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京都市京セラ美術館開館 「村上隆 もののけ京都」展②

京都市京セラ美術館開館90周年展として開催された「村上隆もののけ京都」展は、現代美術の最前線で活躍する村上隆の、国内では約8年ぶりの大規模個展です。

 

本記事は以下の続きになります。

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この展覧会は9月1日で終了しています。

 

 

 

京都市京セラ美術館の場所

https://maps.app.goo.gl/cyAcz9dQErwvpTiz5

 

京都市京セラ美術館の行き方

地下鉄東山駅からの行き方は以下で詳しくご紹介しています。

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今回は同展の第4室以降をご紹介します。

 

第4室 風神雷神ワンダーランド

風神雷神

琳派」を代表する俵屋宗達の『風神雷神図屛風』①(国宝・17世紀)は、琳派たるものこれを描かなければいけない、という感じで二代目尾形光琳②も三代目酒井抱一③も四代目鈴木其一④も描いているし、明治以降、琳派ではない画家が風神雷神図を自分流に描くのが流行ったことがあります。

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俵屋宗達風神雷神図屏風建仁寺(複製)

 

尾形光琳 『紙本金地著色風神雷神図』東京国立博物館

 

酒井抱一 『風神雷神図屏風出光美術館

 

④鈴木其一『風神雷神図襖』(部分)東京国立博物館

 

上記のように尾形光琳酒井抱一俵屋宗達風神雷神図屛風と同じような感じで描いていますが、鈴木其一はガラッと変え、墨絵のように、しかも屏風ではなく襖に描くという自分のスタイルに変えているように、それ以降、近代以降は自分の好きなようにアレンジしている画家が多く、その流れの最終形が村上のこの風神雷神図だそうです。つまり、風神雷神図を現代アートとして捉え、しかも村上イズムで描くとこういう風に、ちょっとゆるキャラっぽく描かれているのがとても印象的でした。

 

村上隆『風神図』

 

村上隆『雷神図』

 

(参考:you tube 掛軸塾 村上隆もののけ京都」徹底解説 @ 京都市京セラ美術館 )

雲龍赤変図《辻 惟雄先生に「あなた、たまには自分で描いてみたらどうなの?」と嫌味を言われて腹が立って自分で描いたバージョン》

今回の展覧会の中で、私が一番印象的だったのがこの作品です。

サブタイトル《辻 惟雄先生に「あなた、たまには自分で描いてみたらどうなの?」と嫌味を言われて腹が立って自分で描いたバージョン》が、茶目っ気があってとても面白いですよね。

村上隆雲龍赤変図《辻 惟雄先生に「あなた、たまには自分で描いてみたらどうなの?」と嫌味を言われて腹が立って自分で描いたバージョン》』

 

辻 惟雄先生とは、日本美術史学者の第一人者で、著書『奇想の系譜』などで、従来の美術史ではあまり評価されていなかった岩佐又兵衛伊藤若冲、曽我蕭白長沢芦雪などを「奇想の画家たち」として取り上げたことで、江戸絵画の再評価を促し、日本美術史に大きな影響を与え、特に伊藤若冲ブームの立役者となった人です。

この作品の元となったのが、『奇想の系譜』でも紹介されている曾我蕭白の『雲龍図』で、現在はボストン美術館の所蔵です。

曽我蕭白『雲竜図』(部分)ボストン美術館

 

こちらは縦165センチ、横10mの襖絵ですが、村上の『雲龍赤変図』は横18mもある超大作です。蕭白のダイナミックで勢いのある筆遣い、大胆な構図、ユーモラスな龍の表情などを受け継ぎつつ、村上らしい赤色の濃淡で描かれた雲龍図を見て、「村上隆は本当に日本画家でもあったんだ!」と再確認しました。村上のDOB君やお花などのイラスト風作品と日本画が、スーパーフラットという概念でスーッとつながった瞬間でした。

(参考:you tube 掛軸塾 村上隆もののけ京都」徹底解説 @ 京都市京セラ美術館 )

 

金色の空の夏のお花畑

尾形の展覧会のパンフレットの表紙やポスターにもなっていて、村上の主要キャラクターの一つお花を描いた村上ワールド全開の作品ですが、実は尾形光琳の『孔雀立葵図屏風』をオマージュしているそうです。

光琳『孔雀立葵図屏風』アーティゾン美術館


背景に貼られた金箔とすっくと立ち並んだ花々が、確かに尾形の作品を彷彿とさせ、ここでも村上の日本画と現代美術をつなぐスーパーフラットの概念を体感できました。金色の空のもと、もくもくとした入道雲の前にすっくと立ち笑顔を見せるお花の数々を見ていると、子どもの頃の輝かしい夏の思い出が蘇るような楽しい作品です。

村上隆『金色の空の夏のお花畑』

 

(参考:you tube 掛軸塾 村上隆もののけ京都」徹底解説 @ 京都市京セラ美術館 )

 

第5室 もののけ遊戯潭

《Murakami. Flowers Collectible Trading Card 2023》

同じサイズのキャンバスが108つ並び、お花が様々な表情を見せるこの作品群は、トレーディングカードとして制作したNFT作品を、絵画作品として並行して制作したもの。コンピューターを使って描いたようにも見えますが、じつは全て手作業で制作されたので、この展覧会の中で一番時間がかかったとか。

この作品について、you tubeのインタビューで村上が解説しているのものを見つけました。その中で村上は、自分の作品はほとんど非常に高い値段で売られるが、その値段に見合った価値を購入した人に感じてもらいたい、何度見てもその良さを嚙み締められるようなレベルに到達するまで手をかけ描き込んだそう。しかし、このようなカードゲームのキャラ風の絵はパッと見は幼稚なので、鑑賞に耐えられない、アートとして受け入れられないという先入観が、特に日本人の中にはあるとか。ただ、そんな作品も50年、100年後には浮世絵のように美術として評価されるようにとの思いを持って制作されているそうです。

 

(参考:you tube 永久保存版 村上隆 もののけ京都 独占インタビュー SUPER FLATと現代美術アート)

 

私自身、村上のアニメ風の作品に対する違和感というか、あまり共感できない部分があったのですが、この村上の解説を聞き、村上が言うアニメやキャラ的な作品がいわゆるアート作品よりも価値を下に見ていたということかもしれないと腑に落ちました。村上はそんな人々の先入観を身に染みて感じているからこそ、自分の作品を購入してくれた人や、50年100年後、アニメへの先入観を持たない人たちにはその価値を感じてもらえるようにとの強い思いをこめて、この作品に膨大な時間をかけて制作していたようです。

 

 

第6室 五山くんと古都歳時記

しめくくりとなる第六章は「五山くんと古都歳時記」。会場である京都の文化をテーマにした作品が並びます。この展示室は豊臣秀吉の「黄金の茶室」さながらに、壁面が金箔貼りになっている点が特徴です。金箔の背景の上に展示された各作品は、まるで寺社で見る大きな障壁画のよう。数々の伝統文化や祭礼に彩られ国内外の人のイメージから着想して描きおろした『京都の舞妓さん アニメ風』『五山送り火』などが初公開されています。

 

