京都おすすめ散歩道

定番から穴場まで京都のお散歩コースを地元民の視点からご紹介

嵯峨嵐山文華館「どうぶつ美術館」 ~動物に魅せられた画家の思いを読み解く

嵐山の渡月橋から西へ徒歩5分ほど、風情のある料亭や旅館の立ち並ぶ先にあるのが嵯峨嵐山文華館です。こちらは百人一首をテーマとした常設展に加え、年に4回の企画展を実施。現在は10月10日まで「どうぶつ美術館」と題し、日本画にしばしば登場する「動物」をテーマに、作品が制作された背景にも触れながら、様々な動物画を紹介しています。日本画というと、ちょっと古臭いようで馴染みが薄いと思われるかもしれませんが、身近な動物を題材にした日本画の数々は素直に楽しめました。嵐山観光のついでに足を運んでいただければと思い、ご紹介します。

 

 

 

 

嵯峨嵐山文華館の場所

https://g.page/SagaArashiyamaBunkakanSAMAC?share

 

 

嵯峨嵐山文華館の行き方

・JRで

  山陰本線嵯峨野線

  「嵯峨嵐山駅」下車 徒歩14分

 

・阪急で

  嵐山線「嵐山駅」下車 徒歩13分

 

嵐電京福電気鉄道)で

  嵐山本線「嵐山駅」下車 徒歩5分

 

今回のスタートは、京福電鉄嵐山駅です。

駅を出たら南(左)へ向かいます。

 

駅前を南北に走る「長辻通り」を南へ進みます。

 

前方に渡月橋が見えたら、その手前を西(右)へ曲がります。

 

渡月橋の手前を右へ曲がったところです。写真左手に見えているのが保津川です。保津川沿いを西へ進みます。

 

進行方向左手、保津川の向こうに見えているのが嵐山です。9月末だったので、紅葉にはまだ早いですね。

 

保津川沿いを200mほど進むと、右手に見えるのがホテルMUNI KYOTOです。その端に「福田美術館」の小さな看板が出ていますが、今回は福田美術館は後回しにして、このまま保津川沿いを更に西へ進みます。

 

老舗の料理旅館や料亭などを通り過ぎ、更に200mほど進み、突き当りを北(右)へ曲がります。

 

嵯峨嵐山文華館に到着です。

 

嵯峨嵐山文華館とは

藤原定家小倉百人一首を選んだ地、小倉山のふもと、嵐山の渡月橋の近くに、百人一首をテーマとした展示、振興のために2006年に開館した「百人一首殿堂 時雨殿」を改装し、2018年11月にリニューアルオープンしたのが「嵯峨嵐山文華館」です。こちらは小倉百人一首の歴史やその魅力と、日本画をはじめとする京都ゆかりの芸術・文化の粋を伝えるミュージアムとして開館されました。

 

建物は一階、二階が展示スペースとなっており、一階は常設展示「百人一首ヒストリー」と企画展スペース、二階は企画展を開催する120畳の畳ギャラリーとなっています。日本の美術品・工芸品は本来、畳に座って見るものであることから、敢えて作品の位置が低い展示ケースを採用したそうです。競技かるたや講演会などのイベントも畳ギャラリーで開催されます。

 

では、さっそく入っていきましょう。

嵯峨嵐山文華館では、チケットにQRコードが印刷されています。

 

これを各展示室の入口にある読取機にかざして入室します。

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ゲートが開いて中へ入れます。

 

館内の展示は、「撮影不可」の表示があるもの以外は撮影OKです。

 

1階の展示室奥には常設展示「百人一首ヒストリー」があります。

 

常設展示については以下のブログで詳しくご紹介しています。

www.yomurashamrock.me

 

 

どうぶつ美術館

日本画にしばしば登場する「動物」。鹿や狸など身近に生息する野生動物や、牛や馬など家畜として人の生活を支えてきた動物を観察しながら、動くいきものの姿をいかに表現するかということは、古来多くの画家が取り組んできたテーマでした。本展覧会では、動物が描かれるようになった背景や、画家を魅了した様々な動物画が紹介されています。

 

 

猫と子犬 長沢芦雪

大人の猫が兄弟と思われる3匹の子犬の子守りしているような、ほのぼのとした作品。長沢芦雪は京都の淀で育ち、写実的な画風で知られる円山応挙に入門。20代からは応挙とは違う画風を追求していきます。

 

仔猫図 大橋翠石

大橋翠石は岐阜県大垣市に生まれた画家。虎や猫の絵を得意とし、生前には東西日本画壇の重鎮であった横山大観竹内栖鳳に並ぶほど高い評価を得ていました。

3匹の西洋の猫とバラの取り合わせが、モダンな感じで、バラが猫のかわいらしさを引き立てていますね。

 

竹雨 木谷櫻谷(このしまおうこく)

木谷櫻谷は「狸の櫻谷」と呼ばれるほど狸の絵を沢山描きました。狸のフワフワとした毛がとてもリアリティがあり可愛らしく、櫻谷の狸への愛を感じます。雨で濡れて霞がかかった竹林から狸がひょっこり現れて、櫻谷に見つかり足を止めて逃げようか迷っている…そんな場面が想像できるコミカルで幽玄でもある不思議な作品ですね。

 

群蝦蟇図 松本奉時

松本奉時は18世紀に大坂で表具屋を営み、蛙をこよなく愛し、珍しい蛙や蛙に関する器物を蒐集していました。本作は奉時が集めていた異様な姿を模した蝦蟇(がま)の絵を、嵩石(すうせき)という人物に見せるために模写した作品です。蛙の表情やしぐさ、肌の質感までリアルに表現され、蛙への愛が感じられますね。

 

高原之鷲 西村五雲

西村五雲は京都市下京区に生まれ、岸竹堂、竹内栖鳳に師事した画家です。動物画の名手として活躍しました。

大きな屏風の右と左に描かれた鷲は、違う種類の鷲だそうです。向かって左の鷲は戸惑っているようにも悲しそうにも見え、右の鷲たちは左の鷲をうさん臭そうに眺めているようにも見え、表情の違いの背景にある物語を色々と想像したくなる作品です。

 

 

秋野孤鹿 木島櫻谷

先ほども登場した木島櫻谷は京都市中京区で生まれた画家。とりわけ動物画に妙技を示し、狸だけでなく鹿など身近にみられた動物も多く描きました。

この鹿の何とも言えない優しい眼差し!目が釘付けになりました。

 

1階の展示を見終えたので、二階へ向かいます。

二階の入口にも入場券の読み取り機があり、券のQRコードをかざして、中へ入ります。

二階は土足厳禁なのでゲートの中で靴を脱いで入ります。

 

二階の畳ギャラリーは120畳の大広間の周辺に、畳に座って絵画を鑑賞できるよう、敢えて作品の位置が低い展示ケースが設置されています。

 

韃靼人狩猟図 幸野楳嶺

入ってすぐのところに展示された屏風画の大作です。

韃靼人(だったんじん)とはモンゴル高原に住む遊牧民の呼称で、右隻には馬に乗って狩りをする勇ましい姿、左隻には紅葉した木のもとで休息をとる様子が描かれています。馬の力強い体つきや躍動感、鞍などの色鮮やかな飾りから、馬が人々に大切にされてきた様子も細やかに表現されています。

幸野楳嶺は京都の新町四条の生まれ。近代美術教育の先駆けでもある京都府画学校(現京都市芸術大学)の設立にも携わりました。

 

春園閑興図 木島櫻谷

春の穏やかな日差しのもと、戯れる3匹の雀と、その様子を見上げる洋犬。木島櫻谷が実際に飼っていたイングリッシュ・ポインターをモデルにした作品。雀たちの愛らしい様子をみつめる洋犬の優しい眼差しは、それらに向けた櫻谷の眼差しなのかもしれませんね。

 

紅梅猫児 川合玉堂

川合玉堂は人々の生活風景や、四季折々の豊かな自然に取材した作品を多く残しました。その中には、しばしば動物も描かれており、本作では老梅の下でくつろぐ三毛猫の様子をとらえています。猫の表情が凛として、とても美しく、直線的な梅の枝と柔らかい猫の毛の質感の対比が面白い作品です。色合いも柔らかく早春の雰囲気が感じられますね。

