔頭があります。退蔵院は、そんな塔頭寺院の中でも600年以上前に建立された山内屈指の古刹です。境内には枯山水庭園と池泉回遊式庭園の二つの異なる趣きの庭園が広がり、一年を通じて多くの樹木や草花に彩られます。特に境内の紅しだれ桜が有名で、ちょうど見ごろを迎えていましたので訪ねてみました。

 

 

 

退蔵院の場所

goo.gl

 

退蔵院の行き方

京都駅から

 ・JR山陰線(嵯峨線)「花園駅」下車、徒歩約7分

 ・タクシーで約25分

 ・市バス26系統 御室仁和寺・山越行き「妙心寺北門前」下車 徒歩約5分

 

三条京阪から

 ・京都バス62、63、65、66系統 嵐山・清滝・有栖川行き「妙心寺前」下車 

   徒歩約3分

 ・市バス10系統 宇多野・山越行き「妙心寺北門前」下車 徒歩約5分

 

地下鉄四条駅から

 ・市バス91系統 大覚寺行き「妙心寺前」下車 徒歩約3分

 

嵐山方面から

 ・JR山陰線(嵯峨野線)「花園駅」下車 徒歩約8分

 ・京福電鉄 帷子ノ辻駅乗り換え北野白梅町行き「妙心寺前」下車 徒歩約10分

 ・京都バス62、63、66系統「妙心寺前」下車 徒歩約3分

 ・市バス93系統「妙心寺前」下車 徒歩約3

 

JR花園駅から退蔵院への行き方は以下で詳しくご紹介しています

www.yomurashamrock.me

 

今回のスタートは妙心寺の南総門です。

妙心寺の境内は近隣住民の生活道路になっているようで、私がこの門をくぐろうとすると、横から自転車に乗った中学生が二人、自転車のまますーっと入って境内を爆走していきました。こんな格式高い大寺院なのに、普通に通り抜けられるのね…と感心してしまいました。他にも犬の散歩中の方や恐らく買い物やお出かけなどで通り抜けられる方もたくさん見かけました。

 

東西約500m、南北約600mの広々とした境内は、約10万坪、東京ドーム7個分ほどの敷地面積です。

 

妙心寺とは

妙心寺がある辺りの「花園」という地名は、その昔、四季折々の美しい花が咲き誇る花畑があったのでそう呼ばれていました。そこには花園御所と呼ばれる離宮があり、花園上皇の御所としての役割を担っていました。花園上皇が法王となったのち、世の平和を願い離宮を禅寺へと改めました。それが1337年のことで、妙心寺はこの年を開創の年としています。

妙心寺臨済宗妙心寺派大本山で、3400もの寺院を束ねている格式高いお寺です。日本には臨済宗の寺院が6000ほどあるので、その半分以上を占めているということになります。

ところで京都の臨済宗のお寺には「禅づら」と呼ばれる、そのお寺の特徴を一言で言い表すものがあります。例えば詩文芸術に秀でた学僧を多く輩出した建仁寺は「学問づら」、千利休をはじめ茶の湯文化と深い関わりのある大徳寺は「茶づら」、境内に大きな伽藍が立ち並ぶ東福寺の「伽藍づら」、武家の篤い信頼を得て発展した南禅寺の「武家づら」などなど。妙心寺は全国3400もの妙心寺派の寺院を束ねるため、節約に徹し合理化した寺院経営を重視したことから「算盤づら」と呼ばれています。

そんな妙心寺の約10万坪の境内には、七堂伽藍と46の塔頭寺院が立ち並び、多くの重要文化財や史跡・名勝指定の庭園・寺宝が保存されています。

 

 

堂々とした三門です。慶長4年(1599年)建立で、境内で唯一の朱塗りの建物です。三門は仏教修行で悟りに至るために通過しなければならない三つの関門、空・無相・無作の三解脱門を略した呼称です。空は「物事にこだわらない」、無相は「見かけで差別しない」、無作は「欲望のまま求めない」ことだそうです。