市川海老蔵改め第十三代目市川團十郎白猿の襲名披露の際に祝幕として描かれた「歌舞伎十八番」の原画です。この祝幕は映画監督の三池崇史氏が「十三代目市川團十郎ドキュメンタリー映画を撮影する中で「現代の絵師が描く現代の役者絵を作ってほしい」と村上に依頼し実現したもので、2023年12月1日~24日に京都・南座でお披露目されました。歌舞伎十八番の演目がいきいきと鮮やかに描かれています。

村上隆『2020十三代目市川團十郎白猿 襲名十八番』

 

村上隆『京都の舞妓さん』

 

村上隆『五山送り火

 

同展で特徴的だったのが、随所に掲示された、村上自身の「言い訳」コメント。カラフルな手書き風文字で書かれた言い訳に、村上の本音が垣間見えて、とても興味深かったです。

 

 

同展の全体の流れをおさらいすると、まず第1室の洛中洛外図で京都の町そのものを俯瞰し、第2室では暗闇の中、東西南北の四神 もののけ平安京を囲む様子を体感、そこからスーパーフラットの概念と日本の美術史のつながりを見せる第3室、第4室と続き、第5室ではトレーディングカードなどの村上の最新トレンドを紹介、最後の第6室では現代のいわゆる京都のイメージから着想した五山や舞妓さんなどの描きおろしで終わります。つまり、過去から現代に繋がる京都の歴史をイメージで巡る構成になっているようです。東京生まれの村上ですが、東日本大震災以降、京都に居を構えたこともあり、京都には特別な想いを持っているそう。村上は東京以外で初めての大規模個展を京都で開催したことにより、自身「私淑している」と述べる『奇想の系譜』に紹介され京の都で活躍した絵師たちと更に深くつながったのは間違いないでしょう。この展覧会を観覧し、村上のことを調べる中で、私も大好きな若冲を初めとする奇想の絵師たちと村上の深いつながりに気づき、村上の今後の活動にも更に興味が湧き、注目していきたいと思いました。

京都市京セラ美術館開館 「村上隆 もののけ京都」展①

京都市京セラ美術館開館90周年展として開催された「村上隆もののけ京都」展は、現代美術の最前線で活躍する村上隆の、国内では約8年ぶりの大規模個展です。

同展は会期最終日目前の8月31日に来場者45万人を突破し、京都市京セラ美術館の動員記録を更新中だそうです。同館では「ルーブル美術館展」や「ボストン美術館展」「フェルメールレンブラント展」など誰もが名前を知っていて行列必至の人気の展覧会が多いイメージでしたが、今回の村上隆は海外での評価は高いものの、日本では賛否両論というか好き嫌いが分かれるイメージがあったので、今回の展覧会がこんなに人気が出たのが少し意外でした。という私も、恥ずかしながら村上隆のことをほとんど知らずに見に行きましたが、何とも刺激的で印象的な内容で、俄然村上に興味が湧いてきました。そこで展覧会鑑賞後に村上について少し調べたりもしましたので、ご紹介したいと思います。

 

この展覧会は9月1日で終了しています。

 

 

京都市京セラ美術館の場所

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京都市京セラ美術館の行き方

地下鉄東山駅からの行き方は以下で詳しくご紹介しています。

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今回のスタートは京都市京セラ美術館です

京都市京セラ美術館のある岡崎エリアは、平安神宮を中心に有名な神社仏閣や美術館、動物園など文化施設も集まり、京都でも人気の観光スポットでもあります。

 

京都市京セラ美術館とは

京都市京セラ美術館は、1928年(昭和3年)に京都で挙行された即位の大礼を記念し、関西の財界や美術界、市民の寄付により「大礼記念京都美術館」として開館。鉄筋コンクリートの近代建築に和風の屋根をのせた特徴的な外観は、昭和初期に流行した和洋折衷の建築スタイルで、公立美術館として日本で現存する最も古い建築です。

 

戦後、「京都市美術館」と名称を変更。京都画壇など京都ゆかりの作品コレクションを誇り、美術系大学の多い京都ならではの地元密着型展覧会も頻繁に開催。「ツタンカーメン展」や「ルーブル展」など新聞社主催の大規模展覧会は京都ではこの京都市美術館で開催されることが多いという印象でした。

 

2020年のリニューアルに伴い京セラが命名権を取得し、2020年3月の再オープンに先立

ち、2019年から京都市京セラ美術館という呼称に変更されました。

 

こちらのメインエントランスは従来の正面玄関をそのままに、一段掘り下げたところに新たな玄関を作ることで、“京都市美術館”のイメージを壊すことなく、機能的なエントランスを実現させました。

 

こちらの受付で観覧料を払います。

 

地下からこの大階段を上がって行きます。

 

 

村上隆 もののけ 京都展とは

本展は、主に海外を中心に活動してきた村上にとって、国内で約8年ぶり、東京以外で初めての大規模個展です。村上が活動初期から深い関心を寄せてきた江戸時代の絵師たちが活躍し、今なおあらゆる芸能と芸術が息づき交わり合うここ京都を舞台に、新たに描き下ろした超大作をはじめ、代表的なシリーズ、国内初公開となる作品など、大多数が新作となる約170点で構成されています。

同展と同時期に開催されていた「キュビズム展」では莫大な予算、特に海外から有名な作品をレンタルする際の輸送費や保険代をかけて開催されましたが、村上の展覧会にはその保険代がかけられない、それは村上の作品がキュビズムのように評価が定まっていないから、という非常に理不尽な理由だったそう。村上はその予算不足に対処するため、既存の作品を海外から運ぶほどの保険代がかけられないなら全てを新作にして、完成させず、完成直前の状態で展示したり、会期中に完成させたりするという斬新な方法を取りました。更に、京都府ふるさと納税の仕組みを使い、返礼品として入場券に加えトレーディングカードを初めとする限定アイテムをつけることにより、目標額以上の寄付金を集めることに成功しました。現在、京都在住の村上は、ふるさと納税の寄付により京都市内在住(通学)の高校生、大学生を無料で招待するという、地元京都への還元と現代アートの振興ということにも成功し、話題を集めました。

 

村上隆略(むらかみ たかし)

1962年、東京生まれ。1993年、東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。博士号取得。博士論文は「美術における『意味の無意味の意味』をめぐって」。

2000年、伝統的日本美術とアニメ・マンガの平面性を接続し、日本社会の在り様にも言及した現代視覚文化の概念「スーパーフラット」を提唱した。2001年、自身が代表を務める有限会社カイカイキキを設立。2005年「リトルボーイ展」(ジャパン・ソサエティ、ニューヨーク)にて、全米批評家連盟ベストキュレーション賞受賞。2016年、文化庁「第66回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。

 

阿吽像

さっそく展覧会を見ていきましょう。

先ほどの大階段を上がると美術館の中央ホールには満開の桜を背に、高さ4.3mという巨大でユーモラスな「阿吽像」です。広々としたホールの壁面いっぱいに描かれた桜とその上空?の金銀色の格子模様の上にも舞う桜、そして筋骨隆々としたいかつい顔の、でも頭が大きくてどことなくゆるキャラ的な愛くるしさも感じられる赤鬼と青鬼の像に度肝を抜かれました。