 

孔雀図 横山清暉

横山清暉は京都の生まれで、四条派の祖である呉春とその弟の松村景文に絵を学びました。寛政年間(1789~1801)孔雀を観察しながらお茶を楽しむ「孔雀茶屋」が流行し、京都では祇園清水寺の前でも見られたそうです。今でいう「孔雀カフェ」ですね。江戸の絵師たちが好んで孔雀を描いたのも「孔雀カフェ」などで見慣れていたからかもしれませんね。

 

春郊放牛図 竹内栖鳳

竹内栖鳳京都市中京区に生まれ、幸野楳嶺に師事。動物画の名手として知られます。本作に描かれた穏やかな牛の表情は哲学的ですらあり、そんな牛の表情を読み取った栖鳳の牛への深い理解と愛情に感服です。

 

畳ギャラリーの外の廊下には、窓に向かって椅子が並び、保津川渡月橋などの景色をゆっくりと眺めることが出来ます。

 

写真:嵯峨嵐山文華館公式サイトより

再び一階に戻ってきました。庭に面したテラス部分にはカフェ「嵐山OMOKAGEテラス」を併設。こちらのカフェは美術館を利用しなくても、カフェだけの利用が可能なので、紅葉シーズンなど嵐山が混雑する時期の穴場カフェとしても活用できそうですね。

 

嵯峨嵐山文華館は、カフェや二階の廊下から眺める庭園や保津川沿いの景色がすばらしく、今までは少し敷居が高かった日本画を気軽に楽しめる開放的な雰囲気が気に入りました。嵐山観光の目的地の一つに加えてみてはいかがでしょうか。

 

次回はすぐ近くの福田美術館をご紹介します。

 

昨年福田美術館を訪れた時のブログはこちら

www.yomurashamrock.me

 

嵯峨嵐山周辺の見どころはこちら

 

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三十三間堂 ~風車と風鈴が誘う京の涼

三十三間堂は正式名称を蓮華王院と言い、その本堂が「三十三間堂」と通称されています。ほの暗い本堂内にずらりと並んだ1001体の千手観音像が印象的で国宝も多く所蔵され、京都でも人気のスポットの一つなので、修学旅行などで訪れた方も多いと思います。この三十三間堂で「京の涼さがし 風の京」と題して、境内に風車と風鈴が設置されたので、訪ねてみました。

 

 

 

三十三間堂の場所

goo.gl

 

三十三間堂の行き方

電車で

 京阪電鉄七条駅」より徒歩約7分

 

バスで

 JR京都駅より市バス100、206、208系統で約10分「博物館三十三間堂前」下車すぐ

 

今回のスタートは京阪「七条駅」です。

改札を出て右へ向かいます。

 

右を向いたところです。前方にある階段へ向かいます。

 

階段を登ります。

 

階段を登り切ると七条大橋の東端に出ます。

 

先ほどの階段から外へ出たところです。目の前が七条通で、右手のマクドナルドの角を東(右手)へ曲がります。

 

東へ曲がったところです。右手の道が七条通です。このまま七条通を東へ向かいます。

 

七条通のゆるやかな坂を300mほど進むと左斜め前に京都国立博物館が見えてきます。七条通を挟んで博物館の向かい側に三十三間堂があります。

 

三十三間堂の入口です。中に入っていきます。

 

普門閣です。参拝受付と寺務所を兼ねています。こちらで参拝料を納めて入ります。

 

個人参拝口を通り抜けて、右手の参拝入口から本堂へ入ります。

 

本堂内は土足厳禁なので、こちらで履物を脱いで入ります。

 

履物を脱いで中へ入り、この廊下の突き当りを左に曲がると本堂です。

これより先は写真撮影不可です。

 

三十三間堂とは

国宝の本堂 三十三間堂の名前の由来は、南北に延びる堂内陣の柱間が33あるという建築的な特徴によるそうです。「三十三」という数は、観音菩薩が持つ33の姿に変じて衆生を救うと説かれていることからきています。

平安後期、約30年間、院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」と呼ぶ院御所内に、当時権勢を誇った平清盛の資材協力によって創建したものでした。ところが、そのお堂は建長元年(1249)の大火で焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建されたのが現存のものです。火災や戦災の多い京都の建物の中では大法恩寺千本釈迦堂)に次いで古く、京都で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみだそうです。

ここまで古いお堂が現在まで残っているのは、奇跡的に火災や戦災を免れたということもありますが、古の工人たちの様々な工夫によるところも多いそうです。三十三間堂の基礎地盤は、砂と粘土を層状に積んで構成されており、これは積層ゴムが建物の揺れを吸収する「免震」のメカニズムと共通しています。また、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ二重虹梁(にじゅうこうりょう)とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増加、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落とし込む「羽目板(はめいた)」とするなど、お堂は波に揺れて浮かぶ筏のように「揺れ動く」建築として免震工法が施されていたようです。

地上16m、奥行き22m、南北120mの長大なお堂は、和様、入母屋造本瓦葺きです。

この長い本堂は、通し矢でも有名で、本堂西側の南端(写真の右手前)から120mの距離を弓で射通し、その矢数を競う通し矢は、桃山時代にすでに行われていました。現在は1月15日に近い日曜日に、大的大会が行われ、特に新成人が晴れ着姿で矢を射る華々しい姿は、京都の新年の風物詩にもなっています。

 

千手観音坐像と千体千手観音立像

国宝 千手観音坐像で、「中尊(ちゅうそん)」と呼ばれています。

(写真:三十三間堂パンフレットより)

左右、計千体の等身観音立像に囲まれて、本堂中央の高いところに安置されています。高さ3.3m、背後の光背まで含めると約7mにも及ぶ大きな坐像は、ヒノキ材の寄木造で全体に漆箔が施されています。42手で「千手(せんじゅ)」を表し、鎌倉期の再建時に、大仏師湛慶(たんけい)は同族の弟子を率いて完成させたものです。慈悲深く温厚な表情を見つめていると、不安定な世に救いを求めて長い間人々の願いを受け止めてこられたことがよく分かります。

 

国宝 千手観音立像(写真:三十三間堂パンフレットより)

中尊の千手観音坐像を中心に左右に500体が前後10列の階段状の壇上に整然と並ぶ等身大の1000体と、中尊の後背に立つ1体を合わせて1001体の観音立像はまさに圧巻!さながら「仏像の森」で、三十三間堂を象徴しています。各像は、頭上に十一の顔をつけ、両脇に40手をもち、中尊同様の造像法で作られています。

1001体のうち、124体はお堂が創建された平安末期の尊像、その他が、鎌倉期に16年かけて再興された像です。その500体には作者名が残され、運慶、快慶で有名な慶派をはじめ、院派、円派と呼ばれる当時の造仏に携わる集団が国家的規模で参加したことが伺えます。また、これらの観音像には、必ず会いたい人に似た像があるとも伝えられています。実際、一つ一つのお顔を眺めていると、穏やかな表情の中にも、少しづつ違った顔つきをされ、個性があるな、と感じました。

 

 

国宝 風神像(写真:三十三間堂パンフレットより)

国宝 雷神像(写真:三十三間堂パンフレットより)
その他、千体観音像の前には、千手観音に従って仏教とその信者を護るとされる二十八部衆に風神・雷神を加えた30体の等身大の尊像が安置されています。これらも、鎌倉彫刻の傑作で、今にも動き出しそうな表情を見せ、あたかも語法神像の博物館のようです。

 

 

境内に涼を運ぶ風車と風鈴

JR東海の「そうだ京都行こう」の一環で「京の涼さがし 風の涼」と題して、市内のいくつかの寺社で風車や風鈴が設置されています。三十三間堂では東回廊に風車と風鈴が設置されました。(三十三間堂では9月30日まで)

 

風車も風鈴も、白と黄色をベースにした爽やかなデザイン。見るからに涼し気なのですが、この日は全くの無風…風車がクルクル回ったり、風鈴が涼やかな音色を響かせたりすることはほとんどありませんでした。それでも、朱塗りの回廊につるされた風車や風鈴に涼を感じることは出来ました。

