京都には桜の名所はたくさんありますが、しだれ梅の名所はあまり聞いたことがありません。そんな中、京都随一とも言われるしだれ梅の名所が城南宮です。社殿の西に広がる「春の山」では、150本のしだれ梅が薄紅色や紅白の花を咲かせ、春の訪れを告げます。特に同じ敷地に多数植えられたもう一つの名物 椿とのコラボレーションは、ここ数年SNSでも大人気です。
今回は「まいまい京都」が企画する「鳥羽離宮 枝垂れ梅と椿で一面春色、庭師とめぐる城南宮神苑~春の山から平安・室町・桃山の庭へ、史上空前規模の離宮跡~」というツアーに参加した時の様子を2回に分けてご紹介します。
1回目は、城南宮のある鳥羽の地に、かつて日本史上空前規模の離宮があったという名残を探して鳥羽離宮跡公園の周辺をご紹介します。
「まいまい」とは「うろうろする」という意味の京ことばで、「まいまい京都」では、600人を超える各分野のスペシャリストが独自の視点でガイドする京都や近郊のミニツアーを多数実施されています。
鳥羽離宮跡公園の場所
鳥羽離宮跡公園の行き方
電車で
バスで
京都駅八条口から
・らくなんエクスプレス(八条口E①乗り場)で約5分「城南宮前」下車
徒歩1分(平日のみ運行)
・市バス19系統(八条口F ②乗り場)で約22分「城南宮」下車徒歩2分
1時間に1本運行
京都駅烏丸口から
・市バス19号系統(C④乗り場)で約30分「城南宮」下車徒歩2分
1時間に1本運行
地下鉄竹田駅から
・竹田駅西口から市バス竹田駅18で約4分「城南宮」下車徒歩5分
バスで行かれる場合は、本数が少ないので、行きかえり共に運行時間を確認してください。
国道赤池から鳥羽離宮跡公園へ
今回のスタートは、鳥羽離宮跡にほど近い市バス「国道赤池」バス停付近からです。
ガイド三浦豊さんは京都生まれ。庭師の視点から各地の森や庭園を案内されています。今回のツアーでも随所に庭師としての独自の視点から、鳥羽離宮跡や城南宮の見どころを案内していただきました。
そんな三浦さんが最初に立ち止まったのは、国道赤池の交差点南東側。枯れた細い木が、歩道と車道の間のコンクリートからワシャワシャと生えています。この木は「秋楡(アキニレ)」と言うそう。
城南宮のある鳥羽の地は、鴨川と桂川の間の水郷地で、かつては巨大な遊水地・巨椋池がありました。境内は古くより「城南の森」と呼ばれ、深い森が広がっていたそうです。平安時代、城南宮の社は鳥羽離宮の守護神として祀られていたと言います。
二つの大きな川に挟まれたこの地は、ほとんどが沼地で、数えきれない洪水により土の養分が流された痩せた土地でした。秋楡はそんな沼地でも痩せた土地でもぐんぐん育つ、非常に生命力の強い木で、しかもとても大きく育つので庭木には適さないのだそう。道路脇に生えている秋楡は通行の邪魔になるので、大きくなると人が伐採するのですが、コンクリートの隙間のほんの少しの土を養分にして、また何度でも生えてくるそうです。何ともたくましいですね。
交通の要衝に出来た「院政」の舞台
この交差点から北西へと向かい、12世紀頃、白川上皇のお住まいとされた鳥羽離宮の南殿跡へと向かいます。
先ほども書いたように、このあたりは鴨川と桂川に挟まれた沼地だったので、道路を造成するために、この写真のように盛り土をしていました。そして、この盛り土の向こうの大きな道路は、現在は千本通ですが、当時は「鳥羽作道(とばのつくりみち)」という重要な道で、これは京の都のメインストリート 朱雀大路をずっと南へ延長したものでした。そしてちょうどこの辺り 鳥羽作道の南端は平安京の外港にあたり、つまりは交通・物流の要衝でした。しかも、貴族たちが狩猟や遊興を行う風光明媚な地としても有名であったため、古くからこの鳥羽には貴族たちの別邸が立ち並び、市が立つなど、都市として発達していました。
この写真の東側には、白河上皇が貴族から献上された別荘地を利用し大規模な拡張工事を行ってできた鳥羽離宮最初の御殿・南殿がありました。
現在は金網で囲まれた、だだっ広い空き地のようなグラウンドになっていますが、申し訳程度に「鳥羽離宮南殿跡」の立て看板がありました。
この鳥羽離宮は東西約1700m、南北約1100m、総面積180万㎡という日本史上最大規模の広さでした。白河上皇が建造し、その後 鳥羽上皇、後白河上皇を経て、鎌倉時代の後鳥羽上皇まで引き継がれ、いわゆる「院政」の舞台となりました。別名「鳥羽殿(とばどの)」「城南離宮」とも呼ばれています。
ガイドの三浦さんが参加者に配布された、鳥羽離宮の想像図です。左下に描かれている建物群が南殿です。南殿のすぐ左を通っている真っすぐな道が鳥羽作道でその道を地図の上の方へとたどると平安京の都がうっすらと見えていますね。朱雀大路につながっていることがわかります。