普通、寺院などに祀られている鬼の像というと、四天王の足元で踏みつけられている悪役として表現されている場合が多いと思うのですが、この「阿吽像」の赤鬼、青鬼はそれ自体が主役で、しかもその鬼たちが足元にまた別の鬼を踏みつけているのが珍しいそうです。

この作品は、東日本大震災の後、日本全体が重苦しい自粛ムードになる中、自然災害や疫病、戦争といった様々な災厄を鬼の力で打ち払いたいという願いがこめられ、その後のコロナ禍の厄災をも鬼が踏みつけてやっつけるという意図があるとか。現代アートは、作家が存命の場合が多いので、このような制作意図や背景を聞くことが出来るので、よりその作品を身近に感じることが出来て興味深いですね。 

(参考:you tube 掛軸塾 村上隆もののけ京都」徹底解説 @ 京都市京セラ美術館 )

 

お花の親子

さきほどの「阿吽像」の向こうの入口を抜けると、そこは大きなガラス窓の向こうに広々とした緑豊かな日本庭園が広がっています。そして庭園の池に浮かぶように建っていたのが金色に光輝く「お花の親子」というこれまた巨大な作品です。これには私も本当に啞然としました。日本庭園の向こうに広がる東山を借景に水面からの高さが13mもある金ぴかの彫像がルイ・ヴィトンのトランクの上で微笑んでいます。村上隆の主要アイコンの一つであるお花は大きな口を開けて笑っていて可愛らしいのですが、シュールでもあり、見方によってはちょっと怖い感じもします。表面的な可愛らしさの奥に潜む畏怖の念のような重層的なメッセージもあるのかもしれません。ちなみにこの作品も会期が始まって一か月後あたりに完成したそうです。



上記二点の作品は、いわば本編への導入、番外編になります。そして、この後からが本編ということになります。

 

第1室 もののけ洛中洛外図

この作品は岩佐又兵衛の『洛中洛外図(舟木本)』(国宝・江戸時代 17世紀)を村上流にオマージュしたものです。オリジナルは神社仏閣、祭りや遊里、歌舞伎や浄瑠璃に興じる人々など、京都の様々なシーンが生き生きと描かれています。これを引用し、描き下ろした全長13mにもおよぶ現代の『洛中洛外図』は、東京藝術大学日本画を専攻し、京都の絵師たちの絵にも詳しい村上隆による「京都」への入口に相応しい作品と言えるでしょう。

先ほどの掛軸塾の講師によると村上版洛中洛外図は、岩佐又兵衛版のそれをかなり忠実にトレースしているそうですが、村上版では随所に彼のオリジナルキャラクターであるお花などが登場し、またアクリル絵の具で描かれたことにより非常に色合いがクリアでカラフルになっており、村上隆らしさが存分に発揮されているそうです。

 

第2室 四神と六角螺旋堂

次の部屋は入口が白いカーテンで覆われていて、部屋の中は真っ暗。そこに展示された絵や彫刻などだけに光が当たった独得の雰囲気のある空間です。

そこに描かれているのは部屋の四つの壁面いっぱいに色鮮やかに描かれた四神(しじん)です。四神とは青龍、白虎、朱雀、玄武という東西南北を象徴する神獣のこと。東西南北を山や川、池などに囲まれた平安京が、これらの四神をモチーフとした新作が部屋の四方を囲むことによって表現されています。

本展の名称である「もののけ 京都」ですが、「もののけ」というと水木しげるなどの妖怪のイメージが強かったのですが、もともとはこの四神のように「神」でもある、ということがよく分かりました。

 

 

この部屋で私が一番好きな作品は、西の白虎図です。村上らしさのあるちょっと可愛くてユーモラスな表情の白虎が何匹も描かれ、しかも一つ一つ全て表情が違う。ずっと見ていても見飽きない個性的な神の姿です。

 

四神に囲まれた部屋の中央には鐘楼(六角螺旋堂)がそびえ、「もののけ」がさまよう不穏な気配を祓います。

 

本展全般に言えることですが、とにかく大きな作品が多いので、部屋全体が村上ワールドを体感することが出来るアトラクションのような楽しさがあります。

 

第3室 DOB往還記

1990年に登場した村上の代表的キャラクター「DOB」(村上が1993年に生み出した大きな耳とつぶらな瞳が特徴的なキャラクター)マンガやゲームのキャラクターをモチーフとするDOBは、変幻自在に姿を変え、様々な文脈に接続してきました。村上の提唱する「スーパーフラット」の概念を体現するDOBの往還を辿ります。

スーパーフラットのビジュアル上の特徴は、大和絵や浮世絵など古来から続く日本美術やアニメに見られるような平面的な構成。ビジュアル面だけでなく、村上は、敗戦後の日本を主題にオタクカルチャーやキャラクター文化と日本の美術史を結び付けて「ハイアートも権威もサーもセレブレイトもカーストも無い日本文化の中の『芸術』と語るように、美術と大衆芸術の位置関係がフラットであるという考え方や、戦後社会における日本社会の階級の均一性を表しているとも考察されているそうです。

加えて、新たなキャラクターやフィギュアなどの作品の数々は、現代の「もののけ」と言えるのかもしれません。

不思議の森のDOB君

今回はここまでです。

次回は第4室以降をご紹介します。

 

 

チョット台所ニ居マス ~御所近くの路地裏で体に優しいおばんざいランチ

京都御所の西側の路地裏に、ちょっと変わった店名のおばんざい定食のお店があります。私は御所を訪れた後に何度かお邪魔しましたが、いつ伺っても季節の食材を上手に使った体にやさしいおばんざいの数々と、季節ごとのしつらいに目も心も癒されます。店主さんのこだわりと優しさが詰まったこの素敵なお店をご紹介します。

 

 

チョット台所ニ居マスの場所

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チョット台所ニ居マスの行き方

地下鉄「丸太町駅」から北へ徒歩約2分

京阪「神宮丸太町駅」から西へ徒歩約20分

 

 

地下鉄丸太町駅からの行き方

今回私は京都御苑内の拾翠亭を訪れた後に「チョット台所ニ居マス」を訪れたので、丸太町駅からの行き方の写真を撮るのを忘れました。以下の写真は二年ほど前に撮影したものです。

 

京都御苑内の拾翠亭については以下でご紹介しています。

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今回のスタートは地下鉄「丸太町駅」です。

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北改札口を出ます。

 

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改札を出て、コンビニの左横の通路を進みます。

 

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出口2へ向かいます。

 

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階段を上がります。

 

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階段を上がり切ると、烏丸通に出ます。烏丸通の向こうは京都御苑です。

烏丸通を北(左)へ向かいます。

 

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烏丸通を北へ向かうと、すぐ左手に大きな洋館があります。

大丸ヴィラ

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「大丸ヴィラ」という説明書きが掲げられていました。

大丸ヴィラは昭和7年(1932)当時の株式会社大丸 社長下村正太郎の住宅として、ヴォーリス建築事務所の設計で建てられました。ヴォーリスとは、アメリカ出身で日本に数多くの西洋建築を手がけた人で、ヴィーリス合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現メンターム)を広く日本に普及させた実業家でもあります。