さて、この回廊の隣に広がるのが、令和になってから再整備された庭園です。写真でも右手に庭園の緑が見えていますね。

 

池泉式回遊庭園

三十三間堂の庭園は、昭和36年(1961)の後白河上皇770回忌記念事業の際に、昭和の名作庭家 中根金作氏により造園されたものがベースになっています。当時は鎌倉時代に再建された本堂の様式に調和するように、庭園も特に石の石組みについては古式の手法で行われたそうです。そして中根金作氏の孫の行宏氏、直紀氏が2021年3月にこの庭園を再整備しました。両氏は祖父の仕事の良い部分を残しつつ、過去の資料を頼りに三十三間堂の往時の姿を出来る限り再現したそうです。

この写真は先ほどの東回廊から庭園ごしに本堂を臨んだものです。青々とした木々の色が歴史ある本堂の渋い色合いを引き立てています。

 

先ほどの写真の反対側、本堂側から庭園ごしに東回廊を臨んだ写真です。朱塗りの回廊と庭園の瑞々しい緑、池のリフレクションが暑さを忘れさせる美しさです。

庭園内には遊歩道が設けられ、ゆったり散策することが出来ます。

 

庭園は南と北に二つありますが、二つの庭園のちょうど真ん中あたりに手水舎があり、お地蔵さんも祀られています。この手水舎の前には「夜泣泉(立て札の字は酉偏に泉)」と書かれています。

この夜泣泉は、三十三間堂が建立された翌年の長寛2年(1165)6月7日に堂僧が夢告によって発見された霊泉だそうです。夜に水の湧き出す音が人のすすり泣きのように聞こえることから夜泣き泉と言われるようになりました。そしていつの頃からか傍らに地蔵菩薩が祀られました。この地蔵菩薩には幼児の「夜泣き封じ」にご利益があるとされ、地蔵菩薩の前掛けを持ち帰り、子どもの枕に敷くと夜泣きが治ると言われています。こちらにもたくさんの風車が飾られ、とても涼し気ですが、やっぱり無風のため、全く回っていませんでした…

 

こちらは手水舎を通り過ぎ、南側の庭園です。北側とはまた違った趣があります。

 

南側の庭園の更に南の端には鐘楼がありました。撞くことは出来ませんが、朱塗りの屋根や柱が美しいですね。

 

 

太閤塀

三十三間堂境内の南の端まで来ました。

こちらにある築地塀は「太閤塀」と通称され国の重要文化財に指定されています。方広寺大仏殿が創建される際に、三十三間堂を隔てるために、豊臣秀吉の寄進で築かれた塀です。

当時、交通の要衝だったこの地に目を向け、後白河上皇平清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺三十三間堂の北隣に造営し、お堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いたのです。塀は高さ5.3m、長さ92mに及ぶ桃山期の豪壮さを示す遺構です。

 

三十三間堂は本堂や千手観音像、千体千手観音像など、国宝や重要文化財が多いことは知っていましたが、再整備された池泉回遊庭園も見事で見ごたえがあることを、今回訪ねてみて再確認しました。京都駅からバスで約10分、歩いても15分ほどでアクセスもよく、目の前にバス停があるので、他のスポットへの移動もスムーズです。京都でも定番中の定番の一つではありますが、機会がありましたら、是非足をお運びください。

堂本印象美術館 ~美術館そのものがまるごと一つの作品

立命館大学衣笠キャンパスの向かいに、ひと際目を引く個性的な建物があります。京都府立堂本印象美術館は、日本画家 堂本印象が自分の作品を展示するため、堂本印象自らデザインした美術館です自分の作品を展示するため、堂本印象自らデザインした美術館。同美術館は、金閣寺龍安寺仁和寺といった京都市北西部の世界遺産をつなぐ「きぬかけの道」の途上にありますが、京都市民もあまり訪れたことはないかと思います。前回ご紹介した等持院から徒歩15分ほどなので、是非一緒に訪れていただきたいと思いご紹介します。

 

 

 

堂本印象美術館の場所

goo.gl

 

堂本印象美術館の行き方

●JR,近鉄京都駅から

 市バス50にて45分、市バス:JRバス快速立命館にて36分、「立命館大学前」下車

 市バス205にて40分、「わら天神前」下車 徒歩10分

 JRバス高雄・京北線にて30分、「立命館大学前」下車

 

●JR円町駅から

 市バス・JRバス快速立命館にて8分、「立命館大学前」下車すぐ

 市バス15にて10分、臨にて9分、「立命館大学前」下車

 市バス204、205にて5分「わら天神前」下車、徒歩10分

 JRバス 高雄・京北線にて15分、「立命館大学前」下車

 

阪急電車西院駅から

 市バス・JRバス快速立命館にて20分、臨にて17分「立命館大学前」下車

 市バス205に15分、「わら天神前」下車 徒歩10分

 

京阪電車三条駅から

 市バス12にて53分、市バス15にて34分、市バス51にて36分、「立命館大学前」下車

 市バス59にて40分、「立命館大学前」下車

 

 

今回のスタートは等持院です。

等持院への行き方は以下のブログをご参照ください。

www.yomurashamrock.me

 

 

等持院の山門です。前回のブログでご紹介した等持院の方丈や庭園を拝観した後、また山門に戻って来ました。

 

山門を出て斜め右手に小さな鉄の通用門があります。

 

こちらの門から出ます。

 

門を出たところです。目の前の道を北(右)へ向かいます。

 

北へ向いたところです。この道を北へ80mほど進みます。

 

立命館衣笠キャンパスに突き当たったら、西(左)へ曲がります。

 

左に曲がったところです。右手に見える大きな建物が立命館です。

この道を西へ120mほど進みます。

 

道が二手に分かれているので、北(右手)へ曲がります。

 

右手へ曲がったところです。道なりに左へ曲がります。

 

左手へ曲がったところです。この道を60mほど西へ進みます。

 

道が二手に分かれているので北(右手)へ曲がります。

 

右手へ曲がったところです。正面に見えているのが衣笠山です。この道を120mほど進みます。

 

右手に鮮やかなグリーンの看板があります。「CAFE山猫軒」です。

 

CAFE山猫軒

CAFE山猫軒は、立命館衣笠キャンパスに隣接したおしゃれなカフェです。

午前中に等持院を拝観し、結構歩き回ったのでお腹ペコペコです。今日はこちらでランチにします。

 

とっても美味しそうなメニューがたくさんありそうです。

 

 

お店は階段を降りて半地下に入口があります。

 

地下に下りてきたのに、店内は大きな窓があって明るいです。こちらのお店、坂の途中にあり、坂を上り切った所から店内に入ると、入口と反対側は坂の下の方で中庭のようになっているところに面しています。

 

入口付近の席は大きな窓から光が差し込み明るい雰囲気。一方、奥の方はアンティーク調の家具が置かれた落ち着いた雰囲気です。今回はこちらの席にしました。

 

タイ風カレーのセットをいただきました。辛さ控えめながら色々なスパイスの風味が効いて美味しかったです。

 

カレーでお腹いっぱい…と思いつつ、豊富なスイーツメニューにも心惹かれ、はちみつレモンのチーズケーキもオーダーしてしまいました。渋み、酸味が穏やかでコクのあるコーヒーによく合う、さっぱりとした味わいのチーズケーキでした。

ところで、上の写真のケーキの左に写っている茶色のリーフレットはCAFE山猫軒の店名の由来について解説されていました。それによると…

「山猫軒」は、日本の詩人・童話作家である「宮沢賢治」の童話『注文の多い料理店』から拝借されたそうです。

「深い山奥に佇む「注文の多い西洋料理店・山猫軒」へやってきた、お腹を空かせた二人の若い紳士が大喜びで扉を開けます。扉には「どうか外套と靴をおとりください。」「金属類、ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」などの注意書きを不思議に思いながらも扉の奥へ奥へと歩み進みます。しかし、扉と注意書きの多さに二人が疑い始めた頃、「色々と注文が多くて、うるさかったでせう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさんよくもみこんでください」注意書きを見た二人はギョッとしました。ここは「西洋料理を、来た人に食べさせる」のではなく、「来た人を西洋料理にして食べる家」だったのです。

紳士たちはどうなってしまったのか…CAFE山猫軒の本棚には「注文の多い料理店」をはじめ、宮沢賢治の本などが置いてありますので、読んでみられるのも良いですね!

