京都おすすめ散歩道

定番から穴場まで京都のお散歩コースを地元民の視点からご紹介

錦秋の嵯峨嵐山めぐり ②常寂光寺

嵯峨嵐山周辺は毎年テレビなどで特集が組まれるほどの紅葉の名所です。天龍寺渡月橋周辺の紅葉が美しいのはもちろんですが、今回はそこから徒歩15分ほどにある紅葉の名所をいくつかご紹介します。

今回は山の上の境内から嵯峨野を一望できる紅葉の名所、常寂光寺です。

 

 

常寂光寺の場所

goo.gl

 

常寂光寺の行き方

電車で

 ・JR嵯峨野線嵯峨嵐山駅」から徒歩約15分

 ・京福電鉄嵐山線「嵐山駅」から徒歩約13分

 ・阪急電鉄嵐山線「嵐山駅」から徒歩約24分

 

バスで

 ・京都市バス 11,28,93系統「嵯峨小学校前」下車 徒歩約8分 

 ・京都バス 62,67,72,92、94系統「嵯峨小学校前」下車 徒歩約8分

 

今回のスタートは清凉寺の近くにある宝筐院です。

宝筐院については前回のブログで詳しくご紹介しました。

 

宝筐院は清凉寺の西にある小さな寺院ですが、知る人ぞ知る紅葉の名所です。

写真左が宝筐院、右側の木が繁っているのが清凉寺です。どちらも渡月橋あたりから徒歩15分ほどです。

宝筐院の前の道を北へ進みます。

 

100m程進み、突き当りを西(左)へ曲がります。

 

西を向いたところです。正面に見えているのが、百人一首にも歌われている小倉山です。この道を西へ進みます。

 

200mほど進むと分かれ道があるので南(左)へ曲がります。

 

南へ曲がったところです。住宅街の道を南へ進みます。

 

大きな住宅が立ち並ぶ住宅街です。道なりに斜め右へ進みます。

 

道が3つに分かれています。石畳の道を西(右)へ曲がります。

 

西へ向いたところです。この道を西へ進みます。

 

行く先にのどかな田園風景が広がってきました。

 

石畳のところから60m程進むと、右手に「落柿舎」があります。

落柿舎は松尾芭蕉の弟子 向井去来の別荘として使用されていた庵です。「落柿舎」という名の由来は、庵の周囲の柿が一夜にしてすべて落ちてしまったことによります。芭蕉も3度訪れ滞在し、「嵯峨日記」を記した場所としても知られています。

 

現在も庵には柿の木が何本もあります。

 

落柿舎の前の道です。向こうに見えているのが小倉山です。

 

落柿舎の前の道を80mほど西へ進んだ突き当りに案内板があります。

 

案内板に従って南(左)へ曲がります。

 

南へ向いたところです。この道を60mほど進みます。

 

右手に案内板があります。案内板に従って西(右)へ曲がります。

 

西へ曲がったところです。ゆるやかな坂道を80mほど上がります。

 

突き当りが常寂光寺です。

 

常寂光寺とは

常寂光寺は、小倉百人一首で有名な小倉山の斜面にある日蓮宗の寺院です。慶長年間(1596~1614)に大本山本圀寺第16世日禎(にっしん)上人により隠棲の地として開創されました。仏教用語で理想郷を意味する常寂光土のような風情から常寂光寺と名付けられたそうです。境内からは嵯峨野を一望でき、境内の庭園には200本余りのカエデが植えられ、秋には全山が紅葉に包まれます。

 

さっそく中へ入って行きましょう。

仁王門

山門から紅葉に包まれた参道を上がっていくと仁王門があります。もと本圀寺客殿の南門として貞和年間(1345~49)に建立されたものを、元和二年(1616)に当山に移築され仁王門としました。境内建築物の中で最も古いものです。写真では分かりにくいですが、仁王門で茅葺屋根というのは珍しいそうです。仁王門像は運慶の作と伝えられ、目と足腰の病にご利益があるとされています。

 

病気平癒を祈願し、檀信徒からわらじを奉納され、門の脇にぶら下げられています。

 

仁王門から境内を見上げたところです。石段の周囲は苔に覆われ、紅葉と散紅葉、苔の緑が色鮮やかなハーモニーを奏でています。

この仁王門の北側に「時雨亭跡」とされる場所があります。藤原定家はここ小倉山に時雨亭という山荘を営み、ここで百人一首を編纂したので、「小倉百人一首」の名があるといいます。ただ、この時雨亭の場所は定かではなく、他にこの近くにある二尊院厭離庵にも時雨亭跡の候補地とされる場所があります。いづれにせよ、この小倉山を含む嵯峨野周辺は、平安時代以降、皇族や貴族が離宮・山荘を好んで営んだ景勝地でした。四季折々に美しい姿を見せるこの地は、本当に別荘や庵を構えるのにぴったりの場所であり、秀逸な和歌が多く詠まれたのも頷けます。

 

本堂

石段を上がり切ると本堂があります。慶長年間に小早川秀秋の助力を得て、桃山城客殿を移築して本堂としたものです。当時は本瓦葺の二層屋根でしたが、現在の平瓦葺きの屋根は昭和7年の大修理の時に改修されました。

 

本堂中庭の滝と周辺の石組みは江戸時代から変わらず、当寺の庭で最も古い時代の景観を保っているそうです。

 

本堂の横から更に山の斜面を登っていきます。

 

多宝塔

石段を登っていくと木々の間い多宝塔が見えて来ました。元和6年(1620)8月建立で、重要文化財に指定されています。

 

更に石段を登って、斜面の上から多宝塔を見たところです。紅葉に彩られた多宝塔とはるか向こうには嵯峨野の風景が広がっています。

 

この辺りが境内の一番高いところです。嵯峨野だけでなく京都市内が一望でき、遠く京都タワーまで見ることが出来ました。京都市内は高い建物が少ないので、高いところに上がると京都タワーが見え、方角の目印になります。

 

ここからまた斜面を下り、本堂の反対側へ下りて行きました。

紅葉の向こうにうっすらと多宝塔と京都市内が見えています。

 

鐘楼

本堂の反対側を回って降りて来ました。

鐘楼は寛永18年(1642)の建立ですが、梵鐘は第二次大戦中徴資に遭い、現在の梵鐘は昭和48年(1973)に新しく鋳造されたものです。毎日、正午と夕方五時に所定の数を撞くそうです。

 

鐘楼の更に奥の方にちょっとした休憩スペースがありましたが、前日の雨で濡れていて座れませんでした。この辺りの紅葉も見事です。

 

さきほどの休憩スペースを下から見上げたところです。

カエデの葉が赤、黄、緑のグラデーションになっています。

 

鐘楼を下から眺めたところです。何とも風情がありますね。

 

常寂光寺は今回初めて訪ねましたが、境内がこんなに山の上の方まであるとは知りませんでした。天龍寺などのように隙無く整えられた庭園ももちろん綺麗ですが、常寂光寺の庭園はとても自然な感じでした。(もちろんきちんと手入れされていると思いますが)沢山の石段を登るのはなかなか大変ではありますが、山上から眺める嵯峨野の風景はとても清々しく、古の人々が紅葉の名所として愛し、隠棲の地と定めたのも分かる気がしました。
先にご紹介した宝筐院はもちろん、すぐ近くには二尊院祇王寺などもあります。嵯峨嵐山にお越しの際には、是非足を伸ばしてみてください。

 

 

 

嵯峨嵐山周辺の見どころを以下でもご紹介しています。

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

 

錦秋の嵯峨嵐山めぐり ①宝筐院

嵯峨嵐山周辺は毎年テレビなどで特集が組まれるほどの紅葉の名所です。天龍寺渡月橋とその下を流れる保津川大堰川の紅葉が美しいのはもちろんですが、今回はそこから徒歩15分ほどの知る人ぞ知る紅葉の名所「宝筐院」を起点に、周辺のスポットをいくつかご紹介します。

 

 

宝筐院の場所

goo.gl

 

宝筐院の行き方

電車で

 JR嵯峨野線嵯峨嵐山駅」から北西へ徒歩約15分

 京福電気鉄道「嵐山駅」から北へ徒歩約15分

 阪急「嵐山駅」から北へ徒歩約25分

 