大丸ヴィラの特徴としては、チューダー様式(イングランドの15世紀末頃から17世紀初頭までの建築様式)で建てられ、木造風に見えるものの実は鉄筋コンクリート造りの3階建てです。当時いわゆる日本化が進んでいた洋館の中で、珍しくほぼ純粋なチューダー様式で建てられ、昭和59年(1984)には京都市登録有形文化財に登録されました。

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洋館のかわいらしさと日本建築にはない凝った装飾などが見られ、中に入ってみたいところですが、非公開だそうです。

 

さて、ここから先は先日訪れた時の写真です。

大丸ヴィラを通り過ぎて一つ目の路地を左(西)へ曲がります。



「竹邑庵太郎敦盛」というおそばやさんの看板を目印に路地の奥へ入って行きます。

 

路地の突き当りを右(北)へ曲がります。

 

20mほど路地を進むと、お店に到着です。手作り風の暖簾や店名の看板が町家の雰囲気としっくり馴染んでいます。

 

チョット台所ニ居マス とは

お店の公式サイトは見つけられなかったので、食べログからの情報です。

「チョット台所ニ居マス」は2012年1月にオープンされた、路地裏の隠れ家レストランです。メニューは国産米と地元産のお野菜を使用した日替わりランチとコーヒーのみ。席はカウンター席3席と、四人掛けのテーブル席の7席。こぢんまりしていて、親戚のお家にお邪魔してご飯を食べさせてもらうような感じの、落ち着くお店です。

 

とても小さいお店ですが、店内のあちこちに季節のしつらいが。中には手作りと思われる物もさり気なく飾られていました。それらを目にすると、丁寧に暮らしておられる店主さんのお人柄が感じられ、心が癒されます。


以下は昨年9月に訪れた時の写真です。秋らしいですね。

 

日替わりランチ

さて、お待ちかねの日替わりランチです。ほとんどは作り置きのおばんざいのようでしたが、魚のフライは揚げたてでした。

写真左上から時計回りに

麩とわかめの味噌汁、さつまいもの甘煮、セロリとミョウガスナップエンドウのナムル、冷ややっこ海苔載せ、おから煮、タコとネギのチヂミ、魚フライ、キュウリとゆで卵のジャコ和え、豚冷しゃぶ甘酢ショウガソース、ゆかりご飯、キュウリの糠漬け

なんと10品!

 

おばんざいプレートの部分だけ拡大してみました。

セロリとミョウガスナップエンドウのナムルは、野菜の組み合わせが夏らしく爽やかでした。

冷ややっこの海苔載せは、パリパリの味付け海苔と出汁醤油が豆腐によく合って新鮮な美味しさです。これは家でもすぐ真似できるな~と思いました。

おから煮はナスとコーンとショウガ?が具として入っていて、ショウガのピリッとしたしっかり味にコーンの歯ごたえがアクセントになり、これも夏らしい味でした。

タコとネギのチヂミは、もう間違いない美味しい組み合わせですよね。チヂミはカリッと焼けていました。

魚フライの魚の種類を確認し忘れたのですが、恐らく子持ちシシャモかな?揚げたてサクサクで美味しかったです。

キュウリとゆで卵のジャコ和えは、マヨネーズではなくゴマ和えで、ゆで卵の味が利いていました。

豚冷しゃぶ甘酢ソースは、夏らしい甘酢ショウガのさっぱり味で暑い夏を乗り切れそうな味でした。

 

奇抜なメニューはありませんが、ちょっと小技が利いていて、季節の食材の味を生かし丁寧に調理されていました。どれも優しくほっとする味わいです。自宅でこんなにたくさんのおかずを作ろうと思ったら大変です。それだけでものすごく贅沢で価値あるランチで、食べると間違いなく元気になります!

色々なものを少しづつ食べたい、まさに女性好みのランチと言え、男性にはボリューム的には少し物足りないかもしれません。そんな方にはご飯はお替わり自由とのことです。

少しわかりにくい場所ですが、大丸ヴィラと「竹邑庵太郎敦盛」の看板を頼りに、京都御所へ行かれた際には足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

 

京都御苑やその周辺については以下でもご紹介しています。

 

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京都御苑 拾翠亭 ~公家の美意識が垣間見える茶室や庭園

京都御苑の南の端に、五摂家の一つであった九条家の現存する唯一の建物で、江戸時代後期に建てられた瀟洒な茶室(拾翠亭)と緑豊かな庭園があります。梅雨空の中、雨に濡れ風情ある景観を静かに楽しめるこのスポットを訪ねてみましたので、ご紹介します。

 

 

拾翠亭の場所

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拾翠亭の行き方

電車で

 ・京都市営地下鉄丸太町駅」下車 徒歩3分

 ・京阪電鉄神宮丸太町駅」下車 徒歩10分

 

バスで

 ・京都市バス10、51、65、93、202、204系統「烏丸丸太町」下車 徒歩3分

 

 

地下鉄丸太町駅から拾翠亭へ

今回のスタートは地下鉄「丸太町駅」です。

北改札を出て、右手へ向かいます。

 

コンビニの右手にある出口1へ向かい、階段を上がります。

 

階段を上がり、出口1を出ると、丸太町通に面した市バスの停留所があります。停留所を通り越し、丸太町通を東へ向かいます。

 

100mほど東へ進むと京都御御苑の間之町口がありますので、こちらから入ります。

 

間之町口を入ると、すぐ右手に拾翠亭があります。

 

足元の小さい案内にある通り、公開は木、金、土曜日と葵祭時代祭となっておりますので、訪問の際はお気をつけください。案内板の後ろの小径を奥へと入って行きます。

 

 

拾翠亭とは

拾翠亭(しゅうすいてい)は、約200年前の江戸時代後期に建てられたと伝えられています。当時の五摂家の一つであった九条家の別邸として使用されたもので、主として茶会や歌会等の社交の場として利用されました。

数寄屋風の書院造りで二層からなり、屋根の頂には一対の鯱とその下に九条家の家紋を象った鬼瓦が飾りとして置かれています。

鯱の下の鬼瓦が写っていないかな?と探していたら、写真を撮った時は気づかなかったのですが、鯱の横にサギ?も止まっていました。

二層の外周りには縁高欄(えんこうらん)と言われる手すりが施されており、また、屋根の形は入母屋造で瓦葺と一部が杮葺が組み合わされ、簡素な中にも貴族的な優美な外観を呈しています。上の写真を見ると、屋根の上の方は瓦葺で下の色の濃い所が杮葺で、木の薄板を幾重にも重ねてあります。

 

九條家は藤原鎌足を遠祖とする藤原北家の流れを汲み、多くの摂政関白の要職を輩出した名家。豊臣秀吉の都市計画により、御所の南の現在地あたりに移されました。当時の九條家の敷地は約35,300㎡で建物も最盛時には12,500㎡にありましたが、明治の初めにそのほとんどが移築、取り壊しとなり、130㎡余りの拾翠亭のみが残されました。

「拾翠」とは緑の草花を拾い集めるという意味があり、平安貴族が春に野辺に出て、草花を摘んで楽しんだ習わしに因んで名づけられました。また、翠という字はみどりの美しい鳥のカワセミという意味があり、かつてこの地に数多くのカワセミが飛来してことから「拾翠」と名付けられたとも言われます。

