古都京都らしい紅殻格子(べんがらごうし)や犬矢来(いぬやらい)をあしらった趣深い建物が立ち並ぶ、祇園のメインストリート 花見小路。この花見小路の南のスタート地点が建仁寺です。というのも、もともとこの通りは建仁寺の敷地だったそうです。そこから一歩建仁寺に入ると、禅寺らしい凛とした静謐な空気がたちこめます。
今回は京都一の繁華街 祇園に隣接する名刹建仁寺をご紹介します。
建仁寺の場所
建仁寺の行き方
電車で
バスで
・JR京都駅より 市バス206系統、100系統
「東山安井」より徒歩5分
「南座前」より徒歩7分
「祇園」より徒歩10分
「清水道」より徒歩10分
今回のスタートは阪急「京都河原町駅」です。
前回ご紹介した八坂神社への道と途中まで道順は同じですが再掲します。
八坂神社の記事をお読みになった方は、適当に読み飛ばしてください。
八坂神社への行き方やご紹介はこちら↓
東改札口から出てそのまま北(前)へ進みます。
1番出口へ向かいます。
1番出口のうち出口Aでも出口Bでもどちらでも良いのですが、今回私は出口B(右側)から出ました。
階段を上ると四条通と木屋町通の交差したところに出ます。四条通りを右(東)へ向かいます。
写真左手が四条通、前方が木屋町通です。木屋町通の信号を東へ渡ります。
60mほど東へ進むと四条大橋です。そのまま東へ進みます。
四条大橋から南側の風景です。少しだけ紅葉が残っています。
写真左端、鴨川の向こうに見えている建物は南座です。
四条大橋を渡り切ると、川端通りです。写真左手に見えているのは京阪電鉄「祇園四条」駅へ下りる階段の入口です。川端通りの向こう、信号を渡った先に見えている赤と白の華やかな建物は南座です。
南座の傍らにひっそり立っているのが「阿国歌舞伎発祥地の碑」です。慶長8年(1603)この辺り鴨河原において歌舞伎の始祖出雲の阿国が初めてかぶきおどりを披露したと伝えられているそうです。
「阿国歌舞伎発祥の碑」を見た後、川端通りを北へ向かい「にしんそば」の看板の所を東(右)へ曲がります。
南座は江戸時代初期に起源を発し、元和年間に官許されたとされる劇場で、同一の場所で今日まで興行を続けてきたという意味では、日本最古の劇場です。「南座」という名称は、京都のメインストリート四条通の南側に位置しているためです。
南座から80mほど東へ進むとお土産物屋さんと並んでいるのが「仲源寺」というお寺です。
仲源寺は浄土宗に属する寺院で、一般に「目疾地蔵(めやみじぞう)」の名で人々に親しまれています。平安時代の治安2年(1022)仏師定朝が四条橋の東北に地蔵菩薩を祀ったことに由来します。
本尊の地蔵菩薩は、平安時代に鴨川の管理を行う役人が止雨を祈ったところ雨がやんで洪水も治まったことから「雨やみ地蔵」と呼ばれていましたが、次第に「目やみ地蔵」と呼ばれるようになり、参拝すると目の病が治るとされたそうです。
観光客でいつも賑わう町中に、そんな霊験あらたかなお地蔵さんがいらっしゃるのも京都ならではですね。
仲源寺から四条通を150mほど東へ進むと、「祇園町南側 花見小路」の石碑が。こちらを南(右)へ入って行きます。
(ちなみに花見小路へ入らずにこのまま四条通を東へ進むと八坂神社に行けます。)
ところで先ほどの石碑に「祇園町南側 花見小路」とありましたが、このあたりのことをよく知らなかったので調べてみました。もともとこの界隈は、八坂神社(明治以前は祇園社、祇園感神院と呼ばれていました)の門前町でした。祇園町は四条通をはさんで「祇園町北側」と「祇園町南側」という住所になっていて、お茶屋は圧倒的に南側が多いそうです。北側にはもともと近江国膳所藩(現在の滋賀県大津市)の藩邸がありましたが、明治維新でこの屋敷が無くなった跡が花街として発展し、これが現在の祇園町北側の中心となっています。お茶屋が南側に集中した理由は、また後程紹介します。
花見小路に入るとべんがら格子に犬矢来の京都らしい店が立ち並ぶ風情のある風景に変わります。
べんがら格子は紅殻格子とも書き、酸化鉄を主成分とした赤色の顔料で塗られた千本格子のことです。格子は縦の桟が詰まっていて、横が荒いのが特徴で。中から外はよく見えるのに、外から中は見えにくい、昔ながらの知恵なんですね。
犬矢来は町屋の軒下に緩やかなカーブを描いた薄く削った竹の柵のようなもの。犬を追い払うことを「犬をやらう」と言い、その言葉に漢字を当てて「犬矢来」となったそうです。本来は名前の通り犬のおしっこ除けだそうですが、形がカーブ状になってよじ登りにくいことから泥棒除けや、雨が降った時の雨水の跳ね返りが家の板塀に当たるのを防ぐ効果もあるようで、実用性の高いものです。