バスで

 京都市バス28系統 京都駅から約1時間「嵯峨釈迦堂前」下車 徒歩約3分

 

今回のスタートは京福電鉄「嵐山駅」です。11月下旬の紅葉シーズンに入りましたので、混みあう前にと朝9時より少し前にこちらをスタートします。さすがに観光客もまばらです。改札を出て駅前の長辻通を北(渡月橋と反対方向)へ向かいます。

 

 

長辻通を北へ向いたところです。このまま北へ進みます。

 

嵐山駅の向かい側(長辻通左手)には天龍寺があります。紅葉の時期は朝7時半から早朝参拝が出来、こちらも紅葉が見ごろですが、今回はパスして更に400mほど北へ向かいます。

 

長辻通を400mほど北へ進むとJR嵯峨野線の踏切に出ます。このまま北へ進みます。

 

更に進むと丸太町通に出ますので、信号を渡り更に北へ進みます。右前方に見えているのが嵯峨小学校です。嵯峨小学校の西側の道を更に北へ進みます。

 

丸太町通を渡り、嵯峨小学校の西側の道を300mほど北へ進みます。

 

300mほど進むと突き当りに清凉寺嵯峨釈迦堂があります。こちらも全国的にはあまり知られていませんが、見どころ満載の寺院です。

 

清凉寺については以下のブログで詳しくご紹介しています。JR嵯峨嵐山駅からの行き方も詳しく説明していますので、JR嵯峨嵐山駅から宝筐院へ行かれる方は、こちらをご参照ください↓www.yomurashamrock.me

 

清凉寺の前の道を西(左)へ曲がります。

 

西へ向いたところです。150mほど西へ進みます。

 

突き当りが宝筐院です。

 

宝筐院とは

平安時代白河天皇(1053~1129)により建てられ善入寺と名付けられました。

南北朝時代夢窓疎石の高弟 黙庵周論が入寺し、室町幕府二代将軍足利義詮の保護を得て伽藍が整備され、これ以降は臨済宗の寺院となりました。

義詮が没すると、善入寺はその菩提寺となり、義詮の院号に因み「宝筐院」と改められましたが、応仁の乱以降は経済的に困窮し衰退。明治の初めに廃寺となりましたが、その後50数年を経て、大正時代に復興されました。

宝筐院は、南北朝時代南朝を代表する武将、楠正行(くすのきまさつら 楠木正成の長男)の菩提寺でもあります。(楠正行は父親が「大楠公」と呼ばれたのに対し「小楠公」と呼ばれていました。)

正行が北朝との戦いで討ち死にし、生前交流のあった黙庵によりその首級(しゅきゅう・討ち取った敵の首)は善入寺に手厚く葬られました。黙庵を崇敬していた義詮は、自らも正行の傍らに葬るよう遺言したと言われています。そして、生前は敵同士であった足利義詮と楠正行が宝筐院に仲良く並んで葬られています。

書院から本堂周辺は白砂・青苔と多くの楓や四季折々の花のある回遊式の庭園が広がり、特に秋には見事な紅葉が楽しめます。

 

錦秋に染まる境内

ではさっそく入って行きましょう。

境内に入ってすぐ迎えてくれるのが、この色鮮やかな紅葉のトンネルです。赤や黄色に色づいた木々と苔の緑が映えて、まさに「錦秋」の名にふさわしい美しさです。

 

本堂前に小さな石庭のようになっているスペースがあり、白砂や石のモノトーンと紅葉の織りなすハーモニーが素晴らしかったです。

 

大正5年(1916)に宝筐院再興のための工事が完了し、その後茶室が移築、本堂が新築されたということで、かなり古いこぢんまりした本堂です。ご本尊は古仏の木造十一面千手観音菩薩立像です。

 

本堂の中から眺める庭園

 

本堂の西側は枯山水の石庭と紅葉の赤や黄色、そして青紅葉や苔の緑と色とりどりです。

 

本堂の東側

 

本堂脇の小道から庭園西側を覗くと、石畳と小菊の鉢植えが紅葉を引き立てています。

 

本堂側から先ほどの小さい石庭を撮影。境内はどこから見ても絵になります。

 

庭園の西端には楠正行(小楠公)と足利義詮墓所が。

生前は南朝北朝で対立した二人のお墓が今は寄り添うように仲良く並んでいます。

 

散紅葉の絨毯も前日の雨でより色が冴えています。

宝筐院は清凉寺のすぐ近くにありますが、山門が小さいため、うっかりすると見過ごしてしまいそうなさりげなさです。紅葉の名所なのは知っていましたが、紅葉シーズンに訪ねたのは初めてでした。こじんまりとした境内は、どちらを向いても黄金色や赤の紅葉の錦に包まれるような圧巻の美しさでした。周辺には清凉寺だけでなく、このあと訪れる紅葉の名所がまだまだたくさんありますので、嵯峨嵐山へお越しの際は、是非宝筐院もコースに加えてみてください。

 

次回は常寂光寺をご紹介します。

 

 

嵯峨嵐山周辺の見どころを以下でもご紹介しています。

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

 

 

相国寺 ~秋の特別拝観 法堂・方丈・開山堂

京都御所の北に位置する相国寺は、京都のど真ん中にありながら、「しょうこくじ」と正確に読めて、どんな寺院なのか詳しく知っている京都人は少ないかもしれません。重厚な堂宇が林立する境内は禅宗寺院特有の凛とした空気感が漂い、無料で拝観できるスペースだけでも十分見ごたえがあります。更に秋と春の特別拝観では、普段見ることのできない美しい庭園や重要文化財に触れるチャンスです。11月に入り、紅葉も見ごろになってきたかな、と思い訪ねてみました。

 

相国寺の場所

goo.gl

 

相国寺の行き方

電車で

 地下鉄烏丸線今出川駅」下車 徒歩6分

 

バスで

 京都市バス 

  51、59、201、203、急102系統

  「烏丸今出川」下車 徒歩7分

 京都市バス 

  59、201、203系統   

  「同志社前」下車 徒歩6分

 

 

相国寺を以前訪ねた際の記事です。歴史や諸堂,寺宝を集めた美術館を詳しく紹介しています。

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

 

 

 

今回のスタートは、地下鉄烏丸線今出川駅」です。

北改札から出る行き方もありますが、今回は南改札から出るルートをご紹介します。

改札を出たら左手へ向かいます。

 

南改札を出ると目の前に売店があります。売店の横を通り、3番出口へ向かいます。

 

表示の向こうにある階段を上がります。

 

階段を上がり切ると、烏丸今出川の交差点に出ます。今出川通沿いを東(左)へ向かいます。

 

今出川通です。右手の木が繁っているあたりは京都御所です。今出川通を東へ進みます。

 

今出川通を250mほど進むと、右手に京都御所今出川御門が見えます。

 

今出川御門の前の道を北(左)へ曲がります。

 

今出川御門の前の道を北へ向いています。左手が同志社大学、右手が同志社女子大学のキャンパスです。この道を北へ150mほど進みます。

 

相国寺の総門に到着です。

 

今回はこの特別拝観を目当てに訪ねます。

 

禅宗様建築の配置は、三門、仏殿、法堂、方丈が南北にまっすぐ並んで建てられるのが特徴で、相国寺も創建当時はそのような配置だったそうです。しかし、度重なる戦火や火災で三門や仏殿は焼け落ち、再建されませんでした。それでも、法堂の北には今も方丈があります。

 

相国寺とは

相国寺は正式名称を萬年山相国承天禅寺と言い、本尊は釈迦如来像です。室町幕府3代将軍足利義満の命により、当時「花の御所」と呼ばれた幕府の東側に創建されました。のちに京都五山の第二位に列し、五山文学の中心となって多くの学僧を輩出しましたが、相次ぐ火災や戦災で諸堂を焼失。法堂は豊臣秀頼が慶長年間に再建したもので、現存最古かつ最大級の法堂建築です。12の山内塔頭のほか、金閣寺銀閣寺、真如寺の3カ寺を山外塔頭としています。