 

さてお腹もいっぱいになったので、再びきぬかけの道へ出て、東(右手)へ進みます。

きぬかけの道は、金閣寺龍安寺仁和寺といった京都市北西部の世界遺産をつなぐ道です。CAFE山猫軒はこのきぬかけの道沿いにあり、龍安寺からもほど近い場所にあります。

きぬかけの道をさらに東へ進みます。右手に見えているのは立命館の建物です。

 

きぬかけの道を6分ほど歩くと、白い壁に白、黒、黄色のレリーフが浮かび上がる個性的な外観の建物が見えてきました。京都府立堂本印象美術館に到着です。

 

堂本印象美術館とは

堂本印象美術館は、大正から昭和にかけて京都で活躍した日本画家・堂本印象が、昭和41年(1966)に印象自身によって「堂本美術館」として設立しました。平成3年(1991)に建物と作品が京都府へ寄贈され、翌年京都府立堂本印象美術館として開館し、現在に至ります。同美術館は外観から内装まですべてが印象自らのデザインによります。美術館を建てるにあたり、印象は昭和27年(1952)にヨーロッパで見学した宮殿や邸宅を参考に独自の美の可能性を追求したそうです。

 

建物から内装まで全てが一つの作品

美術館前のロータリー付近に設けられた装飾です。薄いブルーの枠に金色の幾何学模様が並んだ衝立のようなものが、おしゃれですね。その上ある、二階へ上がる階段から続く青い手すりも、白い壁を引き立てています。

白い壁にモノトーンの石が埋め込められ、抽象画のような模様が楽しいですね。

 

白い壁に浮かぶ黄色と白のレリーフが面白いです。ちょっとキース・へリングの絵のような感じもしてユーモラスでもあります。

 

建物に入るまでにいくつも見どころがあって、なかなか中へはいれません(笑)

 

ようやく美術館の入口です。

 

扉の取っ手にも印象デザインの抽象画が嵌め込まれています。この抽象画デザインの取っ手は、館内のドアにもついていて、非公開を含め28点もあるそうです。なんて贅沢!

 

写真:堂本印象美術館公式サイトより

玄関を入って正面にある、館のシンボル的存在のステンドグラスです。教会などにある宗教画とは全然雰囲気が違いますが、色鮮やかな抽象画風のデザインが神々しい美しさです。

 

写真;堂本印象美術館公式サイトより

展示室の入口にかけられたプレートです。アラジンの魔法のランプみたいで可愛らしいですよね!

 

写真:堂本印象美術館公式サイトより

扉の装飾も豪華です。

 

写真:堂本印象美術館公式サイトより

館内にさりげなく置かれている椅子も印象のデザインだそうです。一つ一つ違うデザインで、見逃し厳禁!左下の絵は印象自身による椅子のためのデザイン下絵です。

 

建物の内装もあちこちに印象のセンスが光る様々な意匠が施されていて、まるで宝探しのような楽しさ!しかし館内は撮影禁止。最近は内装だけでなく、展示された作品なども撮影OKな美術館もある中、これはとても残念でした。印象のすばらしい世界観をSNSなどで紹介したら、もっと美術館の知名度もあがり、人気も出るのではないかと思います。

 

「旅する印象」展

今回はこの特別展を鑑賞しました。

印象の表現は、日本や東洋の古典芸術をもとに西洋画の手法を取り入れた具象絵画から、戦後には抽象絵画へと幅広い展開を遂げました。こうした様式の変化の裏には、昭和27年(1952)61歳で初めて経験した渡欧が大きな契機であったようです。

本展では、渡欧に関連した作品とともに、大正時代に訪ねた中国に関連する作品も展示されています。熟練した境地の洒脱なヨーロッパ風景と、若手画家時代の大正ロマン漂う中国風景を楽しむことができます。

展覧会全体を見終え、具象から抽象まで、日本画から中国の水墨画風や西洋画など、同じ一人の画家とは思えない表現の幅広さに圧倒されました。特に気に入ったのは、渡欧時に描いたヨーロッパ各地の風景画です。洒脱な筆遣いと淡いさわやかな色彩が、乾いたヨーロッパの空気感と洗練した街並みを存分に伝え、印象がその風景を心ゆくまで楽しみ、思わず筆を取らずにはいられなかった心情が読みとれるようでした。

 

 

 

再び美術館の外に出ると、ユニークなデザインの椅子があちこちに。これら野外の展示は入館料を払わなくても鑑賞可能だそうです。

 

 

木華開耶媛(1929年):堂本印象美術館公式サイトより

 

交響(1961年):堂本印象美術館公式サイトより

 

初期と晩年で作風が変わる画家は多いですが、印象は作風の変わる前と変わった後、両方の作品がどちらも有名です。京都の寺社の襖絵なども、水墨画、モダンアート風、抽象画と多種多彩で、同じ人が描いたとは思えないほどの振れ幅があります。そのため、どの作品を見たかで、堂本印象のイメージが全く変わってくることでしょう。同美術館では、振れ幅の大きい印象の作品が一堂に会し、違和感なく並んでいて、とても興味深いです。

さらに、日本画の域を超え、彫刻、ガラス、金工、染色なども手掛けた堂本印象の美意識が、この美術館の隅々にまで行き渡り表現されています。まさに、芸術家・堂本印象の集大成として作られたのが、この美術館だったのがよくわかりました。

同美術館は、位置的には少し行きにくい場所にありますが、金閣寺龍安寺等持院などからもほど近く、向かいの立命館大学行きのバスは、京都市内の主要な駅からはたくさん出ています。芸術の秋、様々な顔を見せる堂本印象の世界を堪能してみませんか?

 

等持院 ~歴代足利将軍が眠る古刹

京福電気鉄道は、京都市中心部と嵐山を結ぶことから「嵐電(らんでん)」と呼ばれています。嵐電には京都市中心部から嵐山方面へ向かう「嵐山本線」と、帷子ノ辻駅から北野天満宮の最寄り駅「北野白梅町」へ向かう「北野線」があり、北野白梅町の一つ手前の駅の近くにあるのが、今回ご紹介する等持院です。

いわゆる観光地化された寺院ではありませんが、歴代足利将軍の菩提寺であり、三つの庭園もそれぞれに見事で、見どころがたくさんあります。八月の下旬、芙蓉の花や百日紅が見ごろと思い、訪ねてみました。

 

 

 

等持院の場所

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等持院の行き方

バスで

 京都市バス10、26系統「等持院南町」下車 徒歩約8分

 京都市バス12,15,50,51,55,59系統、JRバス「立命館大学前」下車 徒歩約10分

 

電車で

 京福電鉄北野線等持院立命館大学衣笠キャンバス前駅」下車 徒歩約5分

 

 

 

今回のスタートは、京福電鉄等持院立命館大学衣笠キャンパス前駅」です。

私にとって、この駅は「北野白梅町の一つ手前の駅」というだけの、地味な存在でしたが、数年前にこの小さな駅がちょっとだけニュースに登場しました。元は近くの等持院にちなんで、駅名も「等持院駅」だったのですが、立命館大学衣笠キャンパスへの最寄り駅であることから、2020年3月20日に現在の「等持院立命館大学衣笠キャンバス前」駅という、とても長い駅名(26文字)に改称され、当時日本で一番長い駅名となりました。

しかしこの9か月後の2021年1月1日に、同駅が日本一になるまで一位であった、富山地方鉄道富山軌道線呉羽線の「富山トヨペット本社前(五福末広町)」停留場(24文字)が、「トヨタモビリティ富山Gスクエア五福前(五福末広町)」停留場(32文字)に改称されたため、同停留場が再び日本一長い駅名となったそうです。せっかく日本一になったのに、残念でしたね。

 