 

三門の前の道を西へ向かうと退蔵院への案内板が出ています。案内板に従って北(右)へ向かいます。

 

こじんまりとした退蔵院の山門です。早速中へ入りましょう。

退蔵院とは

退蔵院は1404年(応永11年)に建立され、一年を通して美しい花々に彩られた華やかさと禅寺の落ち着きを兼ね備えた寺院です。

寺院の名前である「退蔵」とは「価値あるものをしまっておく」という意味があるように、隠匿(人に知られないようにして良い行いをする)を積み重ね、それを前面に打ち出すのではなく、内に秘めながら布教していくという意味があるそうです。

 

受付で拝観料を納めます。

 

「石庭遊び」ご自由に『私の石庭』を製作して、スマホに残してお楽しみください。」と書かれていました。退蔵院にある「元信の庭」の白川砂を洗った後の細かくなった砂をこの「私の石庭」用に再利用されているそうです。

 

「私の石庭」の前を通り、突き当りを右へ曲がり、奥まで進むと方丈の大玄関に出ます。

 

方丈

方丈の大玄関です。

大玄関(国指定・重要文化財)の唐破風造りで非常に珍しいとされている玄関の様式は、破風の曲線が直線になっており、ちょうど袴の腰のようになっていることから「袴腰(はかまこし)造り」と呼ばれています。

 

方丈(本堂)には、同院開祖である無因宗因禅師(妙心寺第三世)が祀られています。応仁の乱後、1597年に再建されました。禅と剣の道には精神的な共通点があり、江戸時代には宮本武蔵もここに居して修行に励んだと言われています。

退蔵院の目玉で国宝に指定されている『瓢年図(ひょうねんず)』の模写が方丈の入口に展示されています。この絵は山水画の始祖と言われている如拙が、足利義時の命により心血注いで描き、現存する彼の作品の中で最高傑作と言われています。「ただでさえ捕まえにくいなまずを、こともあろうに瓢箪で捕まえようとする」この矛盾をどう解決するか、悟りの不可思議を描いた頭上に、将軍義時が当時の京都五山の禅僧31人に書かせた賛詩(回答)が並びます。

 

元信の庭

元信の庭は、室町時代の画聖・狩野元信の作品で、絵画的な優美豊艶の趣を失わず、独特の風格を備えている枯山水庭園です。庭の背景には、やぶ椿、松、槇、もっこく、かなめもち 等、常緑樹を主に植え、一年中変わらない美しさ「不変の美」を求めた物と考えられます。
狩野元信が画家としてもっとも円熟した70歳近くの頃の築庭と推測されています。自分の描いた絵をもう一度立体的に表現しなおしたもので、彼の最後の作品が造園であったことで珍しい 作品の一つと数えられています。
昭和6年(1931年)には、国の名勝史跡庭園に指定されました。

方丈奥のつくばいの横から覗き込むようにして見ると上記のように見えます。

 

方丈の西にある「鎖の間」から見るとこのように見えます。鎖の間が普段は非公開ですが、今回は入ることが出来ましたので、庭のメインである画面右奥の枯滝石組もしっかり見ることが出来、小さな多数の石で滝の流れを表現しているのもよく分かりました。

 

「鎖の間」からは、先ほどと反対方向(庭園の奥側から入口側)を見ることも出来ました。小さい庭ですが、こちら側から見ると、より奥行を感じ実際より広々として見える気がしました。

 

元信の庭を堪能したので、次の庭園へ向かいます。

 

細い路地を東へ進みます。

 

案内板に従って南へ曲がります。この小道の突き当りを右に曲がると中門です。

 

中門の欄間には瓢鯰図にちなみ鯰の彫刻が施されています。

 

陰陽の庭

中門の向こうにあるのが、本日のお散歩のメインイベント(?)大きなしだれ桜が見えて来ました。

 