相国寺の「相」は宰相、首相などと同じく「しょう」と読みます。「相国」とは国をたすける、治めるという意味で、中国からきた名称ですが、日本でも左大臣の位を相国と呼んでいました。足利義満は当時左大臣つまり相国であることから、相国寺と名付けられました。また、義満の時代は中国では明の時代で、中国に大相国寺という中国における五山制度の始まりのお寺がありました。この大相国寺の寺号を頂いて「相国寺」と名付けられたのです。

総門を入ってすぐ左手にあるのが放生池です。池にかかる石橋を「天界橋」と言います。「天界」とは相国寺と御所との中間に境界線の役目をはたしていることから名付けられました。

 

総門から入り、放生池の横を通って参道を北へ進むと、左手の赤松の林の向こうに法堂があります。看板に従って更に北へ進みます。

 

今回特別拝観できる開山堂と法堂をつなぐ通路の前にも「特別拝観」の看板が出ています。この通路を抜けて更に北へ進みます。

 

通路を抜けて西(左手)にあるのが法堂と方丈です。まず方丈の手前にある拝観受付で拝観料を納めます。

 

拝観料を納めたら、方丈の南側にある法堂へと向かいます。

 

法堂の裏側になります。法堂は正面28,72m、側面22.80mの堂々たる大きさです。

写真中央の入口から入ります。

法堂の初建は明徳2年(1391)ですが、以降4度の火災に見舞われ、現在の建物は慶長10年(1605)に豊臣秀頼の寄進により再建されました。禅宗様の法堂建築としては最大級で最古を誇ります。本来は法を説く講堂的役割を果たしていますが、天文20年の石橋の乱で仏殿が焼け落ちて以来、仏殿も兼ね、本尊を安置することから本堂とも呼ばれています。

重要文化財に指定されている法堂の内部は写真撮影不可でした。

 

須弥壇(シュミダン)

写真:相国寺公式サイトより

薄暗い堂内に入ると、正面に高い階段を三方にそなえた須弥壇(しゅみだん)があります。その中央には本尊釈迦如来、脇侍は向かって左に阿難尊者(あなんそんじゃ)、右に迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の像が祀られています。

 

写真:相国寺公式サイトより

相国寺の法堂で特に有名な「蟠龍図(ばんりゅうず)」が天井に描かれています。この龍の目を見ながら、法堂内の須弥壇の周囲をぐるっと歩いて回ると、どちらから見ても龍と目が合うことから「八方にらみの龍」と呼ばれています。

そして、法堂の中心あたりの特定の場所で手を叩くと、その音が堂内に反響し、カラカラと音が鳴ります。その音が龍の鳴き声のように聞こえることから「鳴き龍」とも呼ばれています。

私も所定の位置で手を叩いてみるとパンという音に続いて、カラカラというよりは、パラッパラッという反響音が降ってくるようでした。もっと力強いものを想像していましたが、確かに天から降ってくる音の感じが龍なのかな?龍にしては優しい声だな…と思いました。

帰宅してから調べてみると「ビーン」とか「ビョーン」と聞こえるという記述もみられ、手を叩く位置がずれていたのかもしれません。

禅宗の法堂の天井にはよく龍が描かれています。蟠龍とは、天井に昇る前の地上にうずくまっている状態の龍のことで、相国寺の法堂が建立された慶長10年に、狩野光信によって描かれたと言われています

 

方丈

さて、次は方丈(京都府指定有形文化財)です。

相国寺の方丈は、初建以来幾度も焼失して現在の建物は、天明の大火を経て文化4年(1807)に開山堂、庫裏と共に再建されました。桁行25m、梁間16mで方丈としては大規模な建築です。

 

法華観音図

方丈とは本来、住職の住まいを指します。この方丈の室中の間に観音菩薩の掛け軸がかかっています。この絵は、江戸時代の遠塵齋によって描かれたもので、すべて法華経の経文の文字によって描かれています。

 

動植綵絵

毎年6月17日には、この方丈で観音菩薩に自己の罪業を懺悔する伝統的な儀式「観音懺法」が行われます。相国寺と縁の深かった伊藤若冲により寄贈された文殊普賢菩薩と、複製された動植綵絵30幅が掛けられます。

 

表方丈庭園

白砂敷きの枯山水庭園で、禅の境地「無」を表現しているそうです。白砂は太陽の反射を利用して室内を明るく照らし、また庭園の後ろにある法堂の姿を立派に浮き立たせる効果もあるようです。枯山水を横切る石畳の模様が斜めのチェックになっていて、モダンに感じられました。

 

原在中の杉戸絵

方丈の廊下の杉戸には、原在中の「白象図(複製)」があります。江戸時代の絵師、原在中は方丈の障壁画も多く描いていますが、深山幽谷を描いたモノクロの障壁画とは趣が異なるこの杉戸絵の白象は、優しい表情と傾げた首がユーモラスで、見ていると思わず笑みがこぼれます。

 

裏方丈庭園

白象の杉戸絵の角を曲がると、裏方丈庭園に出ます。細長い敷地の中に、大きな掘り込み状の枯流れ(かれながれ:水を使わないで流れを表現したもの)が東西に横長に広がり、実際以上に広さと奥行を感じさせます。そしてその後ろにはモミジやマツなどが植えられ、枯流れの斜面には苔が貼られ、流れの底には小石が敷かれています。

 

水を使わない枯山水風の庭でありながら、流れが大きく掘り込んであり、滝石組も奥にあるので、一瞬本当に水が流れているような錯覚に陥ります。深山幽谷を巧みに表現した非常に個性的で見ごたえのある庭園でした。裏方丈庭園は京都市の名勝に指定されているのも頷けます。

 

開山堂

最後に開山堂(京都府指定有形文化財)を拝観します。

開山堂(開山塔)は、相国寺を開山した夢窓国師像を安置しています。創建当初の建物は応仁の乱で焼失し、現在の建物は江戸時代後期に桃園天皇の皇后恭礼門院の黒御殿を賜って、文化4年(1807)に移築されました。

 

開山堂前庭

こちらの庭園は白砂が敷き詰められた手前の庭に石を、奥に奇岩を配した樹木が植えられています。方丈のように本来表と裏の二つに分かれている禅宗の庭が一つになった珍しい庭の形態だそうです。創建当時、上賀茂から水を引き、ちょうどこの庭の中を通して御所に流してご用水としていたため、変則的な造りになったそうで、「龍渕水の庭」とも呼ばれます。

 

石庭のモノトーンと背後の植木の紅葉が見事なコントラストをなしています。

裏方丈庭園とはまた趣きの異なる、心落ち着く上品な庭園でした。

 

鬼瓦探し

特別拝観の受付前にこんな掲示が。相国寺内の建物の屋根にある鬼瓦のどこかに、額に☆のある鬼瓦があるそうです。さっそく探してみました。

 

相国寺の諸堂はどれもとても大きいので、鬼瓦も非常に高いところについています。探しながら見上げていると首が痛くなり、もうダメ…と諦めかけた時に、やっと見つけました!

スマホで撮影したので、これがいっぱいいっぱいです。どこにあるかは、ここに書くとクイズにならないので、自力で探してみてくださいね!