嵐電を降り、駅の東側へ向かいます。早速「立命館大学」への赤い案内板と、小さいですが「等持院」へのグレーの案内板がありました。

こちらのゲートを出て北(左手)へ向かいます。

 

ゲートを出て北を向いたところです。目の前の道を70mほど北へ向かいます。

 

道が二股に分かれていますので、右の道を進みます。

 

右の道を100mほど北へ進みます。

 

100mほど進むと突き当りの道に等持院への案内板が出ています。

案内板に従って東(右手)へ進みます。

 

東を向いたところです。この道を30mほど進みます。

 

30mほど進むと、北(左手)に等持院の総門が見えます。

 

等持院とは

万年山等持院臨済宗天龍寺派の寺院です。もともとは仁和寺の一院でしたが、南北朝時代の暦応4年(1341)、足利尊氏天龍寺の夢窓国師を開山とし、衣笠山の南麓に創建しました。後に尊氏、義詮将軍当時の幕府の地にあった等持寺もこちらに移されて、足利将軍家歴代の菩提所となりました。

応仁の乱などの戦乱や火災に見舞われましたが、豊臣秀吉も、秀頼に建て直させたほど、この寺を重んじられ、現在の建物は江戸時代・文政年間(1818~1830)の建立です。足利歴代の将軍像などが並ぶ霊光殿、夢想国師作として伝えられる庭園、足利尊氏の墓と伝えられる宝篋印塔などもあります。

 

それでは、さっそく総門から等持院に入って行きましょう。

 

総門を入り70mほど北へ進むと、このような門がありますので中へ入ります。

 

マキノ省三先生像

門を入ると、ほどなくこの銅像があります。「マキノ省三先生像」と書かれています。

牧野省三は日本最初の職業的映画監督であり、日本映画の基礎を築いた人物で、昭和32年(1957)「マキノ省三先生顕彰会」によりこの銅像が建立されました。

日活から独立した牧野省三は、この等持院に「等持院撮影所」を設立、それまでの剣劇中心の勧善懲悪ものからストーリーを中心とした人間味のある描写を取り入れたり、新しい撮影技術や編集技術を研究するなど、日本映画の発展に大きく貢献し、「日本映画の父」とも呼ばれています。

ここ等持院には、牧野家のお墓があり、省三を始め、息子など映画一家だった家族の遺骨が納められているそうです。

同じ嵐電沿線では嵐山本線北野線が分岐する帷子ノ辻駅から太秦広隆寺あたりに伸びる「大映通り商店街」は「太秦キネマストリート」をコンセプトに映画をテーマに地域振興に取り組んでいます。かつて太秦の地は、東映、日活、大映、松竹など多くの撮影所で映画が制作され、「日本のハリウッド」とも呼ばれたことは京都でも有名ですが、この等持院にも撮影所があったことは知りませんでした。

 

さらに奥へ進むと、鐘楼があります。

 

そして鐘楼の手前には山門があり、山門脇には百日紅が美しく咲いていました。小さくてわかりにくいですが、右端の木です。

 

さっそく山門から中へ入っていきます。

 

山門をくぐると出迎えてくれるのが庫裏です。

 

庫裏を入ると下駄箱があり、履物を脱いで室内に上がり、こちらで拝観受付をします。

 

受付右手の突き当り、庫裏と方丈(本堂)の境目あたりにあるのが、大きな達磨図(祖師像)です。インパクトのある大きさと言い、ユーモラスな表情といい、天龍寺の庫裏の入口にも同じようなのがあったなあ、と思ったら…等持院天龍寺派の寺院であり、この達磨図は天龍寺派の元管長(管長とは1宗教団体における最高位の宗教指導者の役職のこと)関牧翁老師によるものでした。関牧翁老師は天龍寺で修行している時に、等持院の住職も兼任していたのです。ちなみに天龍寺の庫裏に掲げられた大きな達磨図は、関牧翁老師の弟子であり、関老師から天龍寺管長を継いだ平田晴耕老師によるものです。雰囲気が似ていると思ったら、作者が師弟関係にあったのですね!

 

現在の方丈(本堂)は、元和2年(1616)福島正則妙心寺塔頭海福院に建立し、文政元年(1818)に等持院に移築されたもので、南庭をひかえた広縁を静かに歩むと、鴬張りの音がキュキュっと心地よく響きます。

寺院の「方丈前庭」は、本来儀式を行う白砂敷の広場でしたが、室町時代になって儀式の場を室外から室内に移動し、白砂敷の広場には石組や植栽が設けられるようになったそうです。等持院の方丈の前庭(南庭)も、白砂敷のシンプルな広場に、控えめな石組や植栽が見られますね。

 

霊光殿

方丈の前の庭を通り過ぎ、方丈の奥にあるのが霊光殿です。こちらには、足利尊氏が日頃念持仏として信仰していた利運地蔵尊(伝弘法大師作)を本尊とし、達磨大師と夢窓国師とを左右に、足利歴代の将軍像(5代義量と14代義栄の像を除く)が、徳川家康の像と共にずらりと並びます。その眺めはまさに圧巻ですが、霊光殿内は撮影不可なので、こちらでご紹介できないのが残念です。歴代足利将軍と家康公の像は木像でほぼ等身大。将軍の人となりが想像できる、それぞれの顔立ちがはっきりわかるほどリアルな像なので、独りで見るとちょっと怖いほどでしたが、一つ一つ見比べながら眺めるのもまた興味深いものでした。

 

芙蓉池と心字池

方丈の北側に回ると広がるのが、池泉回遊庭園です。庭園は茶室「清漣亭」と芙蓉池を擁する西庭と、心字池を擁する東庭に分けられ、どちらも京都府の名勝に指定されています。

写真の左奥に見えているのは書院で、その手前に広がるのが芙蓉池を擁する西庭です。

 

 

書院の座敷にはお抹茶席が設けられ、庭園を眺めながらお抹茶をいただくことが出来ます。

 

 

この書院からスリッパに履き替えて、庭園を散策出来ます。

 

書院を出て写真左手の石畳の小道を北へ進むと、写真左奥に見えている茶室に出ます。この茶室は、尊氏公百年忌の長禄元年(1457)に庭園の中に新築された「清漣亭」で、八代将軍義政好みと伝えられています。

 

清漣亭を通り過ぎ、庭園の一番北側の小高い丘から方丈を眺めました。庭園は花木や草木を配し、石組みも変化に富んでいます。初夏はサツキ、七月頃はクチナシの花、そして夏は芙蓉の花などが彩りを添えます。

 

私が訪れた八月下旬は、すでに芙蓉の花の季節は終わりかけで、書院の前に少しだけ白い芙蓉の花が咲いていました。

 

一方、夢想国師作と伝えられる東庭は心字池を取り囲んでいます。池の形が草書体の心の字の形をしていることから心字池と呼ばれています。

芙蓉池のような刈り込みは少なく、平面的な感じがしますが、池泉を中心とした回遊式庭園らしく、一足ごとに景色が変わり、池に映る木々の色も鮮やかで、西庭とはまた違った落ち着いた趣があります。楓の木が少し紅葉して、緑のグラデーションの庭によく映えていました。秋にはさぞかし紅葉が美しいことでしょう。心字池の周りには半夏生もたくさん植わっていて、初夏にも訪れてみたいと思いました。

 

尊氏ノ墓所

方丈北の中央、ちょうど二つの池の真ん中あたりに、足利尊氏の墓とされる宝篋印塔があります。室町幕府を開いた大将軍にしては、意外とこぢんまりとしたお墓です。

 

 

ぐるっと回って、また芙蓉池に戻ってきました。写真中央より少し左奥に小さく写っているのは立命館大学です。昔は衣笠山を借景としていた庭園でしたが、現在は大学の近代的な建物があるため、それの目隠しのために背後の樹木も高く整えられているのだそうです。

 

 

等持院足利将軍家にゆかりが深い古刹で、三つの庭園もそれぞれに見ごたえのある素晴らしいのですが、近隣の北野天満宮金閣寺仁和寺龍安寺などと比べると、知名度は低く、京都人でも訪れる人が多くはない穴場スポットです。四季折々に美しい花木に彩られ、秋の紅葉はことのほか美しいのに、観光客はそんなに多くなく、ゆっくりと紅葉を鑑賞できるようですので、機会があれば是非足をお運びください。