しだれ桜の木が大きすぎて、全体が見える写真が撮れなかったので、退蔵院で購入した絵葉書の写真を拝借。

 

しだれ桜の両側には陰陽の庭があります。向かって左側が「陽の庭」、右側が「陰の庭」です。敷砂の色が異なる二つの庭は、物事や人の心の二面性を伝えています。陰の庭には8つ、陽の庭には7つ、計15の石が配されています。昔から15という数字は「完全を表す」とされてきました。この陰陽の庭は両方の庭を見ないと15個の石を見ることが出来ません。良いところだけを見ても、悪いところだけを見てもダメ、全てをありのままに受け入れることが重要だという仏教の教えが隠されているといいます。

 

「陰の庭」黒い砂が用いられています。

 

「陽の庭」白い砂が用いられています。

 

大きく枝を広げたしだれ桜を下から見上げると、まるで桜のシャワーを浴びているような気分になります。

 

陰陽の庭を過ぎると、かやぶき屋根の東屋があります。

さらに奥へと進むと水琴窟があります。つくばいの下深く底を穿った瓶を伏せ込み、手水に使われたつくばいの水が瓶に反響して琴の音のように聞こえます。とある京都の庭師さんがつくばいで手を洗うだけでは面白くないということで考案されたそうです。禅宗には「手元にあるものを活かしなさい」という教えがあります。つくばいは手を洗うための鉢ですが、手を洗った水を水琴窟に通せば、綺麗な音で楽しませてくれる、無駄なものなど何一つありません。

写真左手の竹の筒に耳を押し当てると、水がチョロチョロ流れる音の奥に、時折かすかなカラン、コロンという涼し気な金属音が聞こえて来ます。

 

余香苑

余香苑に出ました。なだらかな勾配のこの庭園は、「昭和の小堀遠州」と称される中根金作によって設計され、昭和40年(1965)に完成しました。一年を通して、紅しだれ桜や藤、皐、蓮、金木犀、楓などが庭園を彩ります。これは禅寺の庭としては異例です。元信の庭とは対照的な、季節ごとに姿を変える演出は、これはこれで世の無常を表すようで趣があります。庭園の中心には、瓢鯰図にちなみひょうたん池が配されています。大きな庭園ではありませんが、全体をなだらかな勾配にして、手前が低く奥をだんだんと高くしています。まわりを木で囲み、手前の木は低く、奥は大きく丸く刈るなどの工夫で、実際よりも奥行があるように見せています。正面から見るのと、池に来るまでに余香苑を上から見るのとではずいぶん違います。これもまた物事の多面性を表現していると言ってもいいかもしれません。

 

 

退蔵院では、瓢鮎図へのヒントとして二代前の元住職が瓢箪形をした余香苑の池の中にナマズを入れることでその答えとされました。

多くの人は外へ外へと答えを求めるものですが、実は答えはもう自分の中にすでのあるのではないか、ということを示唆してるのです。

退蔵とは「価値あるものを内に秘める」ことですが、禅の心もそのように自分の内にある大切なものをあるがままに見つめ確かめることである、と退蔵院全体が教えてくれているのではないか。降るように咲き誇るしだれ桜を見ながらそんなことを思いました。

 

 

桜の季節は駆け足で過ぎてしまいましたが、これからの季節は藤、菖蒲や皐(サツキ)なども競うように花をつけ初夏の爽やかさが境内を彩ります。駅から徒歩10分という市街地にありながら、四季の花々の美しさの中に禅の心を垣間見せてくれる退蔵院の小宇宙を是非堪能してみてください。

 

六角堂 ~しだれ桜が満開の都会のオアシス

「まるたけえびすにおしおいけ あねさんろっかくたこにしき~」でお馴染みの京の通り名の数え歌に登場する「六角通」に面しているのが「六角堂」。京都一の繁華街でありオフィス街でもある都会の真ん中にあるこじんまりした寺院ですが、小さいながら見どころ満載、そしてちょうど境内のしだれ桜が見ごろを迎えているということで訪ねてみました。