 

開山堂前におられた係の方に写真を見せながら「見つけた」と告げると、粗品を下さりました。ちょっといいことありそうで嬉しかったです。




相国寺京都五山二位に列する由緒正しき大寺院ですが、室町幕府の隣という京のど真ん中という立地ゆえ、幾度も戦火や火災に見舞われ、その文化財の多くが焼失したそうです。そのため、寺院としての歴史を記した古文書類も焼けてしまい、相国寺についての詳しい歴史があまり表に語られませんでした。高い寺格のわりに、山外塔頭金閣寺銀閣寺ほど注目も観光地化もされなかったのは、そんな経緯からなのでしょう。

ですが、今回訪ねた法堂や方丈、開山堂の寺宝や庭園の数々は、他に類を見ない独自の美しさと趣きがあります。京都御所からもすぐの場所にありますので、機会があれば是非足をお運びください。

2022年秋の特別拝観は12月11日までです。詳しくは相国寺の公式サイトをご確認ください。

 

 

 

京都御所周辺には徒歩圏内におすすめスポットがたくさんあります。

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

 

智積院 ~歴史の因縁を感じる国宝障壁画と名勝庭園

京都の有名な観光地で修学旅行でもおなじみの三十三間堂から徒歩5分、七条通の東の端にあるのが智積院(ちしゃくいん)です。広大な境内は美しく整えられ、名勝庭園や国宝の障壁画など見どころ満載です。11月に入り京都も紅葉シーズンを迎え、混雑が予想されますが、ここ智積院は驚くほど静かな穴場スポットですので、是非ご紹介したいと思い訪ねてみました。

 

 

智積院の場所

goo.gl

 

智積院の行き方

電車で

京阪電車七条駅」から徒歩約10分

・JR/京阪「東福寺駅」から徒歩約15分

京阪電車清水五条駅」から徒歩約20分

 

バスで

・京都駅から市バス206・208・86・88系統で約10分「東山七条」から徒歩3分

 (京都駅から「東山七条」へは100・106・110系統もありますが、現在運行が休止されています。詳しくは京都市交通局の公式サイトでご確認ください)

 

今回のスタートは京阪「七条駅」です。

改札を出たら右手へ向かいます。

 

右手へ向いたところです。案内板に従って二番出口への階段へ向かいます。

 

この階段を上ります。

 

階段を上がり切ると、七条通に出ます。マクドナルドの角を東(右)へ曲がります。

 

マクドナルドの角を東へ曲がると右手が七条通です。七条通沿いを東へ進みます。

 

七条通のゆるやかな坂道を300mほど進むと大和大路七条の交差点に出ます。七条通を挟んで右手が三十三間堂、左手が京都国立博物館です。このまま七条通の坂を更に250mほど東へ進みます。

 

七条通の東の突き当り、東大路通と交差する地点まで来ました。道の向こうに見えているのが智積院の総門ですが、普段こちらからは入れません。

 

信号を渡り、東大路通沿いを南(右)へ進みます。

 

東大路通を80mほど進むと、こちらが智積院の入口になっています。

 

智積院とは

智積院真言宗智山派の総本山で、全国に約3000の末寺があります。

真言宗弘法大師空海によって開宗され、空海高野山真言密教を広める道場を開きます。空海の死後約300年が経ち、平安末期になり真言宗は衰退しますが、鳥羽上皇の信任を得た興教大師覚鑁上人(こうぎょうだいしかくばんしょうにん)が高野山に学問所を開き真言教学を再興しました。しかし教義上の対立から覚鑁高野山を去り、紀州和歌山県根来寺(ねごろじ)に移ります。根来寺は最盛期の戦国時代には2700余りの坊舎、約6000人の学僧を擁し多数の塔頭寺院が建立されました。その中でも智積院真言教学を学ぶ学僧の学問所として隆盛。その学僧を補佐し護衛を勤める者たちは最新兵器の鉄砲を駆使する「根来衆」と呼ばれ、根来寺隆盛の原動力となっていました。

この根来衆が、小牧長久手の戦いのとき、徳川家康に加担したため、豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585)、根来寺豊臣秀吉に全山を焼き払われます。そして智積院の最高指導者 玄宥(げんゆう)僧正は、根来の再興を願いつつ多くの学僧と共に高野山、京都と難を逃れていました。

その後、元和元年(1615)徳川家康は、秀吉が愛児鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺を智積院の住職に寄進したことから智積院が再興し、現在に至っています。祥雲禅寺は天和2年(1682)の火災で焼失しましたが、その客殿を飾っていた長谷川等伯筆の障壁画は持ち出され、現在は智積院に保管されています。また、名勝庭園も祥雲禅寺から引き継がれ修復されたものです。秀吉に排斥された智積院ですが、その秀吉ゆかりの祥雲禅寺の地へ移り、また秀吉の命により描かれた国宝の障壁画を現在まで引き継いでいるというのも、歴史の不思議な因縁を感じますね。

 

 

広大な境内です。

さっそく中へ入っていきましょう。

 

 

木造の冠木門は弘法大師千百五十年御遠忌を記念し、昭和59年(1984)に智積院檀徒より寄進されたそうです。

周囲の木々が色づき始めていますね。

 

美しく整えられた境内を進みます。

 

智積院は、金堂や明王殿など無料で参拝することが出来ますが、国宝の障壁画が納められている収蔵庫と名勝庭園は拝観料が必要です。受付で拝観料を納めます。

 

拝観受付のすぐ西隣にあるのが収蔵庫です。

この中に国宝の長谷川等伯筆障壁画がありますが撮影不可でした。

 

国宝 長谷川等伯の障壁画

収蔵庫には長谷川等伯一門による「桜図」「楓図」をはじめとする桃山時代の数々の障壁画が大切に収められています。

 

国宝「桜図」(写真:智積院公式サイトより)

長谷川等伯の子・久蔵25歳の時の作と言われています。金箔をふんだんに使った絢爛豪華な背景に、力強い桜の大木を描き、絵具を盛り上げる手法を用い、桜の花びら一枚一枚を大胆に表現しています。残念なことに、久蔵はこの作品を仕上げた翌年に亡くなりました。

 

国宝 「楓図」

「桜図」完成の翌年に亡くなった、息子久蔵の突然の死を悲しみ、創作意欲を失いかけた長谷川等伯でしたが、息子の分まで精進しようと自らを鼓舞し、この絵を描き上げたと言われます。桜図と同様、豪華な金箔の背景に、楓の古木が枝をいっぱいに広げ、その下には様々な草花が見事に配されています。

 

この他に「松に秋草図」(国宝)などの国宝や重要文化財の障壁画が収蔵され、華やかな桃山文化の雰囲気が見て取れます。400年以上前のものなので、金箔もところどころ剥げ、木々の色も色あせてはいますが、それでもこれだけ大きな障壁画が幾多の火災などの困難をくぐりぬけ、多くの関係者の苦労によって大切に受け継がれ、目の前で鑑賞することが出来る幸せを感じました。

 

名勝庭園

収蔵庫の西の奥にあるのが、講堂、大書院と名勝庭園です。

 

講堂は、灌頂道場や各種研修の道場として使用されています。現在の建物は、平成4年(1992)の興教大師覚鑁上人850年御遠忌記念事業として計画し、平成7年(1995)に完成したものです。

 

講堂の広縁の前には高浜虚子の句碑が。「ひらひらと つくもをぬひて 落花かな」

この句は昭和5年4月に虚子が参拝した時に作られました。「つくも」とは高さが1~2mの池沼に生える多年草の太藺(ふとい)で、かつて智積院の池にたくさん生えていたことがわかります。

Scirpus tabernaemontani hutoi01.jpg

フトイ(写真:Wikipediaより)

 

高浜虚子の句碑を通り過ぎ、講堂の角を曲がると、庭園が見えてきました。

 

「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺時代に原形が造られており、智積院第七世運敞(うんしょう)僧正が修復、東山第一の庭と言われています。中国の廬山をかたどって土地の高低を利用して築山を造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化をつけており、築山・泉水庭の先駆となった貴重な遺産と言われています。講堂に隣接する大書院(おおじょいん)はこの庭園に面して建ち、この大書院より眺めることが出来る庭園は、四季折々の美しさです。私が訪れた11月初旬は色づき始めた紅葉と刈り込まれた植木の緑が池の水面に映え、すっと見ていても見飽きない美しさでした。ツツジやサツキが咲く頃は一段と華やぎを増します。

 

この名勝庭園に面して建てられた大書院の縁側の端に、「SOUND TRIP」という体験スペースがありました。これは、アーティストがお寺や神社で実際に音を収録し、土地に根付く音を使った、ここでしか体験できない「物語のある音楽」をつくるプロジェクトです。私も体験してみました。利用料金(300円)をボックスに入れ、丸いクッションに座り、ヘッドフォンをつけて再生ボタンを押すと6分30秒間、智積院の内外で収録された様々な音が聞こえてきます。それは智積院の修行僧の朝のお勤めの読経の声や鳥たちのさえずり、水や風の音など境内の中の音だけでなく、智積院が面している東大路通の交通の音なども含まれています。目の前に広がる清々しい緑の庭園を見ながらこの音楽を聞き、音楽が終わってヘッドフォンを外すと、また鳥のさえずりが聞こえてきました。「SOUND TRIP」を体験する前と後とでは、そんなさりげない音が、ずっとくっきりと心に響いてくるように感じられました。

 