 

周辺の関連スポット

京福電鉄の次の駅は北野天満宮の最寄り駅です。↓

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桜の名所平野神社

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同じ天龍寺派の総本山 天龍寺

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法輪寺(達磨寺) ~七転八起の心を広めただるまの寺

JR嵯峨野線円町駅の近くにある法輪寺は通称「達磨寺」とも呼ばれ、全国から奉納された約8,000体もの大小様々なだるまがずらりと並ぶ、とても縁起の良いお寺です。

住宅街にある小さなお寺ながら、美しく整えられた枯山水庭園もあります。境内の芙蓉の花や百日紅が見ごろと思い、お盆休みに訪ねてみました。

 

 

法輪寺達磨寺)の場所

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法輪寺達磨寺の行き方

電車で

 JR山陰本線嵯峨野線)「円町駅」下車 徒歩約7分

 

バスで

 京都市バス 各線より「西ノ京円町」下車 徒歩約5分

 

 

今回のスタートはJR山陰本線嵯峨野線)円町(えんまち)駅です。

京都の住所は、その場所が面している東西と南北の大きな通りの組み合わせに、上ル(北へ)、下ル(南へ)、入(いる:東や西へ)で表すことが出来ます。例えば京都一の繁華街、四条河原町四条通(東西)と河原町通(南北)の交差する辺りを指します。しかし、実際にはこうした通り名の組み合わせとは違う表記の住所の方が多く、電車の駅名などもそうです。

今回のスタート地点、JR嵯峨野線円町駅も、通り名で言うと丸太町通西大路通の交差する辺りなので、前述の法則で言うと「丸太町西大路(または西大路丸太町)」ということになるのですが、そうは言わないのがやっかいなところ。近隣の住民は円町駅がどの通りに面しているかよくわかっていますが、京都市内でも行きなれていない場所だと地名だけだとどの辺りか分からない場合も。
そんなことを考えながらJRを降り、改札を出て北(左)へ向かいます。

 

円町駅丸太町通に面して、通りの南側にあります。

 

先ほどの出口を背にして北を向くと目の前が丸太町通りです。前方に見えているバス停を目指し、丸太町通を東(右)へ進みます。

 

丸太町通を東へ進みます。

 

この辺りが円町の交差点です。丸太町通りを北へ渡ります。

 

次に西大路通を東へ渡ります。

 

丸太町通を100mほど東へ進みます。

 

昔ながらの定食屋さん「つたや」の角を北(左)へ曲がります。

 

住宅街の中の道を150mほど進みます。

 

突き当りまで来たら、東(右)へ曲がります。

 

目の前に緑色の小さな橋があるので渡ります。この橋の下は北野天満宮の近くも流れている紙屋川です。

 

橋を渡ったら、紙屋川沿いを北(左)へ40mほど進みます。

 

川沿いの道が終わり、下立売通に出るので、突き当りを東(右)へ曲がります。

 

下立売通を70mほど東へ進みます。

 

法輪寺(達磨寺)に到着です。

 

法輪寺(達磨寺)とは

法輪寺(達磨寺)は、臨済宗妙心寺派の寺院で、享保13年(1718)、大愚宋築(たいぐそうちく)禅師を開山とし、荒木光品居士が開基となり、万海慈源和尚が創建しました。開基の荒木氏は両替商で、武家の開基による寺院が多い妙心寺派にあっては異色の禅寺です。

同寺が「達磨寺」として親しまれているのは、第10代伊山和尚が昭和20年(1945)日本の戦後復興を祈念して「起き上がり達磨堂」を建立したのが始まりです。伊山和尚の偉業の一つに「白隠和尚全集」を刊行し、禅宗を当時の大衆に広めたことが挙げられます。白隠は、臨済宗の中興の祖と呼ばれる江戸時代の高僧で、達磨大師によってインドから中国へ伝えられた禅宗を、禅画や墨蹟によって庶民に分かりやすく広めたことで有名です。

法輪寺(達磨寺)のパンフレットも、白隠和尚の描いた達磨大師が表紙に登場。禅宗の始祖である達磨大師の七転び八起きの精神にあやかり、起き上がり、忍苦、不屈のシンボルとして多くのだるまが境内に奉納されています。

なお、嵐山の近くにも「法輪寺」というお寺があり、こちらは十三まいりや「嵯峨の虚空蔵さん」として有名ですが、また別のお寺です。

 

達磨大師とは

達磨大師とは、インドから中国へ禅を伝え、禅宗の始祖となった人です。西暦527年にインドから海路三年もかかって中国へ渡ります。洛陽郊外の嵩山 少林寺で忍苦の修行「面壁」(壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅)を9年間行い、手も足も無くなり、尻も腐ったと言われています。その修行の末、中国禅宗の開祖となりました。

起き上がり達磨とは、江戸時代に考案され、達磨大師の面壁の坐禅姿を模した日本の縁起物です。「七転八起」とは、倒れても自力で起き上がる力であり、一貫した忍苦の人間のシンボルとして「起き上がり達磨」に発展したのでしょう。

 

 

では、法輪寺と達磨の関係がわかったところで、境内に入って行きましょう。

 

山門を入ると、すぐ右手に受付があります。起き上がり達磨堂は無料で拝観出来ますが、衆聖堂と方丈は拝観料が必要ですので、こちらで納めます。

受付の方に「拝観は初めてですか?」と聞かれ「はい」と答えると、受付から出てこられ、簡単に境内の案内をしてくださいました。

今回訪ねた時期がお盆だったので、檀家の方が次々と訪れ、お墓参りをされていましたが、衆聖堂や方丈を訪ねる人は、私が訪ねた間には一人もいませんでした。街中のお寺ですが、普段はとても静かな境内のようです。

 

起き上がり達磨堂

さて、山門を入って左手にある「起き上がり達磨堂」は三国最初随一とされ、昭和20年に第10代伊山和尚が戦後復興を祈念して信徒や市民に呼びかけ、建立されました。約8,000体ものだるまさんが所せましと祀られています。

 

お堂の入口の上の額にも「七転八起」の文字が掲げられています。

 

達磨堂に入ると、お腹に「おさいせん」と書かれただるまが。写真では「おさい」までしか写っていませんが…

 

無数のだるまさんが並んだ一番奥には達磨大師の像が。そしてご真言「おんだーまそわか」が掲げられています。ちょうどお墓参りに訪れていたおじいちゃんが、同行していたお孫さんたちに「おんだーまそわか、と唱えるんやで」と教えておられ、みんなで手を合わせてお参りされていました。

 

とにかくどちらを向いてもだるま、だるま、だるま…これらを眺めているだけでも、何か良いことがありそうです。

 

 

 

衆聖堂

起き上がり達磨堂の向かい側に建つ、美しい朱塗りの建物が衆聖堂です。

 

建物左手の下駄箱で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて中へ入ります。

 

衆聖堂の一階にも、木造の達磨像や十六羅漢像などが所せましと並んでいます。

下調べ不足で写真が撮れていないのですが、天井にも達磨像が描かれていたそうです。

 

一旦廊下へ出て、左へ回ると

階段がありますので、二階へ上がります。

二階の正面には等身大の金箔等身涅槃木造が祀られています。

向かって左側にずらりと並ぶのは、第二次世界大戦戦没者の位牌。

そして写真には写っていませんが、右側に並ぶのは、「キネマ殿」と称した日本映画関係者の位牌の数々です。小津安二郎原節子森繁久彌、森光子、高倉健といった往年の大スターなど日本映画関係者の位牌が並んでいます。

日活太秦撮影所長だった池永浩久氏が、1940年に大日本映画大道会を設立して自宅に映画人の祭壇を祀っていましたが、大戦末期の1944年、当寺の伊山和尚に慰霊を託し、祭壇を奉納したことが、このキネマ殿の始まりだそうです。

 

 

無尽庭

階段を降りて、廊下でつながる方丈へと向かいます。

 

