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堀川周辺の桜の名所めぐり②本法寺 ~苦難を乗り越え結んだ芸術家との縁

堀川紫明を少し南へ下がったあたりにある寺社仏閣には、知る人ぞ知る隠れた桜の名所がいくつかあります。このあたりは電車の駅から少し距離があり観光地化されていないので、桜のピークの時期でもそれほど人も多くなく、それぞれ徒歩10分ほどで移動できる距離にあるので、お散歩にぴったりのコースです。

今回は度重なる苦難の中でも、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した芸術家たちとの深い縁を結び、現在までその芸術を護り続ける本法寺をご紹介します。

 

(2023年3月27日訪問)

 

本法寺の場所

goo.gl

 

本法寺の行き方

電車で

 ・京都市地下鉄「鞍馬口駅」から徒歩約15分

 

バスで

 ・京都市バス9系統「堀川寺之内」から徒歩3分

 

今回のスタートは、水火天満宮です。

地下鉄鞍馬口駅から水火天満宮までの行き方は、以下で詳しくご紹介しています。是非一緒にご参拝ください。

 

www.yomurashamrock.me

 

水火天満宮堀川通に面しており、市バス「天神公園前」停留所の真ん前です。

 

水火天満宮の南隣が天神公園です。

 

堀川通を南へ50mほど進みます。

 

一筋目を東(左)へ曲がります。

 

東へ曲がったところです。前方右手の赤い三角コーンのところが本法寺の入口です。

 

この路地を南へ進みます。

 

春季特別寺宝展の案内が出ていました。

 

こちらから入っていきます。

 

本法寺とは

叡昌山本法寺は、室町時代に活躍した日蓮宗の日親上人(1407-88)によって築かれた日蓮宗の本山です。開創の時期や場所は諸説ありますが、永享8年(1436)に東洞院綾小路に造られた「弘通所(ぐずうしょ)」が始まりとされています。その後、永享12年(1440)に、日親上人の幕府諌暁(かんぎょう:為政者に対し国家の安危を進言すること。日親の場合法華経の信仰を時の将軍足利義教へ説いた)が原因で投獄され、寺も焼かれてしまいました。日親が投獄された際に獄中で出会ったのが、江戸時代初期に日本文化に大きな影響を与えた芸術家・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)の曽祖父にあたる本阿弥清信でした。以降、清信は日清上人に深く帰依し、本阿弥家は本法寺の大檀家になりました。その後も幾度かの法難により、一時は都を逃れ、大阪の堺へ避難しますが、京都の一条戻橋あたりに再興。更に豊臣秀吉の都市区画整備によって、天正15年(1587)に現在の地である堀川寺之内に移りました。その時、本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂宇の建立・整備が行われました。しかし、天明8年(1788)の大火で堂宇のほとんどを焼失。現在の堂宇は江戸時代後期に再建されたもので、本堂、開山堂、多宝塔、仁王門、庫裏、書院などすべてが京都府有形文化財に指定されています。

 

さきほどの門から入ると本堂があります。

 

本堂の北側に拝観入口となる庫裏があります。

 

庫裏から入っていきます。

 

庫裏の入口で拝観料を納めて中へ入ります。写真奥の赤い絨毯を敷いた廊下がある建物が、寺宝を展示する涅槃会館です。

 

長谷川等伯の佛涅槃図

拝観順路に従って、まず赤い字で「1」と書かれた扉の部屋へ向かいます。

 

室内は撮影禁止でしたので、ここからは本法寺の公式サイトの画像を拝借します。

 

写真:本法寺公式サイトより

長谷川等伯「佛涅槃図」

本法寺の「佛涅槃図」(国指定重要文化財)は、京都三大涅槃図のひとつに数えられ、その大きさは縦約10m、横約6mに及びます。作者は安土桃山時代から江戸初期を代表する絵師 長谷川等伯(1539~1610)で、自身の息子久蔵の七回忌追善供養や心を寄せた日蓮宗僧侶らの供養を目的に、61歳の時にこの絵を描き本法寺に奉献しました。