べんがら格子も犬矢来も京都らしい町並みを彩る見た目だけでなく、昔の人の知恵が詰まった実用性も兼ね備えたものでした。
ところで先ほどご紹介したお茶屋が祇園町南側に集中した理由ですが、これにはこれから行く建仁寺にそのカギがありました。
花見小路一帯は建仁寺の敷地でしたが、建仁寺も明治の神仏分離令のあおりを受けて境内の半分近くの土地を政府に納付しました。そして明治政府は、接収した土地を祇園の女紅場(にょこうば;芸妓、舞妓の学校)に払下げ、その土地にお茶屋が集まったというわけです。
花見小路に石畳が敷かれ、電線の地下化が完了したのは平成13年(2001)と、京都の長い歴史の中ではかなり最近のこと。
祇園を形容する際に「昔ながらの風情が感じられる」とか「ノスタルジックな雰囲気」などと言われることがありますが、実はそれだけではありませんでした。祇園町には「昔ながら」の京都だけではなく、明治以降の「新しい京都の街づくり」も詰まっていたのです。
花見小路を300mほど南へ進むと建仁寺の北門です。さっそく入って行きましょう。
建仁寺とは
建仁寺は建仁2年(1202)、将軍源頼家が寺域を寄進し、日本で初めて臨済宗を伝えた栄西を開山として建立されました。その時の元号を寺号とし山号を東山(とうざん)と称し、京都最古の禅寺と言われています。創建時は比叡山延暦寺の力が強大であったため、天台・密教・禅の三宗兼学の道場でしたが、第十一世蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の時から純粋な臨済禅宗の道場となりました。
室町幕府より中国の制度にならい京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により荒廃します。
その後天正年間(1573~1592)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築し復興が始まり、徳川幕府の保護のもと制度や学問が整備されます。
「建仁寺の学問面(がくもんんづら)」という言葉がありますが、これは詩文芸術に秀でた禅僧を多数輩出し、「五山文学」を作りだしたことから、京都の人からこのように言われているそうです。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派として分派独立、建仁寺はその大本山となります。
北門から一歩入ると、賑やかな花見小路の華やぎとはうって変わった静謐な空気が流れています。禅寺特有の凛とした佇まいです。
正面左側が有名な双竜図のある法堂ですが、まずは右側の本坊へ向かいます。
本坊です。本坊とは住職の住む所で、その寺の寺務を取り仕切る僧房のことで、庫裏とも言います。京都府指定有形文化財になっています。
こちらから中へ入っていきます。
本坊で受付を済ませ靴を脱いで入ってすぐの所にあるのが国宝「風神雷神図屏風」です。こちらは複製なので写真撮影できました。原本は京都国立博物館に寄託されています。広くとられた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける風神・雷神のダイナミックな動きが感じられます。落款も印章もありませんが、俵屋宗達の晩年の最高傑作とされています。
本坊の中庭にある潮音庭(ちょうおんてい)は、中央に三尊石、その東に座禅石、周りに紅葉を配し、四方向から眺められる枯山水の禅庭です。12月初旬でしたが、まだ紅葉が残っていて、小さいながら京都の秋をぎゅっと閉じ込めたような美しさで、参拝者はみな足を止めて写真を撮ったり、ゆっくり眺めたりして楽しんでいました。
〇△▢乃庭(まるさんかくしかくのにわ)です。単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を象徴したもので、地(▢)は手前の井戸、水(〇)は庭の中心の苔、火(△)は奥の白砂で表しているそうです。現代アートのようで面白いですね。平成18年(2006)に作庭家 北山安夫が作庭しました。
納骨堂と方丈の間は白砂の庭園となっており、飛び石が配されています。燃えるように色づいた紅葉が印象的でした。
方丈の南側に広がる枯山水の庭園「大雄苑(だいおうえん)」です。
白砂に巨石や苔島などを配した庭園は、余分なものを省いた洗練した美しさです。
方丈の西側にも庭園が続いており、苔島や岩が配されています。
写真:建仁寺公式サイトより