 

では、さっそく中へ入っていきましょう。

こちらが入口です。

敷地内はすっきりと美しく整えられています。

 

玄関を入って参観料300円を納めて建物内を見る形なので、周囲の庭園だけなら無料で散策することが出来るようです。

 

一階は主として十畳の広間の茶室と七畳半の控の間、更に広間の北側の三畳中板の小間からなります。

 

控えの間

玄関から上がってすぐ左手にあるのが控えの間です。広間に席入りする場合の控えの間となり、写真左側の襖を外せば広間と合わせて17畳ほどの広さとなります。広さの伸縮を可能にし、室の機能をより充実させる重要な空間です。

 

広間

控えの間の北側にある、一階の主室が広間です。

池に面して広縁を設け、寝殿造の趣を残しています。室内は十畳の広さがあり、畳敷で床の間がある書院造になっています。

 

広縁から九條池を眺めたところです。池には小舟が浮かんでおり、優美な景色です。

 

西側北寄りに幅一間の床があり、炉が四畳半切りに切られて、茶室としても使われます。


小間

広間の北側に位置する部屋です。広間の広縁の突き当りから奥へ入ると小間があります。

小間はその名の通りとても小さく、また部屋の奥までは入れないので、全体の写真が撮れませんでした。

 

上の写真の左側から小間の奥を覗き込んだ写真です。

手前座(写真左)に一枚、客座(写真右)に二枚の畳を敷き、その間に幅一尺五寸あまりの板を入れて炉を切っていることから、三畳中板の席といいます

広間と小間が隣接しているということは、公家がこの二つの茶室を行き来しながら茶事を楽しんでいたことを表し、貴族の茶事の習わしを知る上で貴重なものです。

 

では、二階へ上がりましょう。

 

二階座敷

階段を上がると、二間半四方のゆったりとした座敷があります。

 

南西隅に踏込床を構えています。踏込床とは、床框を設けずに床地板と畳が同じレベルになったものです。畳と床地板の間に高低差が無いので、部屋がすっきり開放的になり、簡素でくだけた印象になります。床柱は皮付丸太、落掛(おとしがけ:床の間上部の小壁を受け止める横木)は湾曲した雑木を使い、床脇には天袋を吊ってその下に書院風の中敷居窓を開けています。一階広間よりさらにくだけた自由な造形の床です。

 

九條池とその周辺

外回りは北、東、南の三方に縁高欄がめぐらされています。見晴らしを計算した設計で、眼下には厳島神社や高倉橋が望まれます。東の彼方には借景として東山の大文字山が取り入れられています。写真右奥の赤い矢印の先が東山と思われます。昔はこんなに木が生い茂っていなかったので、東山がもっとよく見えたのだと思います。

広縁の前に広がる庭は、九條池を中心とした庭園になっています。池は東西約90m南北約60mで、江戸時代後期の築造と考えられています。西寄りに厳島神社を祀り、この神社は九條家の鎮守社です。



中央に架かる立派な反り橋は明治15年に竣工し、高倉橋と呼ばれます。

 

橋から東方池辺に築山があり、ここに滝組を設けています。



 

障子(石垣貼りと丁子七宝)

障子の貼り方にも趣きがあります。紙の継ぎ目は縦桟の間隔を二分の一ずつずらした石垣貼りという貼り方は、高度な技術が必要です。拾翠亭の座敷の障子から欄間、そして茶室の小さな明り取りの一つひとつまでこの貼り方で統一されています。

 

こちらは南側の格子窓にある丁子七宝という文様です。丁子(チョウジ)とはスパイスのクローブのことで、チョウジノキの花蕾であるチョウジが、ちょうど丁の字や釘に形が似ているのでこう呼ばれるようです。香りが強いので邪鬼払いに使われたそうで、この丁子七宝の文様もそのような意味があるのではないかと思います。この文様がおしゃれなので、この向こうに広がる景色が一層趣き深く見えますね。

 

 

 

厳島神社

拾翠亭を出て、京都御苑内の道を道なりに右へ曲がると、厳島神社へ行けます。

道なりに100mほど進むと厳島神社の入口です。

 

厳島神社は九條家の鎮守社で、平清盛が母祇園女御のために安芸の厳島神社を勧請したのが起こりと言われます。はじめは兵庫の築島にあったものをここへ移したと伝えられ、厳島三姫命と祇園女御を祀っています。石鳥居は島木、笠木を唐破風形にしているのが珍しく、国の重要美術品に指定されていて、京都三珍鳥居の一つに挙げられています。

厳島神社から池の向こうに拾翠亭を眺めた景色も素晴らしいです。

 

高倉橋

厳島神社から更に道なりに30mほど東へ進むと、高倉橋の前に出ます。

九條邸跡の立て看板があります。

高倉橋の上からも池の向こうに拾翠亭が望めます。

厳島神社も見えました。


拾翠亭の内部は木~土のみ公開ですが、京都御苑は公園なので、その中の九條池の周辺や高倉橋は24時間365日無料で自由に回遊することが出来ます。

京都御苑内は外国人観光客の方も多かったのですが、拾翠亭は私が訪れた時間帯には2~3組ほどで、そもそも参拝料が必要なエリアに入る方は日本人でもかなり少ないので、観光客の多い京都市内にあって、こちらは本当に空いていて静かな時間が過ごせます。公家らしい雅な雰囲気を堪能したい方には是非訪れていただきたいおすすスポットです。

私が訪れた時はまだ咲いていなかったのですが、高倉橋側から拾翠亭を眺めるとサルスベリがあちこちに咲いていて拾翠亭を彩るそうなので、また時期を変えて訪れてみたいと思いました。

 

京都御苑やその周辺については以下でもご紹介しています。

 

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cafe nido(カフェ ニド)~巣のように落ち着ける今熊野の隠れ家カフェ

東山七条にある静かな寺院 智積院から南へ徒歩5分のところに、cafe nido(カフェ ニド)があります。nidoとはイタリア語で巣という意味だそう。文字通り、あたたかく落ち着ける巣のようなカフェでした。

 

cafe nidoの場所

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cafe nidoの行き方

バスで

京都市バス 58,88,202,207,20系統で「今熊野」下車徒歩1分

 

電車で

JR京都駅から市バス206系統清水寺祇園百万遍・北大路バスターミナル行きで

「博物館三十三間堂前」下車 徒歩7分

 

JR東福寺駅から徒歩12分

 

智積院から南へ徒歩5分

 

 

智積院から東大路通を南へ徒歩5分

 

今回のスタートは智積院です。

 

京阪七条駅から智積院への行き方は以下でご紹介しています。

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智積院入口は東大路通に面しているので、この通りを南へ向かいます。写真は南へ向いたところです。約300m南へ歩きます。


300mほど歩くと今熊野の交差点があるので、西へ渡ります。

 

信号を渡って西へ50mほど歩くと到着です。お店の外にテラス席もあり、街中なのに爽やかな風が吹き抜ける心地良い空間です。

 

cafe nidoとは

京都東山で、ワインに合う欧風家庭料理を提供されています。
nidoはイタリア語で巣。初めてでも何故だか懐かしいような感じで落ち着く…そんなお店を目指しているそうです。