大書院には、先ほど収蔵庫で見た障壁画のレプリカが展示されています。レプリカなので、どうも安っぽい感じは否めませんが、金箔を背景にした色鮮やかな絵に、当時の人たちが障壁画に囲まれた時の驚きや感動は想像できました。

 

金堂など

さて、見ごたえ充分の庭園を鑑賞した後、一旦講堂の外に出て、境内の奥にある金堂へと向かいます。金堂は、総本山智積院の中心的な建物で、弘法大師ご生誕千二百年の記念事業として昭和50年に建設されました。堂内には本尊大日如来の尊像が安置され、朝の勤行、総本山としての多くの法要がここで行われます。

 

金堂を側面から見た写真です。スケールの大きさが伝わるでしょうか。

 

不動明王を安置する明王殿

 

楓に囲まれた鐘楼堂

 

明王殿~鐘楼堂周辺の池泉回遊式庭園

 

境内にはこのほかにも不動明王を本尊とする明王殿や鐘楼堂、弘法大師空海の尊像を安置する大師堂など大小様々な堂宇や、あじさい園や明王殿沿いの池泉回遊式庭園など、無料で拝観できるスポットも多数あり、四季折々に彩る草花も迎えてくれます。

 

京都人でも、地元の人以外にはあまり知られていない智積院は、本当に穴場のおすすめスポットでした。近くには三十三間堂京都国立博物館、豊国神社などもあり、文化財の宝庫でもあります。京都駅からのアクセスも良く、市バスを使ったり徒歩でも清水寺祇園などの有名な観光エリアにもすぐ行くことが出来ます。機会があれば是非足をお運びください。

 

 

嵯峨野古墳群めぐり② ~嵯峨野開拓のパイオニア 古代豪族の足跡

観光客で賑わう嵯峨嵐山から徒歩20~30分の嵯峨野周辺には、古墳群があちこちに点在しています。地元の人にとっては、田園風景の一部として溶け込んでしまっているのですが、実は古の京都を切り拓き、平安京の大スポンサーとなった渡来系豪族の古墳群なのです。今回は、考古学者の加納敬二先生ガイドのもと、ブラタモリタモリさんも訪れた古墳群などを巡るツアーに参加してきました。

このブログはそのツアーの後半です

 

今回は「まいまい京都」が企画する「嵯峨野 考古学者と古墳にコーフン!石室の内部を探検しよう~古代豪族のびっくり土木技術!古墳が密集する聖地、10の古墳めぐり~」というツアーに参加しました。「まいまい」とは「うろうろする」という意味の京ことばで、「まいまい京都」では、600人を超える各分野のスペシャリストが独自の視点でガイドする京都や近郊のミニツアーを多数実施されています。

 

www.maimai-kyoto.jp

 

 

 

嵯峨野の古墳群

嵯峨野中心部の古墳は、渡来系豪族 秦氏(はたし)の太秦蜂ヶ丘(現広隆寺)を中心に、6世紀のものとしては全国でも有数の古墳群となっています。詳しい記録は残っていないようですが、この辺りを本拠池とした秦氏一族の墓といわれています。

 

コースルート

1.宇多野ユースホステル 集合

2.音戸山古墳群

3.移築御堂ヶ池1号墳

4.印空寺古墳

5.山越古墳群

6.嵯峨七ツ塚古墳群

7.入堂塚古墳

8.圓山古墳 解散

☆ おまけ 狐塚古墳


このブログでは後半の5~8までをご紹介します。

 

前半の1~4については前回のブログをご参照ください↓

www.yomurashamrock.me

 

 

今回のお散歩のコース

www.google.com

 

 

今回のスタートは印空寺古墳です。

goo.gl

一条通沿い、千代の古道の石碑の北側に印空寺があり、その東側の木がこんもりと茂ったあたりが「印空寺古墳」です。山越古墳群の一つで直径25m、高さ4mの円墳で、主体部は横穴式石室だそうです。

 

印空寺古墳の西隣に印空寺があります。

 

 

印空寺を後にして、一条通を更に西へ300mほど進みます。

 

広沢池に到着です。平安時代中期に寛朝僧正が朝原山の麓に遍照寺を建立した時に開削した池と伝えられていますが、嵯峨野一帯を開墾した秦氏が造成した溜池という説もあるそうです。平安時代は観月の名所として貴族が訪れ、多くの歌を詠み、松尾芭蕉も「名月や池をめぐりて夜もすがら」という句を残しています。

 

山越古墳群

広沢池の東に隣接する「平安郷」は、宗教法人世界救世教いづのめ教団が管理する一般非公開の広大な庭園です。今回はツアーのため特別な許可を得て入場できたようです。

 

敷地面積は約3万坪もあり、春や秋に数日間限定で一般公開もされているようですが、現在はコロナ禍でもあり公開は休止されています。

 

入場するとすぐ竹林があり、とても風情があります。

 

春や秋の一般公開の際は、野点会場が設けられ、お抹茶とお茶菓子が数量限定ですが無料でふるまわれるそうです。

 

この平安郷の敷地内の東に広がる東山にも古墳群があります。

 

ゆるやかな坂道を登って行きます。

 

崖の上にこんもりと三つの円墳(①左、②右、③奥の3基)があります。山越古墳群13,14,15号墳(順不同)です。加納さんによると三つの古墳は秦氏のもので、恐らく3人の近しい親族(親子や兄弟など)の墓なのではないかということでした。

 

手前が3基の古墳のうち一番大きな古墳③で直径が13mもあるそうです。この写真は古墳③の頂上付近から、古墳①を見下ろしたところです。「古墳の上に立って見ることが出来るなんて!」と一同大興奮。

 

先ほどの三つの古墳の後方、更に崖の上に、様々な種類の大きな石が。これらは古墳を造るために色々な所から集められたものの、何かの規定からは外れ最終的に使われなかった石だろうとのことでした。石の博覧会みたいですね。十分立派な石たちなのですが、残念ながら古墳にはなれずに残されたということなんですね…

 

嵯峨七ツ塚古墳群

さて、平安郷を後にして、再び広沢池の南東に戻って来ました。一条通を西へ向かいます。

この辺りは歴史的風土保存特別地区に指定され、美観や歴史的風情が保たれています。電柱なども無いので、平安時代とまではいかなくても昔話に出て来そうな風景が広がっています。

 

広沢池の西にある児(ちご)神社の北側の小道を北西へ向かいます。

 

広沢池の西に広がるのどかな風景の中、北西へ進んでいきます。

 

嵯峨七ツ塚古墳群(4号墳)です。農地一帯にこんもりと7基が点在していましたが、うち6基が今も残っているそうです。耕作によって墳丘の周囲が蚕食され、正確な規模は測定できませんが、いずれも直径20~30m程度の円墳だそうです。

 

大覚寺古墳群(入道塚古墳、圓山古墳)

嵯峨7ツ塚古墳群から更に西へ5分ほど行くと、京都府北嵯峨高校があります。

この高校には、なんと敷地内外に古墳があるんです!

 

北嵯峨高校の東に隣接した敷地に佇むのが入道塚古墳です。こんもりとした低い丘の上に大きな石が数個、ゴロゴロとあります。

 

加納さんとの対比で石の大きさが分かりますね。加納さんの左にある巨石①が古墳の天井石で、写真左下の穴②が石室の入口です。こちらは横穴式石室をもつ、方墳だそうです。方墳は秦氏は使わないそうで、加納さんによると方墳は出雲系の豪族によるものではないか、ということです。

北嵯峨高校のグラウンドには「南天塚古墳」という古墳が地中に保存されているそうで、雨の日などはその形がぼんやりと浮かび上がるということです。

古墳の上で体育の授業や部活が行われているなんて、びっくりですね!