「佛涅槃図」は、通常 原寸大の複製を展示していますが、毎年3月14日~4月15日の期間に真筆が展示されるため、運よく私も真筆を拝観しました。実際、この絵の前に立つと、そのスケールの大きさに度肝を抜かれます。等伯がこの絵を本法寺に奉献した当時は、本法寺の本堂は現在よりずっと巨大な建物だったので、こんな大きな絵も架けることが出来たそうです。しかし天明の大火で本堂などが焼失してからは、絵を架ける場所が無かったそうです。上記の写真のように、下から見上げる感じになり、この絵を展示するために、1階から2階を吹き抜けにしたこの涅槃会館が建てられたそうです。

この図は横たわった釈迦を菩薩や仏弟子、動物が取り囲み、釈迦の入滅を悲しむ様子を描いています。この図の左上の端あたりには、等伯自身も描き込まれています。

当時隆盛を極めていた狩野派に対抗するため、等伯本法寺に奉献する前に、宮中で披露するという世間の耳目を引く行動に出ました。また自身を「雪舟より五代」と称した系図もこの頃描いたとされます。長谷川派が狩野派に匹敵するだけのブランド力を身につけるため、宮中や雪舟という権威を巧みに利用したのですね。

 

本堂の前には長谷川等伯の像が建っています。

 

 

涅槃会館には佛涅槃図の他に、本阿弥光悦の作と伝わる「馬上杯」や翁面、修復が完成したばかりの狩野山楽作と伝わる『唐獅子図』なども拝観できました。

 

十の庭

涅槃会館と唐門の間にあるのが十(つなし)の庭です。数字の1から9を数える時に「ひとつ、ふたつ…」と最後に「つ」がつきますが、10には「つ」がつかないことより「十」を「つなし」と読ませるそうです。この庭には9個の石と、見る人の心にもうひとつの石(意志)が存在することから「十の庭」と名付けられたということです。

 

開山堂から見る桜

沢山の寺宝を拝観した後、開山堂へ向かいます。

 

開山堂の中から本堂を囲む桜を見ることが出来ます。

開山堂の建物の柱などの間から見る桜もまた見事です。

 

巴の庭

拝観順路に従って廊下を進みます。

 

渡り廊下の屋根の下に「三つ巴の庭」の表示がありました。

 

枯山水庭園「巴の庭」は、三つの築山を巴の形に置かれたことからその名の由来があります。

この巴の庭を作庭したのは、涅槃会館でも「馬上杯」や能面などいくつか作品が展示されていた本阿弥光悦です。本法寺が本阿弥家の菩提寺だったこともあり、光悦の作品が本法寺にはたくさん所蔵されており、更に国指定の名勝庭園まで作庭していたんですね。光悦は、その他に書や茶の湯などにも才能を発揮したそうで、今でいうマルチアーティストだったんですね!

 

ちょっとわかりにくいのですが、手前の半円が二つ組み合わさって丸くなっているのが「日」、10本の切石で囲んだ十角形の小さな池は季節になると蓮が咲き「蓮」を表し、二つ合わせて、本法寺の宗祖「日蓮」を表します。庭園の中央に「日蓮」の字が象られているとは、何とも斬新ですね。ここにも光悦の日蓮宗に対する信心深さが伝わってきます。

 

先ほどの写真の右奥あたりにある枯滝組です。奥にある立石で滝石とし、小石(粟石)により水の流れを表現しています。手前に置かれた縞模様の石により、流れ落ちる水を表現しています。手前には苔むした石橋もありますね。

 

 

桜満開の境内

多宝塔は寛政年間(1789~1801)の再建です。

反対側から撮影。

 

境内には摩利支尊天を祀る「摩利支天堂」があります。気力・体力・財力の守護神です。

 

摩利支天堂の前から多宝塔の方を振り返ると、桜のトンネルが!!

 

桜のトンネルの終着点(出発点でもありますが)に仁王門。どうやら私は本法寺の裏側から逆ルートを歩いて来たようです。

 

仁王門です。どう見ても、こちらが正門ですね。

 

 

コロナ前の2019年に本法寺を訪れた時は4月中旬だったため、もう桜は散り始めていました。そのため本法寺がこんなにも桜が綺麗な所だとはあまり認識していませんでした。長谷川等伯の佛涅槃図の真筆をはじめ本法寺と縁の深い芸術家の作品も拝観出来ますので、是非桜の時期に訪れてみてはいかがでしょうか。