 

 

 

六角堂の場所

goo.gl

 

六角堂への行き方

電車で   ・京都市営地下鉄烏丸御池」駅出口から徒歩3分

      ・阪急京都線「烏丸」駅21番出口から徒歩5分

      ・阪急河原町駅から約5分

 

徒歩で   ・京都文化博物館から4分

      ・錦市場高倉通側)から6分

      ・四条河原町から15分

 

タクシーで ・京都駅から約10分

      ・京阪三条駅から約10分

 

阪急烏丸駅から六角堂への行き方は以下で詳しくご紹介しています。

www.yomurashamrock.me

 

今回のスタートは六角堂の山門です。

この日は午前中からの雨がようやく小やみになり、門前の石畳も境内の木々もしっとりと雨に濡れ、それもまた風情がありました。花粉症の私も雨が上がったばかりなので、しばらくは安心して散策できました。

 

六角堂とは

六角堂は起源が定かではありません。寺伝によると、587年(用明天皇2年)に聖徳太子厩戸皇子)が創建したとも言われていますが、発掘調査によると飛鳥時代の遺構は見つからず、10世紀後半頃に創建したと推定されるそうです。としても平安時代ということになりますから、京都でも屈指の古い寺院ということになります。

 

ちなみに、六角堂の名称は本堂の形が六角形であることに由来しています。下から見上げるとちょっとわかりにくいですね💦

 

隣接するビルのエレベーターで最上階まで上がって上から六角堂を見ると、六角形なのが何となくわかります。(写真は2年ほど前に撮影したものです)

 

縁結びの六角柳

境内を入ってすぐ出迎えてくれるのが、大きな柳の木です。青々と茂った枝が地面すれすれまで伸びる姿から「地ずり柳」とも呼ばれます。

平安時代初期、妃になる女性を探していた嵯峨天皇の夢枕に六角堂の如意輪観音が現れ、「六角堂の柳の下を見てみなさい」とのお告げを受けたため、人を遣わしてみると、柳の下には一人の美しい女性が立っており、天皇はただちに妃として迎えました。この話から「六角堂の柳に願をかけると良縁に恵まれる」という噂が広がり、「縁結びの柳」と呼ばれるようになりました。本堂前の柳二本を一緒に、おみくじで結んでおくと縁結びのご利益があると言われています。

 

へそ石

六角柳の右隣、敷石の中央に、中央にまるい穴があいた六角形の石があります。門前の六角通りにあったものを、明治時代初期に門内へ移したもので、六角堂が京都の中心とされたことから、体の中心であるへそになぞらえて「へそ石」と呼ばれています。桓武天皇が都を平安京へ遷す際、六角堂の本堂が通りにかかっていて、都の造営が出来ず困っていました。そこで桓武天皇が本尊の観音様に祈ったところ、六角堂が一夜のうちに自ら約15メートルほど北の現在地へ移動したそうです。もとの位置には六角堂の礎石だけが一つ残ったという伝説から、「本堂古跡の石」ともいいます。

 

一言願い地蔵

へそ石からさらに右の奥へと進むと、少し首を傾けた姿をされた「一言願い地蔵」が。お参りに来られた人の願いを叶えてあげようかどうしようか考えておられるそうです。願いを聞き届けていただけるかは信心次第なので、欲張らず一つだけ願い事をするように、と書かれています。私も今一番気になっている願い事をよ~くお願いしておきました。

 

親鸞と六角堂

鎌倉時代の初め、比叡山で修行をしていた親鸞は、建仁元年(1201)29歳の時、六角堂に100日参籠するという誓いを立てました。聖徳太子を深く尊敬していた親鸞は、京都における太子ゆかりの寺院として、六角堂に思いを寄せたのです。
参籠は、夜になると比叡山を下りて六角堂に籠もり、朝には山に戻る繰り返しだったといいます。そして九十五日目の暁に如意輪観音からお告げを受け、浄土宗を広めていた法然上人へ弟子入りをし、浄土真宗を開くきっかけとなりました。