 

北嵯峨高校の西側に回ってきました。フェンスの向こうは高校のグラウンドです。

グラウンドに隣接して木がこんもりと生い茂って小山のように見えるところが圓山古墳です。京都でも有数の大型横穴式石室があり、直径が55mもあるそうです。

 

住宅街を北上し、圓山古墳の北西側からの写真を撮りました。手前の住宅との対比で、その大きさが分かるでしょうか。

 

住宅街を通り抜け、大覚寺の大沢門前に出て来ました。今回のツアーはこれで終了。アンケートを記入し、加納さんから次回のツアーのご案内の告知などがあり解散となりました。

 

おまけ 狐塚古墳

解散前に、加納さんの以前のツアーにも参加された方が、その時訪れた古墳について質問されていました。今回のツアーの予定にも入っていたのですが、時間の都合で割愛されたようで、私も気になっていました。ちょうど、帰り道の途中にあるということで、その方と一緒にもう一つ、古墳を探しに足を伸ばしました。

タモリさんも見学した「狐塚古墳」です。当時は竹藪の中にあり、特別な許可無しには入れなかったそうですが、古墳の外側から石室の入口は見えたそうです。直径20m程度の円墳で、横穴式石室だそうです。現在は周囲にマンションや住宅が建ち、フェンスで囲まれてしまってこの写真を撮るのがやっとでした。もう木や草が生い茂って、石室の入口も確認できなくなってしまいました。

 

今回、このツアーに参加して、平安時代よりもっと昔の4世紀末頃に日本にやってきた渡来人、秦氏のすごさを実感しました。近くにある「太秦(うずまさ)」という地名が示すように、この辺りは元々秦氏が切り拓いてきた土地だったのです。

秦氏は、土木や養蚕など、当時の最先端の技術を使って、自然の地形を見事に生かしながら、この地を住みやすい豊かな土地へと開拓していきました。そして、その秦氏の開拓の証の一つが、今回ご紹介した古墳群なのです。重機やクレーンなども無い時代にあれほどの巨大な石を運び、石室を作り上げるには、どれだけ多くの技術力と労働力が必要だったことでしょう。それが出来るだけの力があったということが、大きな石が残る古墳群を間近に見て肌で感じることが出来ました。

京都というと、日本のルーツというか、日本で一番日本らしさを感じられる場所、というイメージですが、その日本らしい京都の風景を作ったのが、秦氏を始めとする渡来系豪族だったというのが、とても興味深いな…と思いました。もともとは大陸からやってきた人々ですが、日本の自然と格闘し、開発や開拓をする中で、日本の土着の文化も吸収し(巨石への自然信仰など)文字通り帰化していったのでしょう。そんな古代豪族の努力と智惠の恩恵を受けて、嵯峨野や嵐山は発展してきたのですね。

 

コロナ禍の行動制限がほぼ撤廃され、嵯峨・嵐山周辺も国内外の観光客で賑わってきましたが、ちょっと足を伸ばすと、昔ながらののどかな田園風景が広がり、古墳群を間近で見ることができます。一味違った嵯峨野めぐりをされたい方にお勧めのお散歩コースでした。

 

 

参考文献

『京都嵯峨野誕生物語』NPO法人さらんネット 2018年

平安京以前ー古墳が造られた時代ー』京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課 2012年

『千代の古道2 ~文化財と遺跡を歩く~ 京都歴史散策マップ』京都市(㈶京都市埋蔵文化財

ブラタモリ⑦京都(嵐山・伏見) 志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』株式会社KADOKAWA 2017年

 

嵯峨嵐山周辺の見どころはこちら

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

 

嵯峨野古墳群めぐり① ~古代豪族の技術と権力に大興奮!

観光客で賑わう嵯峨嵐山から徒歩20~30分の嵯峨野周辺には、古墳群があちこちに点在しています。地元の人にとっては、田園風景の一部として溶け込んでしまっているのですが、実は古の京都を切り拓き、平安京の大スポンサーとなった渡来系豪族の古墳群なのです。今回は、考古学者の加納敬二先生ガイドのもと、ブラタモリタモリさんも訪れた古墳群などを巡るツアーに参加してきました。

 

今回は「まいまい京都」が企画する「嵯峨野 考古学者と古墳にコーフン!石室の内部を探検しよう~古代豪族のびっくり土木技術!古墳が密集する聖地、10の古墳めぐり~」というツアーに参加しました。「まいまい」とは「うろうろする」という意味の京ことばで、「まいまい京都」では、600人を超える各分野のスペシャリストが独自の視点でガイドする京都や近郊のミニツアーを多数実施されています。

 

www.maimai-kyoto.jp

 

 

 

嵯峨野の古墳群

嵯峨野中心部の古墳は、渡来系豪族 秦氏(はたし)の太秦蜂ヶ丘(現広隆寺)を中心に、6世紀のものとしては全国でも有数の古墳群となっています。詳しい記録は残っていないようですが、この辺りを本拠池とした秦氏一族の墓といわれています。

 

コースルート

1.宇多野ユースホステル 集合

2.音戸山古墳群

3.移築御堂ヶ池1号墳

4.印空寺古墳

5.山越古墳群

6.嵯峨七ツ塚古墳群

7.入堂塚古墳

8.圓山古墳 解散

☆ おまけ 狐塚古墳


このブログでは1~4までをご紹介します。

 

今回のお散歩のコース

www.google.com

 

京都宇多野ユースホステルを出発し、嵯峨野の古墳群をめぐり約2.2㎞を歩きます。

宇多野ユースホステルの場所

g.page

 

京都宇多野ユースホステルの行き方

バスで

 JR京都駅から京都市バス26系統で約45分「ユースホステル前」下車徒歩1分

 

電車で

 JR嵯峨野線・山陰線で約11分「花園駅」下車し、駅よりタクシーで約6分

 

 

今回のスタートは京都宇多野ユースホステルです。

京都宇多野ユースホステルは、国際ユースホステル連盟から「世界で最も居心地のよいユースホステル」に3度も選出されています。金閣寺龍安寺、嵐山や太秦映画村にも近い立地で、京都観光の拠点としても便利です。「まいまい京都」の事務局も、こちらにあります。

 

9時30分に京都宇多野ユースホステルのロビー集合。参加費を払い、注意事項等を聞いたら、さっそく出発です。今回参加者は10名ほどでした。

今回のツアーの講師は考古学者の加納敬二さん。京都市考古資料館に勤め、35年にわたり平安京跡や鳥羽離宮跡などの発掘・研究に従事され、嵯峨大念仏狂言にも20年以上関わっておられるそうです。

 

ユースホステルを出たら住宅街の中の道を北へ向かいます。

 

音戸山古墳群

徒歩2分ほどで最初の目的地 音戸山古墳群に到着です。この大きな石は、元々は古墳の石なのだそうです!写真に写っている場所は草がぼうぼうですが、この周辺は家が建っています。つまりこの辺りのおうちは古墳の上に建っているということ。「お墓の上に住んでるなんて怖くないのかな?」とも思いますが、古来より日本では石には神が宿るとされ、このような石の上に家があるのは、むしろ神様に家を護っていただけて安心ということなのだそうです。

音戸山古墳群は鳴滝地区の音戸山から延びる丘陵の端部に、直径約10mの円墳14基と一辺9m~13mの方墳3基合わせて17基からなる古墳群です。1983年の宅地造成に伴い、4基の古墳発掘調査が実施され、埋葬施設はいずれも横穴式石室で、石室内部から副葬品の土器類と家形石棺の破片が発見されました。

 

音戸山古墳を後にして、ユースホステルの北側の道を西へ向かいます。この辺りのおうちもおそらく古墳の石の上の建っているようです。

 

音戸山古墳群から西へ徒歩3分ほどで府道宇多野嵐山山田線に合流、この辺りの丘も古墳だったかも…?更に西へ向かいます。

徒歩2分ほどで一条山越通の交差点に到着。山越通を南(左)へ曲がります。

 

山越通の左手に木々に覆われた丘があります。

 

移築御堂ヶ池古墳1号墳

現在こちらは京都市が管理しており、京都市文化財保護課の許可なく入ることは出来ませんが、今回は見学の許可を得て中へ入れていただきます。

青いパーカーの男性が今回の講師、加納さんです。

 

鬱蒼とした森の中をずんずん上がって行きます。

 

今回のツアー最大のハイライト、移築御堂ヶ池古墳1号墳に到着です。

くさむらに埋もれるように入口だけ姿が見えていますが、直径30mもある円墳で京都市内最大級の円墳です。かつてこの場所より北方の御堂ヶ池(おんどがいけ)というため池を囲むように20基を超える古墳群があり、昭和30年代後半にかけてこの一帯に道路敷設と宅地造成の工事が計画され、一部の古墳は未調査のまま破壊され、残りの古墳も破壊されそうになりました。それに対し、地元住民などによる保存のための署名運動もあり、最大規模のこの1号墳は現状保存されました。その後保存されていた1号墳も開発の対象になり、京都市が管理する「さざれ石山」に移築されました。それがこの古墳です。

 

さっそく石室の中に入っていきます!