上の想像図の通り、平安京の中心・朱雀大路の延長線上に位置し、鴨川と桂川と巨大池泉に囲まれ「さながら都遷りがごとし」と表現されるほど大規模な離宮が誕生したのです。武士が力をつけてきた平安末期に、上皇がこのように新たな離宮を造営することで、仕事が生まれ、人が集まり、天皇家への崇敬の念が高まる…院政はこのような思惑から始まったのです。現在は、ただの空き地のような場所にその名残を見るのみですが、12世紀から14世紀頃は、政治や物流の中心地として発展していたと知り、栄枯盛衰とはこのことだなあと感慨深いものがありました。
鳥羽離宮跡公園の秋の山
さて、南殿跡の看板を確認した後は、更に北へと進み、「鳥羽離宮跡公園」へと向かいました。
こちらも古の上皇たちがお住まいだった離宮の面影はほとんど無い、広々とした公園で、現在は地元の子どもたちが元気に遊んでいるそうです。グラウンドの向こうに木々が繁っている向こうのこんもりとした土盛りは、鳥羽離宮の庭園に設けられた築山「秋の山」の遺構と言われています。手前にとても背の高い木が生えていますが、これは楠(くすのき)です。日本で一番大きくなる木だそうです。常緑樹で、南に行くほど元気に生えていることから「木偏に南」と書いて楠と読むそうです。
ちなみにこの楠も秋楡と同様、とても大きく育つため、人の力でコントロールすることが難しく、庭木には向きません。神社の御神木として、ひときわ大きな楠を見かけることが多いですよね。私は大きな木があるところに神社が出来たのかと思っていましたが、実は、神社に生えた木は、神域での殺生を避けるため、ほとんど切られないのだか。そのため、神社に生えた木は結果的に大きく育つのだそうです。順番が逆だったのですね。これは私にとってはとても大きな発見でした。
秋の山を登っていくと山頂付近には幕末の「鳥羽伏見の戦い勃発地」の石碑もありました。鳥羽離宮とは関係ありませんが、この辺りは交通の要衝であったため、何かと戦乱に巻き込まれやすい土地柄だったようです。
秋の山の傍らには、風光明媚は鳥羽離宮があったことを彷彿とさせる池があります。
秋の山は歴史上、様々な文献に記録が残っているそうです。例えば平家物語には「(池の辺を見渡せば)秋の山の春風に白浪しきりに打ちつけて 紫鴛白鴎逍遥す」(池の周りを見渡せば、秋の山に春風が吹き、白い波が寄せては返し、オシドリやユリカモメが気ままに歩き回っている)という風雅な記述もあるとか。
この後、鳥羽離宮跡公園を後にして、更に北へ向かい、京都南インターの手前あたりを見学しました。この辺りには、鳥羽上皇が建立された御所である北殿の東に「勝光明院」という寺院の阿弥陀堂があったそうで、宇治の平等院鳳凰堂を模して建てられたと言われています。現在は影も形もありませんが、もし残っていれば確実に世界遺産に登録されていただろう、とのこと。
勝光明院 阿弥陀堂の再現図
その土地の記憶をつなぐ木々
うまく写真を撮れなかったのですが、鳥羽離宮跡公園へ向かう途中や公園に入ってすぐのところなど、あちこちに秋楡の木や秋楡が伐採された跡がありました。痩せた沼地でも育つ秋楡はとても大きく育つ種類なので、人間が庭木としてコントロールすることが出来ません。そのため現在そこに秋楡があるということは、植えたものではなく自然に生えたものということ。日本はもともと国土の99%が森だそうです。そのため町であろうと田園であろうと森に戻ろうとするんだとか。鳥羽離宮建設以前の沼地にもきっと秋楡の森があり、離宮の主である上皇陛下たちも、きっとこの秋楡をご覧になったことでしょう、とガイドの三浦さんはおっしゃいました。
平安以前からそこに生えていたであろう秋楡のたくましさを見ていたら、京都駅に隣接する貨物駅の跡地に出来た「いのちの森」のことを思い出しました。
「いのちの森」は都市空間に京都の太古の森を復元することをテーマに作られ、下鴨神社の糺の森(ただすのもり)など、市内に残る原生林を調査し、そこに生えている木を各地から集めて植樹し、森を作り上げたそうです。さらに、1996年に京都市営地下鉄東西線が開通した際に、伐採を余儀なくされた御池通のケヤキの木もここに移植されました。地元生まれ、地元育ちの木はやはり強いそうです。その土地の在来種だけで構成されたいのちの森は、なかなか外来種が入って来られないので、たった25年で人の足跡なんて無かったように生い茂った森へと育っていったそうです。
いのちの森を訪問した時の様子です
人間はその土地にあった自然を上手く利用して、自分たちに都合が良いように自然に手を加えたり、「自然を守ろう」としたりしていますが、自然にとってはそんな人間の意図は大きなお世話なのかもしれませんね。
人間の都合で伐採しても、また生えてくる秋楡を見つけることで、太古の昔のこの地の自然の様子を知ることが出来ました。また、この地に育つ秋楡によって800年以上昔の院政の時代と現代が地続きであることが分かり、とても身近に感じられました。
これは、庭師である三浦さんならではの視点で、とても興味深かったです。
今回はここまでです。
次回は鳥羽離宮の鎮護社とされた城南宮の「春の山」をご紹介します。