方丈は享保13年(1718)建立で、昭和58年(1983)に3年かけて解体修理して復元したもの。

方丈の南側には「無尽庭」という枯山水庭園があります。

昭和53年(1983)に作庭されました。悟りに至るまでの段階を10枚の図と詩で表した「十牛図」を題材としています。

 

ちょうど百日紅が見ごろでした。緑のグラデーションが美しい苔の庭に、紅色の百日紅が華やぎを添えています。右端の萩はまだ咲いていませんでしたが、百日紅は花の期間が長いので、一緒に咲いたらさぞかし美しいことでしょう。

 

十牛図にちなみ、方丈の広縁の端に牛の像がありました。

 

 

様々なだるまさん

だるまさんと言うと、手足の無いずんぐりとした「起き上がりだるま」のイメージが強いですが、これは面壁の修行の時の姿をモチーフにしたもの。等身大に近い木像や石像のだるまさんはもう少しスラリとしたものもありました。どれもぎょろりとした大きな瞳とへの字に結んだ口元が印象的で、手足が無くなるほど長い間禅の修行に励んだ達磨大師の、まさに七転八起、不撓不屈の精神を表しているようでした。

 

日本ではだるまというと当選や受験合格の願いをこめて、左目の部分に目を入れ、その願いが叶うと残りの右目にも目を入れるという風習がありますね。倒れても自力で起き上がる、転んだ力の大きさで起き上がり、苦労にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間のシンボルがだるまなのですね。

心願成就、厄除け開運、開運招福、商売繁盛、受験合格など、どんな願いも叶えてくださる法輪寺は、小さいながらもとてもご利益の多いお寺です。

紙屋川を北へ上がること徒歩15分ほどで北野天満宮などもありますので、機会があれば是非お参りください。

 

 

京都芸術センター ~山鉾町で育まれた現代アートスポット

京都でも一、二の賑わいを見せる四条烏丸から徒歩5分、祇園祭の時には山鉾が立ち並ぶ山鉾町にある京都芸術センターは、元明倫小学校の跡地にほぼそのままの姿を残して活用され、京都市における総合的な芸術振興を目的として開設されました。

レトロでノスタルジックな建物と最先端のアートが不思議とマッチした空間をご紹介します。

 

 

京都芸術センターの場所

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京都芸術センターの行き方

電車で

 ・JR「京都駅」から、地下鉄烏丸線に乗り換え「四条駅」下車

   22、24番出口より徒歩5分。

 ・阪急京都線烏丸駅」下車 22、24番出口より徒歩5分。

 ・京阪本線三条駅」から地下鉄東西線に乗り換え「烏丸御池駅」下車

   4番出口より徒歩10分。

 

市バス(3,5,201、203、207系統など)

 ・「四条烏丸駅」下車、徒歩5分。

 

 

今回のスタートは阪急京都線烏丸駅」です。

西改札口から出て、北(右手)へ向かいます。

 

22番出口へ向かいます。

 

この地下通路を進みます。

 

突き当りを左へ進みます。

 

地下通路を進んだ突き当りに「LAQUE  SHIJO KARASUMA」の地下入口が見えます。この入口の左手へ進みます。

 

頭上の22番出口の案内板に従って左手の階段を上がります。

 

階段を上がると、烏丸通に出ます。四条烏丸の交差点を少し北に上がったあたりです。烏丸通沿いに北(左手)へ進みます。

 

烏丸通沿いを北へ向かいます。

 

一つ目の交差点(烏丸錦小路)に「京都芸術センター」の案内板があるので、この交差点を西(左)へ曲がります。

 

烏丸錦小路を西へ曲がったところです。錦小路通を西へ進みます。

錦小路通を130mほど進むと室町通に出るので、室町通を北(右)へ曲がります。

 

室町通を北へ曲がると20mほどで京都芸術センターに到着です。

 

京都芸術センターとは

京都芸術センターは、京都市、芸術家その他芸術活動に関する活動を行う人たちが連携し、京都市における芸術の総合的な振興を目指して2000年4月に、元明倫小学校の跡地に開設されました。多様な芸術に関する活動を支援し、芸術に関する情報を広く発信するとともに、芸術を通じた市民と芸術家等の交流を図ることを目的に様々な活動を行っています。

 

早速中へ入って行きましょう。

 

西館

入ってすぐ左手の建物です。淡いクリーム色のモダンな外観です。

 

入口の左右に嵌め込まれたステンドグラスの窓が綺麗ですね!

 

こちらの建物は西館 事務・管理棟で、京都市内の芸術活動に関するリーフレットなどがあるだけで、これ以上は入れませんでしたが、「明倫」と書かれた額が飾ってあるなど、元小学校のレトロな雰囲気が感じられました。

 

先ほどの建物から出て、もう少し奥へ進むと、ちょっとした庭園になっています。小学校らしく二宮金次郎の石像もありました。

 

南館

突き当りの南館の建物が京都芸術センターの展示などのコーナーの入口です。

 

入口右手に「明倫校百周年記念事業会」による「校名由来記」の銅板が掲示されていました。明倫小学校の名は、石門心学(江戸時代中期の思想家・石田梅岩を開祖とする倫理学の一派で、平民のための平易で実践的な道徳教育)の心学道場「明倫舎」を校舎にあてたことに由来します。

元明倫小学校は明治2年(1869)に開校した非常に歴史ある小学校。小学校の周辺は祇園祭の山鉾町で、古くから呉服問屋で栄え、釜師(茶釜を鋳る職人)や画家が多く暮らし、文化芸術への理解や、子どもたちへの教育にも熱心な町の人々によって大切に育まれた小学校でした。

昭和6年(1931)には大改築を経て現在の校舎となりました。当時では最先端の鉄骨建築です。京都市営繕課によるデザインで、赤みを帯びたクリーム色の外観と、スペイン風屋根瓦のオレンジ色、雨樋の緑青色が、温かみのある雰囲気を醸し出しています。

 

入口から入ると、玄関ホールのようになっていて、館内で行われている企画のプログラムマップが掲示されていました。

 

京都芸術センターは若手アーティストのグループ展の他、中堅アーティストの個展、海外アーティストを紹介する企画展など、一部を除き年間を通して無料で観覧出来ます。

私が訪ねた時は「伊東宣明 時は戻らない」という企画展が行われていました。

 

校舎の雰囲気を残した廊下から奥へ入って行きます。

 

入ってすぐ右手にあったのはレトロな教室の雰囲気を残したカフェでした。

 

こちらのカフェもすごく気になりますが、また後でお邪魔します。

 

廊下に古いオルガンがありました。木目調のボディに透かし彫りが入って、何とも味わい深い外観です。

 

カフェの奥には「情報コーナー&談話室」がありました。市内各地のアート情報のリーフレットなどが図書室の本棚のようなところに整然と並べてありました。

 

その奥は図書室。全国の展覧会のカタログ、伝統文化・芸能、ダンス、演劇についての書籍など幅広く所蔵し、この図書室で一部を公開し、閲覧が可能です。

 

廊下の突き当りにギャラリーがあり、「伊東宣明 時は戻らない」の展示の一部が公開されていました。広いホールのような部屋に大小二つのスクリーンがあり、それぞれに映像が流れていました。

 

レトロな階段を上がって二階へ向かいます。

 

階段を上がると北館への通路に出ます。

 

南館から北館へ

通路からグランドが見渡せます。

壁の上部にあった丸い時計も懐かしい感じですね。

 

北館への渡り廊下のアーチ型の入口もとても雰囲気があります。

 

渡り廊下の両側の窓の形も半円型でクラシックです。

 

北館

北館二階です。廊下も昔の小学校らしい風情ですね。

 

窓は上半分と下半分が分かれていて、紐で引っ張って上下出来るようでした。

 

北館二階は昔の教室をそのまま活用して、若手アーティストの制作室として貸し出されていました。廊下から制作風景を覗くことは出来ますが、撮影不可でした。

 

このスロープの壁のシックな色合いやスロープの傾斜に合わせて斜めに並んだ窓が、何とも言えないレトロな雰囲気で素敵でした。昭和初期に建てられたのに、荷運びや避難経路として活用できるスロープが設置されていたなんて、当時としては最先端だったのではないでしょうか。