 

入口から奥へ向かっての写真を撮り忘れ、奥から入口方向への写真ですが、雰囲気は伝わるでしょうか?

 

こちらが一番奥の方の石です。一つ一つの石がものすごく大きいです。

九州では大きな石を先に削って整えてから積んで石室を作りますが、畿内では自然な形を活かして石室を作っているそうです。これは縄文時代からの「磐座(いわくら)信仰」に基づいた大きな石に対する自然崇拝の考え方を踏襲しているそうです。

この古墳の主は、京都の西部で大きな勢力を持った豪族 秦氏(はたし)と言われていますが、詳しいことは記録に残っていないのでわからないそうです。とは言え、重機もクレーンも無い時代に、こんなに大きな石を積んで石室を建築した古代豪族の技術力とそれを可能にした力の大きさに、一同大興奮!

 

さざれ石

石室を見学した後、同じ敷地内にある「さざれ石」を見に行きます。

丘の上に数個の巨石が転がっており、これが「さざれ石」と呼ばれ「君が代」発祥の地とも言われているそうです。大きな石ですが、君が代の歌詞にある『さざれ石が巌(いわお)となる』ように、色々な種類の様々な石が集積してできた堆積岩です。

同じように「さざれ石」は京都市内にもいくつかあり、その一つが松尾大社。本殿の裏にある「磐座」(いわくら)と呼ばれる巨石があり、縄文時代からの自然信仰で神が宿る石として崇拝の対象になっていました。この写真にあるさざれ石の上の方に登って京都市内を一望すると、南西には松尾大社の磐座があり、2つのさざれ石をつないだ頂点には太秦広隆寺があります。更に広隆寺の手前には三柱鳥居で有名な木島神社(蚕ノ社)があり、この三柱鳥居が向いている方角には松尾大社伏見稲荷と双ヶ岡があります。これらは古代の京の礎を築いた「秦氏」のテリトリーでした。この秦氏、今回のツアーでもたびたび出てきます。

秦氏は4世紀末頃、百済から日本へやってきて帰化したそうです。養蚕や土木技術に通じた秦氏は日本各地に拠点を広げ、秦氏の一人秦酒公(はたのさけのきみ)は、5世紀後半に雄略天皇秦氏の統率者として認められ、山背盆地を与えられました。そのことに感謝した秦酒公は、貢物の絹織物をうずたかく積み上げて献納したので禹豆麻佐(うずまさ)の称号を賜ったといわれています。これに太秦(うずまさ)の漢字表記をあて、この地域を秦氏の本拠にしたと伝わっています。その後秦氏は太秦のある葛野地方・嵯峨野に移り住みます。得意の土木技術を駆使し、たびたび氾濫していた葛野川桂川)に葛野大堰を築き、護岸などの大工事で洪水をやわらげたり、井戸を掘り田を灌漑し、鉄製農具で開墾を進め、嵯峨野を発展させてきました。そしてこの辺り随一の豪族となったのです。

 

印空寺古墳

さて、石室とさざれ石を見学し、再び一条山越通の交差点です。信号を渡り、一条通を更に西へと向かいます。

 

「千代の古道」は京の都より大覚寺嵯峨院)周辺に通じる道です。平安時代前期の歌人在原行平嵯峨天皇を偲ぶ和歌に詠まれた「千代の古道」は、歌枕として詠まれ、後世にいくつかの道がそれとみなされ、道標石碑が建てられました。

写真は先ほどの一条山越通の交差点を西に渡った先にあります。

 

一条通沿い、千代の古道の石碑の北側に印空寺があり、その東側の木がこんもりと茂ったあたりが「印空寺古墳」です。山越古墳群の一つで直径25m、高さ4mの円墳で、主体部は横穴式石室だそうです。こちらは古墳のそばには行かず、一条通から古墳を眺めただけでした。

 

印空寺は西山浄土宗の寺院で、江戸時代中期の元禄元年(1688)に印空上人が美濃国・立政寺から入洛し建立しました。明治維新以後次第に荒廃しましたが、昭和45年に圓空瑞元上人が晋山(新しく住職になる者が初めてその寺に入ること)し、寺の復興に努め、鐘楼・本堂・山門・庫裏を一新しました。

 

嵯峨野古墳群めぐりの前半はここまでです。次のブログに続きます。

 

参考文献

『京都嵯峨野誕生物語』NPO法人さらんネット 2018年

平安京以前ー古墳が造られた時代ー』京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課 2012年

『千代の古道2 ~文化財と遺跡を歩く~ 京都歴史散策マップ』京都市(㈶京都市埋蔵文化財

ブラタモリ⑦京都(嵐山・伏見) 志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』株式会社KADOKAWA 2017年

 

 

嵯峨嵐山周辺の見どころはこちら

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

福田美術館「福美の名品展」 ~秘蔵の近現代作品を公開

嵐山のランドマーク、渡月橋からほど近い場所に3年前に出来た福田美術館。これまで

京都画壇を中心に江戸時代から近代にかけての多くの名品を紹介してきましたが、開館3周年記念として「福美の名品展」~まだまだあります未公開作品~が10月10日まで開かれています。同館が所蔵する秘蔵の名品が鑑賞できる絶好のチャンスということで訪ねてみました。

 

 

福田美術館の場所

https://g.page/fukudaartmuseum?share

 

 

福田美術館の行き方

JR山陰本線(嵯峨野線

  「嵯峨嵐山駅」下車 徒歩12分

阪急嵐山線

  「嵐山駅」下車 徒歩11分

嵐電京福電気鉄道

   「嵐山駅」下車 徒歩4分

 

 

京福電鉄嵐山駅からの行き方は以下のブログをご確認ください。

www.yomurashamrock.me

 

 

今回のスタートは、上記ブログでご紹介し、同じく渡月橋からほど近い嵯峨嵐山文華館です。

嵯峨嵐山文華館を出て、保津川沿いを東へ向かいます。

この道を300mほど東へ向かいます。ちょうど渡月橋の方向を目指して進むことになります。

 

いつもたくさんの人が並んでいるカフェ「アラビカ京都嵐山」が左手に見えたら、その脇の道を北(左)へ曲がります。

福田美術館に到着です。同館の前の道が狭く、向かいのホテル「MUNI KYOTO」の入口付近から撮った写真ですが、下から見上げた写真になってしまいました。

 

福田美術館とは

f:id:yomurashamroch:20210909212206j:plain

福田美術館は、美しい自然とともに日本美術の名品を楽しんでいただくことで、京都・嵯峨嵐山が日本文化の新たな発信拠点になることを目指して、2019年10月に開館されました。

同館のオーナーは、消費者金融大手 アイフルの創業者である堀田吉孝、館長は娘の川畑光佐が務め、「100年続く美術館」をコンセプトに、「地元京都への恩返しがしたい」という思いから設立されました。所蔵点数は約1500点、琳派から円山四条派、京都画壇の作品を中心にしています。

 

福田美術館の建築は、東京工業大学教授 安田幸一が担当。外観は伝統的な京町屋のエッセンスを踏まえたデザインとなっており、内部は蔵をイメージした展示室や、縁側のような廊下など、日本的な意匠を盛り込んでいます。また、展示室のガラスケースには、92%の高透過率を誇るドイツ製のガラスを採用し、継ぎ目の少ない巨大ガラスと、日本画を鑑賞するのに最適なライティングによって、より良い鑑賞体験を提供しています。

 

さっそく入っていきましょう。

 

日本画がメインの美術館ですが、内部はとてもスタイリッシュで現代アートの美術館のような雰囲気です。階段を上がります。

 

第一展示室

階段を上がったところがGALLERY1(第一展示室)になります。

第一章では、横山大観を始め、川合玉堂山元春挙上村松園といった東京、京都画壇で活躍した近代画家や、戦後日本の画界に新たな境地を拓いた東山魁夷秋野不矩、杉山寧ら現代画家の名品の中から同館未公開作品を中心に紹介されています。