方丈の襖には、桃山画壇を代表する巨匠 海北友松により描かれた「建仁寺方丈障壁画 雲龍図」があります。もともとは襖の障壁画でしたが、襖から掛け軸に形を変えて、京都国立博物館で保管されています。現在の方丈にある襖絵は2014年に複製されたものです。筆の軽快さとダイナミックな構図で、今にも龍が襖から飛び出して来そうなほど生き生きと描かれています。
建仁寺は創建当初から、京の中心地にあったため、火災や戦災で何回も焼失と再建を繰り返しながらも、多くの貴重な美術工芸品を有しています。
先にご紹介した国宝「風神雷神図」や重要文化財「障壁画雲竜図」をはじめ、「竹林七賢図」「山水図」など多くの名画(やその複製)が、ガラスケースごしでなく、間近に見ることができ、まるで美術館のようです。
さて本坊、方丈の参拝を終え、次は法堂へ向かいます。参道脇の紅葉が色彩の少ない境内を鮮やかに彩っていました。
現在の法堂は明和2年(1765)に再建された、五間四間・一重・裳階(もこし)付の堂々とした禅宗様仏殿建築です。仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている「粘華堂(ねんげどう)」です。正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像が安置され、天井には平成14年(2002)に、創建800年を記念し小泉淳作「双竜図」が描かれました
二頭の「阿吽」の龍が絡み合うように描かれたこの天井画は畳108枚もの大きさで、圧巻の迫力です。龍は仏教を守護する八部衆に数えられ「龍神」と言われます。禅寺の本山の多くでは龍が天井に描かれているのは、水を司る神様である龍を描くことで、火災から建物を守るという意味もあるそうです。
日本に禅と茶を伝えた栄西禅師
開山の栄西という名は、歴史の教科書では「えいさい」と書いてありましたが、建仁寺の寺伝では「ようさい」と言うそうです。栄西禅師は永治元年(1141)備中(岡山県)に生まれ、14歳で落髪、比叡山で天台密教を修め、その後二度 宋へ渡り、日本に禅を伝えました。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。
境内には「茶祖」栄西を記念した茶碑が。その後ろには茶の招来800年を記念して平成3年(1991)に作られた茶園があります。
茶碑の奥にあるのが開山堂です。建仁寺開山の栄西禅師の廟所(お墓)です。「千光祖師栄西禅師入定塔」の石碑が手前にあります。写真に写っているのは、二層の立派な楼門です。栄西禅師八百年大遠諱(おんき)の事業として楼門修復工事が行われ、平成25年(2013)1月に完了しました。この楼門がもともと京都の宇多野鳴滝にある建仁寺派妙光寺にあったもので、明治18年(1885)に移築されました。
国宝「風神雷神図屏風」は、もともとこの妙光寺にありましたが、文政12年(1829)、妙光寺六十三世・全室慈保が、本山建仁寺に移るにあたり、この屏風を帯同したとも言われています。以降、この屏風は建仁寺の寺宝として所蔵されてきたのです。
三門(さんもん)です。大正12年(1923)、静岡県浜松市の安寧寺から移築したものです。空門(一切は空と悟る)・無相門(一切の執着を離れる)・無作門(一切の願求の念を捨てる)の三境地を経て、仏国土に至る門・三解脱門のことです。「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼(ぼうけつろう)」と名付けられました。
この写真は三門から勅使門方向を撮影したものです。手前両側の松の木の周囲には放生池が広がっています。今回は12月だったので静かな水面が広がるのみでしたが、夏には見事なハスの花が咲き乱れ、さながら極楽浄土のような美しさだそうです。
京都の一大観光スポット祇園にありながら、建仁寺は禅寺らしい凛とした佇まいの寺院でした。ただ古く広いだけでなく、国宝や重要文化財といった美術品の名品の宝庫であり、四季折々の自然の美を堪能できる庭園もいくつもあり、見どころがこれでもかと詰まっていて、雨の日でも十分楽しめます。建仁寺は基本的にどこでも写真撮影が可能です。かつて京都五山の第三位であったという格式高い寺院ですが、素晴らしい名画や庭園の数々をゆっくり楽しんで欲しいというおもてなしの心も随所に感じられる親しみやすさもあります。
周辺には花見小路、八坂神社や高台寺、安井金毘羅宮なども徒歩圏内にありますので、是非一度足をお運びください。
八坂神社についてはこちらで詳しくご紹介しています。↓