Facebookによると、昨年10周年を迎えられたとか。若いご夫婦で切り盛りされているようですが、インスタグラムやFacebookには地域のイベントにも積極的に参加されている記事があり、長く地元の方に愛されるお店のようです。

イタリアンのお店のようですが、カトラリー入れにはフォーク、ナイフ、スプーンに加えお箸もセッティングされていました。

 

食べ応え満点のランチ

ランチタイムにお邪魔したので、お店の前にはランチメニューの可愛い看板が。


看板メニューはラザニアのようでしたが、とても暑い日だったので、熱々のラザニアはちょっと…と思い、パスタコース(1750円)にしました。

夏の地野菜たっぷりプレート、今週のスパゲッティーニA or B、自家製パン、本日のデザート、お飲み物の充実したコースです。

 

オーダーして10分も経たないうちに一品目、夏の地野菜たっぷりプレートが。

これだけでもかなりのボリュームです。

レタス、生ハム、ポテトサラダ、野菜のピクルス(ビーツ?キュウリ、キャベツ)、地鶏のレバームース、キャロットラぺ

全体的に酸味を効かせたしっかり味でワインとも合いそうです。キャロットラペはクミンも効いて美味しい~

 

手作りパンは外はパリッと中はしっとりもっちりして、ほんのり甘く食べ応えがあります。

 

そしてメインの自家製ベーコンと万願寺唐辛子のトマトパスタがこちら。見た目はナポリタンにそっくりですが、似て非なるもの!個人的には甘ったるくて太麺のナポリタンは苦手なので、出された時は、正直「しまった!」と思いました。

でも、頂いてみると…まず麺は細めでツルツルと食べやすく、私好みです。万願寺唐辛子はシャキシャキと爽やかでほのかな甘みも感じられます。自家製ベーコンはしっかりした豚の味とスモークの風味が効いて、トマトの酸味とフレッシュな甘みのトマトソースが全体をまとめ、チーズのコクとピリッとした唐辛子の辛味が味を引き締めています。シンプルな見た目とは違い、様々な味がお互いを引き立て合い、とても満足感の高い大人のトマトパスタでした。

 

最後にお楽しみの本日のデザート(バナナのシフォンケーキ)とアイスティー

バナナとホイップクリーム、ピスタチオも添えられ、とろりとかかったキャラメルソースが味を引き締めます。シフォンケーキのしっとり、もっちり感がたまりません!今まで食べた中で一番しっとりしたシフォンケーキでした。

アイスティーのストローが金属製で、同じSDG'Sでも紙のストローより飲みやすくて良いな~と思いました。

 

平日のランチでしたが、続々とお客様が入り、おひとり様でも入りやすい、くつろげるお店でした。隣の席とそのまた隣の席のお客様はラザニアをオーダーされていて、得も言われぬ美味しそうな香りが…パスタも絶品でしたが、次は絶対ラザニアもいただいてみたいと思いました。

 


cafe nidoは、名前の通り訪れる人の巣のように、静かに落ち着けるお店で、お料理も素材の味を生かし絶品でした。智積院を初め三十三間堂京都国立博物館からも近く、東福寺からも徒歩12分ほどなので、観光で歩き疲れた時のランチや休憩に是非訪れてみてはいかがでしょうか。

 

周辺のおすすめスポットはこちら

 

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智積院 ~知る人ぞ知る紫陽花の名所

一年中観光客や修学旅行生で賑わう三十三間堂京都国立博物館から徒歩数分のところにある智積院は、京都に住む人でもあまり知られていない穴場的なスポットです。長谷川等伯一門による国宝の障壁画をはじめ、利休好みの名勝庭園など文化財の宝庫なのに、なぜかいつ訪れてもあまり人がいません。

そんな智積院ですが、比較的多くの参拝者に出会うのが紫陽花の時期です。というのも、国宝の障壁画や名勝庭園は拝観料が必要ですが、紫陽花の咲き乱れる庭園は無料で拝観できるのです。まさに知る人ぞ知る紫陽花の名所で、いつもよりも少し賑わっていた智積院を皆さんにもご紹介します。

 

 

智積院の場所

goo.gl

 

智積院の行き方

電車で

京阪電車七条駅」から徒歩約10分

・JR/京阪「東福寺駅」から徒歩約15分

京阪電車清水五条駅」から徒歩約20分

 

バスで

・京都駅から市バス206・208・86・88・100・106・110系統で約10分

 「東山七条」から徒歩3分

 

京阪「七条駅」からの行き方は以下のブログでご紹介しています。

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今回のスタートは智積院総門です。

東山七条の交差点に面しているのが総門ですが、こちらからは入れません。総門が面している東大路通を南に下がってすぐのところが入口です。

写真:智積院公式サイトより

 

車で入れる広々とした入口です。

 

智積院とは

智積院真言宗智山派総本山で全国に末寺約3000があります。南北朝のころ創建された紀州根来山の学頭(僧侶に学問を授ける最高指導者・今の学校長)寺院が起源です。1585年(天正13)兵火に遭い、京都に非難しました。大坂城落城後、豊臣秀吉の愛児鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲禅寺の寺領を徳川家康が寄進し、五百佛山根来寺智積院と改め、仏教研学の道場として栄えました。明治に焼けた金堂は1975年(昭和50)に復興。江戸初期を代表する池泉廻遊式庭園は、中国の廬山を形どったといわれ、2023年4月4日オープンの宝物館には、長谷川等伯一派による桜・楓図(国宝)など極彩色の障壁画が展示されています。

 

 

入口の坂を上り左手に受付案内所があり、その右手に境内図があります。

この図で示している通り、中央奥の金堂の裏手に紫陽花園があります。

 

智積院と桔梗

参道には、智積院の寺紋にもなっている桔梗が咲いていました。

 

この桔梗紋は、秀吉の有力武将の一人 加藤清正の家紋に由来しています。

加藤清正は築城の名手として名高かったのですが、その腕を買われて祥雲寺の建立を命じられます。清正は見事に期待に応え、美しい寺院を完成させました。その功績を称える意味で、清正の家紋だった桔梗紋を智積院のシンボルとしても用いるようになったそうです。

境内のあちこちを探すと、本物の桔梗はもちろん、建物などにも桔梗の姿を見つけることができます。金堂の入口の垂れ幕や天水桶(雨水を貯める桶)などにも桔梗の紋が!