親鸞の像の横あたりに咲いたしだれ桜。雨に濡れて、淡いピンク色と青い葉の色もいっそう冴え冴えと美しく見えます。

 

親鸞の像は石段を上った上にあり、六角堂の中では比較的高い位置です。こちらから本堂を眺めると、満開のしだれ桜と本堂、そして烏丸通に面したオフィスのビル群という不思議なコラボレーションが見られます。

 

十六羅漢と合掌地蔵

羅漢とは、仏の教えを護り伝えることのできる優れた僧侶に与えられた名前です。十六というのは、方位の四方八方を倍にした数で、あらゆる場所に羅漢がいることを意味しています。
六角堂の十六羅漢は、2007年~2008年に池坊専永住職によって安置されたもので、「和顔(わげん)愛語(あいご)」を実践し、いつもにこにこしています。いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがあるという教えだそうです。見ているとこちらも自然と笑顔になれます。

また、羅漢の周りにはひねくれて仏教を理解しない邪鬼がいるとされていますが、六角堂の邪鬼は改心し羅漢を守りながら修行に励んでいると言われています。

十六羅漢の向かって左横には願いを手のひらにやさしく包み込んで祈る「合掌地蔵」があります。

 

太子堂(開山堂)と聖徳太子沐浴の古跡

境内北東の池の隅に浮かんでいる建物は太子堂と呼ばれ、六角堂を創建した聖徳太子を祀っています。内部には、太子が合掌して「南無仏」と唱える二歳像、父である用明天皇の病気平癒を祈る十六歳像、仏教の受容をめぐって物部守屋と戦った姿を表す騎馬像を安置しています。

淡路島に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子は、四天王寺建立の材木を求め、京都盆地を訪れました。太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地にとどまって人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建てて安置したといわれます。

 

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太子堂の脇の池の中にある、石でできた井筒は、聖徳太子沐浴の古跡と伝えられる場所です。この池のほとりに、小野妹子を始祖とする僧侶の住坊があり、「池坊」と呼ばれるようになりました。代々六角堂の住職を務める池坊は、仏前に花を供える中でさまざまな工夫を加え、室町時代の「いけばな」成立に至ります。東福寺の禅僧の日記『碧山日録』には、寛正3年(1462)に池坊専慶が花を挿し、京都の人々の間で評判になったことが記されています。

六角堂の隣には華道・池坊流の本部である池坊会館があり、華道展や花供養など華道関係のイベントが年中行われています。

 

 

お地蔵さん

しだれ桜と、赤いよだれかけのお地蔵さん群が何とも圧巻のこちらは「地蔵山」と呼ばれています。

 

地蔵山の端の方にある「わらべ地蔵」は小さな子どもを護ってくださるとか。

 

池坊会館入口付近にあるのは、京都御所を守るために北を向いている「北向地蔵」

 

 

六角堂がこんなに桜がきれいだとは知りませんでした。特に雨あがりは格別の美しさでため息が出そうです。

こんなに見どころの多い六角堂ですが、拝観料が無料です!

最近はコロナ禍の人の移動制限も解除され、外国人観光客もたくさん来られていますし、お昼休みのサラリーマンや近隣の予備校生の休憩に、近所の方のお散歩にと、多くの方が様々な楽しみ方をされています。いけばなの聖地、また西国三十三ヶ所の第18番霊場にも名を連ねていることからも、京の中心として、都会のオアシスとして、人々の心を癒してくれるおすすめスポットです。

近くには京の台所「錦市場」や「錦天満宮」「蛸薬師」「誓願寺」など個性的な寺社仏閣もたくさんありますので、ぜひお土産を買うだけではない楽しみを見つけてみてください。

 

近隣のスポットを以下でもご紹介しています。

 

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