 

富士図 横山大観

まず目に飛び込んでくるのが、大きな富士山を描いた屏風画です。大観と言えば富士山と言うほど、たくさんの富士山を描いていますが、その中でも六曲一双のこの作品は大作の一つだそうです。写真だとそのスケールが伝わりづらいのが残念ですが、近くで見ると布のような厚手の紙に描かれた雲はボコボコとした立体感が精密に表現され、その奥の富士山の壮大さを際立たせています。

 

慈悲光 杉山寧 (画像;福田美術館公式サイトより)

奈良県室生寺の十一面観音像と十二神将の一部が描かれた若き日の杉山寧の大作で、35年ぶりの公開だそうです。深い慈しみを讃え、女性的な優しさが漂う観音像の姿に、平安時代からずっと衆生を救い見守ってきた霊的なものまで表現しようとした杉山の意気込みが読み取れます。画面左下と右上に描かれた蛾も、霊的なもの、魂のようなものを表現するために杉山が描き加えたのだそうです。

 

廃墟 秋野不矩

秋野不矩(あきの ふく)は静岡県浜松市出身で、結婚後は6人の子どもの育児と画業を両立した女性で、私が大好きな日本画家のひとりです。ふわふわとした独特の色彩やタッチが日本画とは思えない不思議な味わいがあります。秋野は54歳でインドに魅せられ93歳で亡くなるまでに10回渡印。この作品は7回目のインド旅行で目にした廃墟を描いたもののようです。廃墟と思われる建物の入口付近から、隣の建物の外壁を捉えた構図で、室内と室外の光の表現が巧みに描き分けられています。インドの強い日差しと素朴な石像の感じが秋野らしい優しいタッチで描かれていますね。

 

静けき朝 東山魁夷

長野県の志賀高原にある三角池(みすまいけ)を題材に、青を基調とした清らかで深みのある、東山魁夷らしい作品。穏やかな湖面に映った木々のリフレクションが、現実と心象風景の融合したような幻想的な風景を作り出しています。

 

孤鳥報朝・農夫晩帰 西郷孤月

右の「農夫晩帰」は夕闇迫る中、家路につく農夫が寺の鐘の音に足を速める様子。左の「孤鳥報朝」は朝霧の中から聞こえる鳥の声を想像させます。空気まで描こうとする朦朧体(もうろうたい)に加え、本来絵画では表しにくい「音」を表現した驚くべき技量と感性が光る一作。霞がかかったような淡い色合いの幻想的な絵から、響き渡る鐘の音や鳥の声が聞こえてくるようで、より絵の中の世界の静けさが際立つ印象的な作品です。

 

花下美人図 上村松園

しだれ桜のもとを歩む、すらりとした女性。ややうつむいて扇子をかざし、日に日に強くなるまぶしい陽射しを遮りつつ、過行く春を惜しむようです。

上村松園は「美人画を描く上でも一番難しいのは眉」と語っていたそうです。この作品でも毛の一本一本を丁寧に引き重ね、太すぎも細すぎもせず、自然なカーブに仕上げています。空色の着物と鮮やかな赤い帯が白い肌に映え、丁寧に描かれた眉美人の上品な美しさをより一層引き立てていますね。

 

 

第二展示室

階段を上がり、GALLERY2(第二展示室)に向かいます。

第二章では、新しい日本画の創造の場を求めて1918年に「国画創作協会」を設立した、京都画壇の新鋭画家たち土田麦僊や榊原紫峰、村上華岳、野長瀬晩花、小野竹喬や、没後50年の美人画の巨匠である鏑木清方、その弟子の伊藤深水らの作品を展示。

さらに1923年に刊行された近松門左衛門の作品集「大近松全集」の付録となった版画13点とその原画5点を通して、当時を代表する日本画家と洋画家の取り組みが紹介されています。

 

国画創作協会

既存の日本画の枠を超え、新たな創造の場を求め、新進気鋭の日本画家たちが設立したのが「国画創作協会」です。本展では京都画壇の村上華岳や小野竹喬、土田麦僊、入江波光らの作品が展示されています。

小野竹喬 河口近く

紅葉した木々、穏やかな水面、中景の険しい山が左から差し込む夕日に照らされ、美しく映じています。本作は小野竹喬が国画創作協会を結成した20代に描かれたもので、日本画でありながら、西洋画のような鮮やかな色合いが若き日の竹喬の意欲を感じさせる作品です。

 

村上華岳 雲中散華

村上華岳も、絵画専門学校時代の同期生土田麦僊や小野竹喬らと国画創作協会を結成。独自の宗教的・文学的な味わいのある作風を展開します。

華岳は最晩年、持病の喘息が悪化し床に臥す日が増える中、仏画山水画に集中し、独自のやわらかで深みのある画境に到達していきます。本作も最晩年の作で、慈愛に満ちた表情の観音が、天上を飛翔しながら散華する様子が描かれています。淡く優しい色合いと繊細で柔らかなタッチの線で描かれた観音像は、それまでの仏画とも違う、華岳独特の世界観が感じられます。

 

近松全集

西村五雲 朝比奈

大正11年頃、近松門左衛門没後200年に合わせて『大近松全集』が刊行。各刊には名だたる画家が戯曲を題材にした原画を描き、それに基づく版画が付録として添えられました。本展では付録となった版画やその原画が展示されています。

本作は第6巻の付録となった版画の原画で、戯曲「世継曾我」が題材。曾我兄弟が父の仇を取ったのち殺害されたことを知り、復讐を決意する曽我兄弟の親戚朝比奈を模した浄瑠璃の人形が描かれています。歌舞伎のような隈取りのあるユーモラスな顔と赤、黒、青の色鮮やかなコントラストが印象的です。

西村五雲は明治10年(1877)京都生まれの日本画家で、竹内栖鳳に師事し、動物画を得意としました。

 

パノラマギャラリー

最後は「又造の部屋」と題した、加山又造の作品9点を展示したパノラマギャラリーです。加山は西陣の和装図案家の家に生まれ、幼い頃から画才を発揮。京都市立美術工芸学校、東京美術学校へと進学します。本展では、江戸琳派に傾倒した若き日から水墨画に転向した後期の作品まで、画風の移り変わりが分かるように展示されています。

飛翔 加山又造

荒波の上を五羽の鶴が飛翔する場面。波と鶴の取り合わせは着物の文様でも良く見られ、長寿を意味します。装飾的に表された銀色の波からは、江戸の琳派の影響なども感じさせ、その上に飛ぶ五羽の鶴は非常に写実的な現代画風で、近代絵画と現代絵画が絶妙に調和した作品です。

 

ここ福田美術館から北西に300mのところにある、世界遺産 天龍寺。境内の伽藍の一つ法堂の天井には、加山又造の「雲龍図」が描かれています。こちらは平成9年の天龍寺開山夢窓国師650年遠諱記念事業として制作され、加山又造70歳頃の晩年の渾身の作品です。ちょうど私と同じタイミングに「又造の部屋」で鑑賞されていた方の中に「ここから近いから見に行ってみようかな」という方もおられました。

 

 

パンとエスプレッソと福田美術館

館内には、来館者限定のミュージアムカフェ「パンとエスプレッソと福田美術館」があります。

美術館敷地内の庭園や木々の緑を映す大きな水盤、さらにカフェから見える保津川渡月橋の美しい景色を眺めながら、ゆったりとお茶やスイーツを楽しむことができる、何とも贅沢な空間です。

 

3周年を記念した季節限定の「マンゴープリンパフェ」をいただきました。紅茶にピントが合っていますが…

☆来館者専用のカフェのため、カフェのみの利用は出来ません。

 

福田美術館は、美しい嵐山の風景に溶け込む外観と、スタイリッシュな内装で、日本画のすばらしさを再発見できる新しいコンセプトの美術館だと思いました。ミュージアムカフェも落ち着いた雰囲気で、美術鑑賞した後の余韻にゆったり浸れます。嵐山観光と合わせて利用してみてはいかがですか?

 

 

 

 

嵯峨嵐山周辺の見どころはこちら

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me

 

www.yomurashamrock.me