この金堂は、総本山智積院の中心的な建物で、弘法大師ご生誕千二百年の記念事業として昭和50年に建設されました。堂内には本尊大日如来の尊像が安置され、朝の勤行、総本山としての多くの法要がここで行われます。

紫陽花園

今回の目的地である紫陽花園は、金堂の裏手にあります。

左が金堂、右が明王殿です。この間の小径を奥へ進んでいきます。

 

60mほど進むと、紫陽花園が見えて来ました。敷石があり、その周りに紫陽花が植わっています。紫陽花園は2012年頃に整備されたそうです。

 

敷石に沿って奥へと進むと、金堂の裏手に出ます。こちらも紫陽花が満開です。



金堂の裏手を更に進むと、墓地があり、墓地の横の階段の脇にも沢山の紫陽花が咲いていました。

 

墓地横の階段を上がり切った後、Uターンして階段を降りたところに、夏ツバキと紫陽花が仲良く並んで咲いていました。

いつもは静かな智積院ですが、この日はお天気も良く、恐らく近隣の施設から来られたと思われる方(車いすを押しておられました)も多く見かけました。外国人観光客はほぼゼロで、みなさんゆったりと紫陽花を楽しんでおられました。

 

鐘楼堂の周辺は青紅葉が美しく、6月にしては暑すぎるぐらいの日でしたが、このあたりを吹き抜ける風は爽やかでした。



境内には紫陽花園や鐘楼堂周辺の庭園のほかにも不動明王を本尊とする明王殿、弘法大師空海の尊像を安置する大師堂など大小様々な堂宇や、明王殿沿いの池泉回遊式庭園など、無料で拝観できるスポットも多数あり、四季折々に彩る草花も迎えてくれます。少し足を伸ばせば清水寺祇園周辺へも行けるので、オーバーツーリズム気味の京都に疲れた方は、是非智積院で静かな京都をお楽しみください。

 

次回は智積院から徒歩5分ほどのところにある、こちらも穴場的なイタリアンのお店をご紹介します。

 

 

 

東山七条から徒歩圏内にあるおすすめスポットです

 

修学旅行の定番、三十三間堂は目と鼻の先です

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建仁寺や八坂神社へは徒歩20分余りです

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東福寺へは東大路通を南へ徒歩16分

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醍醐寺 ~晩年の秀吉も愛でた醍醐の桜 

平安時代から「花の醍醐」と呼ばれるほどの桜の名所・醍醐寺世界文化遺産の境内を背景にシダレザクラソメイヨシノヤマザクラ、ヤエザクラなど数多くの桜が次々と咲き誇ります。豊臣秀吉が晩年、贅を尽くした「醍醐の花見」を行ったことでも知られています。今回は秀吉に思いを馳せながら、醍醐の桜を愛でてみたいと思います。

 

醍醐寺の場所

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醍醐寺の行き方

電車で

・京都駅からJR東海道本線琵琶湖線)または湖西線約5分で「山科駅

  そこから地下鉄東西線に乗り換え約10分の「醍醐駅」で下車し、徒歩約12分

・京都駅からJR奈良線で約18分で「六地蔵駅

  そこから地下鉄東西線に乗り換え約5分の「醍醐駅」で下車し、徒歩約12分

 

バスで

 ・京都駅八条口からホテル京阪前の「H4乗り場」から

  京阪バス「京都醍醐寺ライン」約30分の「醍醐寺」で下車

 ・JR山科駅から京阪バス1番乗り場(22,22A 系統乗車)約20分の「醍醐寺」で下車

 ・京阪六地蔵駅から京阪バス2番乗り場(22,22A系統乗車)約15分の「醍醐寺」で下車

 ・JR六地蔵駅から京阪バス22,22A 系統乗車 約11分の「醍醐寺」で下車

 

地下鉄醍醐駅から醍醐寺までの行き方は以下で詳しくご紹介しています。

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醍醐寺とは

醍醐寺真言宗醍醐派の総本山で、貞観16年(874)、弘法大師空海の孫弟子 理源大師聖宝により開創されました。醍醐山全体を寺域とし、山上の上醍醐、山下の下醍醐からなる200万坪以上の広大な境内を持ちます。国宝や重要文化財を含む約15万点もの寺宝を所蔵し、世界遺産にも認定されています。豊臣秀吉が「醍醐の花見」を行った桜の名所としても有名で「日本のさくら名所100選」にも選ばれています。

 

秀吉と醍醐の花見

「醍醐の花見」とは、慶長3年3月15日(1598年4月20日)、豊臣秀吉がその最晩年に醍醐寺三宝院裏の山麓・槍山において催した花見の宴のことです。秀吉は、豊臣秀頼北政所淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な花見であったと言われています。

その「醍醐の花見」に先立つ前年三月に、秀吉は醍醐寺を訪れ桜を観賞しています。その時の美しさが忘れられなかったのか、翌年二月、醍醐寺に花見の下見に訪れ、仁王門の修理や醍醐寺のあった醍醐山の「槍山」に御殿数宇の建築を命じています。そして桜の馬場から槍山に続く三百五十間(約637m)の左右に「七百本」の桜が植えられましたが、これは畿内や吉野の桜を移植したものでした。今も醍醐寺の総門から仁王門に続く桜の馬場に咲く桜の光景は、秀吉が醍醐の花見の為に植えたものだったのです。

参加した1300人の女性にはそれぞれ二度お色直しを命じられました。3900着の着物を新調する費用は現在の40億円弱にあたるほど。実はこの2年前の1596年に慶長伏見地震があり、伏見城天守や東寺、方広寺大仏等が倒壊し、死者は1000人を越えたそうです。人々の心がしぼんでいた中、秀吉には「醍醐の花見」でそんな京の町を元気づけたいという思いがあったのではないかと言われています。

多くの人が招かれた醍醐の花見ですが、諸大名は伏見城から醍醐寺までの沿道の警備や会場に設営された茶屋の運営などにあたったものの、花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家のみが男性として招かれたそうです。

秀吉は武士として初めて関白に任じられましが、晩年は朝鮮出兵などあまり評判が芳しくなかったようです。そんな中、死期を悟った秀吉が、ごく近しい家族や信頼していた前田利家、そして多くの女性を招き壮麗な醍醐の花見を催したのは、自分が愛した人々に自分のことを桜の美しさとともに記憶にとどめて欲しいという願いがあったからではないかと思えてなりません。

 

このような醍醐寺と秀吉の深いつながりに思いを寄せながら、咲き誇る桜に包まれた醍醐寺を巡って行きます。

 

総門から桜の馬場を経て仁王門へ

今回のスタートは醍醐寺の総門です。「花の醍醐」の名の通り、早速立派なシダレザクラが出迎えてくれます。

 

総門を入るとすぐ左手にあるのが三宝院です。こちらは醍醐寺の受付も兼ねているので、桜の時期は多くの参拝者が三宝院の入口に並んでいました。(写真を撮り忘れたので、下の写真は昨年の冬に訪れた時のものです)

こちらの拝観受付で拝観券を購入し三宝院に入ります。なお、拝観券は下醍醐の有料エリア(三宝院・霊宝館・伽藍)を全て拝観出来ます。

あまりに多くの参拝者が並んでいるので途方に暮れていると、参拝者の行列を整理されているスタッフの方が「拝観券は仁王門でもお求めいただけます。そちらの方があまり並ばないと思います。どちらで購入されても三宝院・霊宝館・伽藍を拝観いただけます」と大きな声で呼びかけておられました。そこで私はすぐに仁王門へ向かい、先に伽藍を拝観することにしました。

 

三宝院の前の参道は、正面の西大門(仁王門)までまっすぐ伸びる「桜の馬場」と呼ばれています。こちらは昨年の冬の写真です。

 

そしてこちらが先日の写真。桜で埋め尽くされた桜の馬場を楽しみながら、次から次へと参拝者が仁王門へと向かっています。それでも多くの参拝者の順路としては「三宝院→仁王門(伽藍)」というのが一般的なようで、仁王門で拝観券を購入する人は数人だったため、私はすぐに仁王門に入ることが出来ました。

