能登半島地震の甚大な被害に心が痛みます。お亡くなりになられた方々のご冥福と被災地の早期復興をお祈り申し上げるとともに、震災に遭われた方々に心からお見舞い申し上げます。
新年あけましておめでとうございます。
今年は辰年。太陽が昇る方角でもある東は「誕生」「始まり」などを意味し、辰年は大きな変化が起きることが多いとも言われています。初詣として東山にある龍に縁の深い八坂神社と建仁寺を訪ね、良い一年を祈念したいと思います。
八坂神社の場所
八坂神社の行き方
電車で
バスで
JR京都駅より市バス100・206番
「祇園」下車すぐ
建仁寺の場所
建仁寺の行き方
電車で
バスで
・JR京都駅より 市バス206系統、100系統
「東山安井」より徒歩5分
「南座前」より徒歩7分
「祇園」より徒歩10分
「清水道」より徒歩10分
八坂神社への詳しい行き方は以下で詳しくご紹介しています。
八坂神社の西楼門
本日のスタートは八坂神社の西楼門です。
四条通の東の突き当りにあるのがこの西楼門です。この日は1月2日、元旦ほどではありませんが、多くの参拝者で賑わっていました。参拝者は四条通から来られる人が多いので、この西楼門が一番有名ですが、実はこちらは正門ではなく、正門は南楼門だそうです。
参道には多くの屋台が並び、コロナ前の賑わいを取り戻していましたので、写真を撮影するのは遠慮しておきました。先にご紹介した八坂神社のブログは2021年12月に参拝した時の様子ですが、ほとんど人が写り込んでいません。今、読み返すと、こんなに人が少ない八坂神社というのは実はものすごく貴重だったんだと気づきました。
2021年12月当時の八坂神社境内
八坂神社とは
京都のメインストリートの一つ四条通の東のスタート地点に位置し、京都東山随一の観光地でもある八坂神社は、一年を通して多くの参拝者で賑わっています。
京都人は八坂神社のことを親しみをこめて「祇園さん」や「八坂さん」と呼びます。それは八坂神社が元は「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたからです。花街として知られる祇園の名も、その門前街として栄えたことに由来します。
そして日本三大祭の一つ「祇園祭」も、疫病が鎮まるようにと平安時代に始まった八坂神社の祭礼としてあまりにも有名です。
八坂神社の創祀には諸説ありますが、社伝によると、一つは斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)をこの地の祀ったのが始まりとされます。
また一説には貞観18年(876)、南都(奈良)の僧 円如(えんにょ)がこの地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓 祇園林に降り立ったことに始まるとも言われています。
その後元慶元年(877)、疫病流行に際して「東山の小祠」(祇園社)に祈りが捧げられ流行が止んだことが八坂神社の発展の景気とされています。
長徳元年(995)には王城鎮護の社として崇敬された二十一社(のちに二十二社)に数えられました。
本殿
本殿前も多くの参拝者がお参りの順番待ちに並んでいたので、遠くから撮影。
本殿は令和2年(2020)12月に国宝に指定されました。
現在の本殿は承和3年(1654)に徳川四代将軍の家綱が再建したものです。一般の神社では別棟とする本殿と拝殿を一つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式を取り「祇園造」と言われています。
祀られているのは素戔嗚尊とその妻 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、その間に生まれた子どもである八柱御子神(やはしらのみこがみ)の三柱のご祭神です。
2021年12月撮影
八坂神社と龍
京都は、方角を司る「四神」が守護する土地として造営されたため、四神相応といわれます。方角すなわち、東西南北とその要所に鎮座するお社のうち、八坂神社は東を守る青龍をシンボルとしています。
一方、八坂神社にはたくさんの不思議な伝説が伝わっていて、本殿にもその一つがあります。それは、本殿の下に大きな池があり、水脈が平安京の西に位置する神泉苑や南の東寺まで続いているというのです。(本殿の下の池は現在、漆喰で固められていて見ることは出来ないそうです)
またその池は大地のエネルギーが集まる場所として、青龍が棲む「龍穴」になっていて、古くから都を守ってきたと言われています。大地のパワーの面からも、八坂神社は古来より京都を守る存在だったのですね。
八坂神社から建仁寺へ
さて、八坂神社を参拝した後は、再び西楼門を通って四条通を西へ向かい、祇園のメインストリート花見小路を南へ進み、建仁寺へと向かいます。
建仁寺への行き方は以下で詳しくご紹介しています。
八坂神社の西楼門の正面から京都市内を東西に横切っているのが四条通です。四条通を西へ200mほど進むと花見小路に出ます。
2021年12月の写真
古都京都らしい紅殻格子(べんがらごうし)や犬矢来(いぬやらい)をあしらった趣深い建物が立ち並ぶ、祇園のメインストリート 花見小路。この花見小路の南のスタート地点が建仁寺です。というのも、もともとこの通りは建仁寺の敷地だったそうです。
2021年12月の写真 人通りがかなり少ないですね
花見小路を南へ300mほど進むと突き当りが建仁寺の北門です。
北門から一歩建仁寺に入ると、禅寺らしい凛とした静謐な空気がたちこめます。
建仁寺とは
建仁寺は建仁2年(1202)、将軍源頼家が寺域を寄進し、日本で初めて臨済宗を伝えた栄西を開山として建立されました。その時の元号を寺号とし山号を東山(とうざん)と称し、京都最古の禅寺と言われています。創建時は比叡山延暦寺の力が強大であったため、天台・密教・禅の三宗兼学の道場でしたが、第十一世蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の時から純粋な臨済禅宗の道場となりました。
室町幕府より中国の制度にならい京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により荒廃します。
その後天正年間(1573~1592)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築し復興が始まり、徳川幕府の保護のもと制度や学問が整備されます。
「建仁寺の学問面(がくもんんづら)」という言葉がありますが、これは詩文芸術に秀でた禅僧を多数輩出し、「五山文学」を作りだしたことから、京都の人からこのように言われているそうです。
明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派として分派独立、建仁寺はその大本山となります。
方丈
建仁寺で有名な双竜図は法堂にありますが、法堂などを拝観するためには、まず本坊で受付を済ませ、方丈を通ってから法堂へと向かいます。
方丈の襖には、桃山画壇を代表する巨匠 海北友松により描かれた「建仁寺方丈障壁画 雲龍図」があります。もともとは襖の障壁画でしたが、襖から掛け軸に形を変えて、京都国立博物館で保管されています。現在の方丈にある襖絵は2014年に複製されたものです。筆の軽快さとダイナミックな構図で、今にも龍が襖から飛び出して来そうなほど生き生きと描かれています。
方丈庭園「〇△▢乃庭」
〇△▢乃庭(まるさんかくしかくのにわ)は、単純な三つの図形で宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を象徴したもので、地(▢)は奥の井戸、水(〇)は庭の中心の苔、火(△)は白砂で表しているそうです。平成18年(2006)に作庭家 北山安夫が作庭しました。
方丈庭園「大雄苑」
方丈の南側に広がる枯山水の庭園「大雄苑(だいおうえん)」です。
白砂に巨石や苔島などを配した庭園は、余分なものを省いた洗練した美しさです。
建仁寺と龍
双竜図のある法堂へは、方丈庭園「大雄苑」の脇の廊下からスリッパに履き替えて向かいます。
スリッパの数より拝観者が多いと、法堂を拝観し終わった人がスリッパを戻すまで廊下で待つことになります。ちょっと面倒ですが、スリッパの数以上の人は法堂に入れないので、自然と混雑緩和になっているようで、面白いシステムだなと思いました。
廊下から大雄苑を見たところです。
法堂
現在の法堂は明和2年(1765)に再建された、五間四間・一重・裳階(もこし)付の堂々とした禅宗様仏殿建築です。仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている「粘華堂(ねんげどう)」です。正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像が安置され、天井には平成14年(2002)に、創建800年を記念し小泉淳作「双竜図」が描かれました。
二頭の「阿吽」の龍が絡み合うように描かれたこの天井画は畳108枚もの大きさで、圧巻の迫力です。龍は仏教を守護する八部衆に数えられ「龍神」と言われます。禅寺の本山の多くでは龍が天井に描かれているのは、水を司る神様である龍を描くことで、火災から建物を守るという意味もあるそうです。
龍が描かれる際には、その格の高さによって爪の本数が変わるそうです。建仁寺の双竜は、五本爪を持ち、かつ龍の尾と足が全て描かれている点がとても珍しいとか。上の写真でも口を開き下の方に描かれた龍が「あらゆる願いが叶う」如意宝珠を握っているその爪が五本ですね。そんなことを考えながらこの双竜図を眺め、十二支の中でも特に縁起が良いとされる龍のパワーをいただくことで、新年に良いスタートが切れるような気がしました。
年初から能登半島地震に航空機事故と不穏なニュースが続きますが、どうか一日も早く事態が落ち着き、辰年らしく力強い復興と再出発が叶いますようにお祈りしています。
今年もどうぞよろしくお願い申しあげます。