 

伽藍周辺の桜

仁王門から中へ入ると、参道は「桜まつり」のぼんぼりや幕が張られ華やかな雰囲気です。

 

清瀧宮本殿と清瀧宮拝殿

仁王門を入り最初に見えてくるのが清瀧宮本殿と清瀧宮拝殿です。

醍醐寺の総鎮守清瀧権現(せいりゅうごんげん)を祀る鎮守社です。永長2年(1097)に最初に建立された上醍醐より分身を移し祀りました。その後この社殿の前で清瀧会(桜会)が行われるようになりましたが、文明の兵火により焼失。現在の社殿は永正14年(1517)に再建され、慶長4年(1599)、座主・義演(ぎえん)僧正により拝殿が整備されました。毎年4月1日から21日まで『清瀧権現桜会(さくらえ)』として様々な法要が行われます。桜会の行われる場にふさわしく、あふれるように咲き誇る桜の花に囲まれています。

 

五重塔

醍醐天皇の冥福を祈るために、朱雀天皇が承平6年(936)に着工し、村上天皇の天暦5年(951)に完成しました。初層の内部には両界曼荼羅真言八祖が描かれており、日本の密教絵画の源流をなすものと言われています。高さは約38mで屋根の上の相輪は約13mあり、相輪が塔の三分の一を占め、安定感を与えています。京都府下で最も古い木造建築物です。951年というと現在大河ドラマで放映中の『光る君へ』の紫式部藤原道長などが生まれるよりも以前のこと。彼らもこの五重塔を見上げたかもしれないのです。そんなに昔からこの地に立ち、応仁の乱の戦火もくぐりぬけ、途中修復はされてきましたが今も立派に当時の姿を残していると思うと、本当にその歴史の重みを感じずにはいられません。

下から見上げた写真なので、相輪が塔の三分の一というのが分かりにくいかもしれませんが、周囲の人物との対比で五重塔の大きさが伝わるでしょうか。

豊臣秀吉応仁の乱で荒廃した醍醐寺を復興するため、醍醐の花見の前年、かろうじて残っていた五重塔の修理に着手して以降、金堂、金剛輪院(現在の三宝院)などの伽藍の再興を行っています。

 

 

金堂

醍醐天皇の御願により延長4年(926)に創建された金堂は、当時は釈迦堂と言われていましたが、二度焼失し、現在の金堂は豊臣秀吉の命によって紀州湯浅から移築が計画され、秀頼の時代、慶長5年(1600)に完成。この金堂が醍醐寺の中心のお堂であり、安置されている薬師如来坐像醍醐寺の本尊です。

 

 

不動堂

 

 

真如三昧耶堂

 

日月門をくぐり、更に奥へ進みます。

 

観音堂

この観音堂を中心に広がる、林泉及び弁天堂、鐘楼、伝法学院等を総称して大伝法院と呼びます。これら諸堂は醍醐天皇一千年御忌を記念し、昭和5年(1930)山口玄居士の寄進により増築されたものです。

醍醐寺御朱印を初め、各種御朱印はこの観音堂で授けていただきます。

 



弁天堂

 

ここまでで下醍醐の伽藍を拝観し終わり、来た道を戻りました。

 

三宝

三宝院は永久3年(1115)、醍醐寺第14世座主・勝覚僧正により創建され、以来醍醐寺の本坊的な存在であり、歴代座主が居住する坊です。現在の三宝院は、豊臣秀吉が慶長3年(1598)に催した「醍醐の花見」を契機として整備されました。その庭園は、秀吉自らが基本設計したもので、国の特別史跡特別名勝に指定されています。その庭園全体を見渡せる表書院(国宝)をはじめとする建造物の多くが重要文化財に指定されています。

 

三宝院のシダレザクラ

醍醐寺の桜というと特に有名なのが、この三宝院の門を入ってすぐの所に植えられた大きなシダレザクラです。一本一本が大きくて枝ぶりも見事です。

 

特別名勝三宝院庭園

慶長3年(1598)に豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催した際に、自ら三宝院の庭園の基本設計をしたといい、各地の大名から集めた名石を配した庭園は桃山文化の特徴である華やかさと勇壮さが感じられる造りとなっており、国の特別名勝及び特別史跡に指定されています。秀吉は醍醐の花見の直後から作庭に着手したものの、庭園の完成を待たずに亡くなりますが、その後も醍醐寺座主・義演准后や石組みに携わった庭者・仙、与四郎、賢庭たちにより作庭は継続され25年後にようやく完成しました。

 

天下の名石「藤戸石」

庭園中央の池の向かい側にある三尊石組みの中央にある立石です。「天下を治める者が所有する石」として室町時代から歴代の権力者によって引き継がれてきたもので「天下の名石」と言われています。「醍醐の花見」の後、秀吉の命により聚楽第より移設されました。秀吉は自分が一番大事にしていた石をこの庭園に据えたほど、この庭園は秀吉の思いが詰まったものだったのですね。

純浄観(重要文化財

純浄観は秀吉が「醍醐の花見」で使用した建物を槍山から三宝院へ移築したものと言われています。内部の襖絵の桜・紅葉図などは平成に入り浜田泰介画伯により描かれました。通常は非公開です。(この日も公開されていましたが、内部の写真を撮り忘れたので、この写真は昨年の冬に撮影したものです)

 

純浄観は庭に面した表書院から更に一段高い場所にあるので、景観がぐっと広がり、名石「藤戸石」をのぞむことが出来ます。

 

霊宝館の桜

霊宝館では醍醐寺が所蔵する国宝や重文だけで7万5千点以上、未指定の文化財を含めると約10万点以上に及ぶ寺宝を収蔵しています。それらは日本の仏教史や美術史上非常に貴重な資料の数々で、寺院の宝物館としては最大規模です。何故ここまで多くの文化財醍醐寺に残っているかというと、京都の主な寺院は明治の廃仏毀釈の流れの中で、宝物を手放しお金に換えることで存続せざるを得なかったという歴史がありますが、醍醐寺はそれをしなかったからだそう。

 

そんな霊宝館の敷地内にも、醍醐大しだれ桜を初め、約40本の桜の木があります。

霊宝館の建物をぐるっと囲むように、あちらにもこちらにも大きな桜の木が。この桜もまた、霊宝館の中に納められた多数の宝物に負けない醍醐寺の宝なのかもしれません。

 

 

 


醍醐の花見を終えてわずか5カ月後に秀吉は亡くなりました。醍醐の花見を計画した時に、すでに秀吉は自らの死期を悟っていたのかもしれません。一世一代の華麗な花見の宴を催すことで、自らの人生の最後に花を咲かせたかったのでしょうか。

醍醐寺の広大な境内の至る所で桜が咲いているので、醍醐寺を参拝するだけで五つぐらい桜の名所を巡ったかのような満足感がありました。桜の名所だけに、お花見シーズンは多くの参拝者で込み合う醍醐寺ですが、それでも一度は訪れてみたいおすすめスポットの一つです。

 

 

醍醐寺塔頭 理性院もおすすめです

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京都の桜の名所あれこれ

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