 

スロープを降りると、倉庫(写真には写っていません)と手洗い場?低く設置された蛇口が小学校らしいですね。

 

一階に下りて来ました。右手に見えているのは南館です。

 

こちらは北館です。

北館一階の一番奥にギャラリースペースがあり、先ほどの「伊東宣明 時は戻らない」のもう一つの展示がありました。こちらも大きなスクリーンに映像が流されていましたが撮影不可でした。

 

北館と南館の間に駐輪スペースもありました。無料で停められます。

 

北館と南館の間に西館の一番東側の扉があります。扉の下の方には、沢山のボールの跡?グランドのテニスコートに面しているので、ここまでボールが飛んで当たっていたのかなあ?などと想像するのも楽しかったです。

 

前田珈琲 明倫店

再度南館一階に戻って来ました。

こちらのカフェは京都では老舗の前田珈琲の明倫店となっています。

教室を利用していますが、芸術センターらしく、ちょっと現代アートの展覧会のような雰囲気です。

前田珈琲 明倫店の公式サイトによると

『金氏鉄平(現代美術家)と家成俊勝(建築家)が協同し、この明倫店を舞台に現代アート作品tower(KITCHEN)をつくりました。アーティストと地域の方々。京都に幾多ある学校の学生同士と。双方がこの店でtower(KITCHEN)を前に、居心地の良さと刺激の両方を感じる。そしてこれをよすがに、ワークショップやプログラムの開催など、双方が繋がるような場づくりができたら。』

という考えから作られたそうです。

店内の真ん中に灰色の壁に囲まれた厨房と思われる場所があり、このような小さな窓がいくつか開いていて面白いです。

窓際の席は中庭が眺められて、いい雰囲気です。

 

壁の上部にはこれまた現代アートっぽい飾りが。眺めているだけで楽しくなります。

 

珈琲と黒ゴマのパフェを頂きました。黒ゴマの香ばしさが絶品のアイスと甘すぎない珈琲ゼリー、店内の装飾を彷彿とさせるカラフルなチョコなど一口ごとに色々な味に出会えて、ずっと食べ飽きない美味しさでした。

 

京都芸術センターは、レトロでモダンな美しい外観や元小学校をそのまま活用した懐かしい感じの内装、新進気鋭の芸術家の作品や制作風景を見ることも出来、前田珈琲のように店内がまるごと現代アートの作品のようなスペースもあり、かなりお得に芸術に親しむことが出来るスポットです。四条烏丸から徒歩5分ほどとアクセスも良く、観覧無料なので、ショッピングやカフェで休憩するついでに気軽にふらりと立ち寄れますので、機会があれば是非足をお運びください。

 

 

 

 

 

四条烏丸河原町界隈には他にもおすすめスポットが沢山あります。

 

都会の真ん中にある癒しスポット 六角堂↓

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お土産屋さんの立ち並ぶ新京極通の真ん中に鎮座する鎮守社 錦天満宮

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新京極通の発展を見守ってきた誓願寺

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東寺② ~空海が三次元で見せた密教の世界

世界遺産 東寺は京都駅八条口から徒歩15分、塀の外は街中の交通量の多い通りなので車がビュンビュン行きかいますが、塀の中は広々とした境内に大きな建造物が整然と立ち並ぶ落ち着いた空間です。

当時最先端の密教によって国家鎮護を目指した弘法大師空海が、嵯峨天皇より下賜された東寺をどのように作り上げていったのかを、有料エリアである金堂、講堂、五重塔などを巡りながらご紹介します。

 

 

東寺の場所

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東寺の行き方

電車で

 JR「京都駅」八条口から徒歩約15分

 近鉄東寺駅」から徒歩約10分

 

バスで

 京都駅烏丸口より 「京都駅前」から市バス

  78、19系統で約13分「東寺南門前」下車

  42系統で約6分「東寺東門前」下車

  16系統で約10分「東寺西門前」下車

 京都駅八条口より 「京都駅八条口」から市バス

  78、19系統で約9分「東寺南門前」下車

  16系統で約5分「東寺西門前」下車

 京阪「祇園四条駅」より 「四条京阪前」から市バス

  207系統(反時計回り 九条大宮・九条車庫行き)で約19分「東寺東門前」下車

 阪急「河原町駅」より 「四条河原町」から市バス

  207系統(反時計回り 九条大宮・九条車庫行き)で約19分「東寺東門前」下車

 

京都駅八条口から東寺へは徒歩15分ほど。詳しい行き方は以下でご紹介しています。

www.yomurashamrock.me

 

 

今回のスタートは東寺の食堂(じきどう)南側の拝観受付です。

東寺では、金堂、講堂、五重塔のエリアのみ拝観料が必要です。

写真右の窓口で拝観料を納めて入って行きます。

 

こちらの入口から入ります。緑が美しい庭園の向こうに五重塔がそびえていますね。

 

不二桜

入ってすぐ左手、講堂東側の瓢箪池の一角に見上げるように大きな桜の木があります。高さ13m、枝張り10mというとても大きな木です。この桜の木はもともと岩手県盛岡市のある旧家で育てられ、平成6年(1994)秋田県を経て三重県鈴鹿市の農園が譲り受け、大切に育てられた樹齢120年を数える大木です。平成18年(2006)、弘法大師空海が唐への旅から帰朝し1200年の記念にあたることから、この場所へ移植されました。弘法大師の「不二の教え」から「不二桜」と命名されました。

木の登頂部に覆いが架かっている理由を調べましたが詳しいことはわかりませんでした。

 

春のライトアップの時にはこのように大迫力の美しい姿で咲き誇ります。

 

講堂と立体曼荼羅

有料エリアから入って一番北側にあるのが「講堂」です。

平安遷都に伴い、平安京を護る寺として建てられた、国立の寺院 東寺を託された弘法大師空海は、人生のすべてを注いで密教という教えを伝えようとしました。その中心的な建物として位置付けたのがこの講堂です。

空海は、仏の教えを言葉で説くそれまでの仏教を「顕教」と呼び、それに対して「密教」は隠された深い信実なので、言葉では説明できず、図形や画像によってしか伝えられないとしました。

そこで密教の教えをわかりやすく表現したのが曼荼羅です。

左:国宝 両界曼荼羅図 金剛界曼荼羅  右:国宝 両界曼荼羅図 退蔵界

そしてその曼荼羅をよりリアルに伝えるために、空海が具現化することを構想したのが「羯磨曼荼羅」(かつままんだら)。一般的には立体曼荼羅として知られるものです。

つまり空海は「言葉で理解できないなら二次元の絵や図で、それでもだめなら三次元の仏像で表現しよう」としたのです。

重要文化財 大日如来坐像 写真:東寺公式サイトより

空海は、大日如来を中心とした二十一尊の仏様を講堂の須弥壇に登場させました。曼荼羅の中心に大日如来が描かれているように、東寺の中心に大日如来を安置して、寺域を巨大な曼荼羅にレイアウトしたのです。

この立体曼荼羅は、横長の巨大な基壇の中央に、森羅万象そのものである根本仏・大日如来を中心とする五体の如来像、東に五大菩薩像、西に五大明王像、東西に梵天帝釈天像、四隅に四天王像が配置されています。

空海密教への熱い思いから構想された画期的な立体曼荼羅ですが、空海が没した4年後の承和6年(839)に諸仏の開眼供養が営まれたそうです。

講堂の中に入ると、ほの暗く広大な室内に巨大な仏像が立ち並び、厳かな雰囲気です。京都には大きな仏像が公開されている寺院も多数ありますが、東寺は講堂や金堂に入ると、数名の警備員の姿が目につきます。ちょっとものものしいな…と思いましたが、講堂の二十一体の仏像のうち何と十六体が国宝!そして残り五体が重要文化財という、まさしくお宝の宝庫なので、警備員が目を光らせているのも納得でした。

この立体曼荼羅の中心となる大日如来像は像高285㎝、講堂の中心でひときわ輝きを放ち、智拳印という、いっさいのものを大日如来智慧で包み込むという印を結んでいます。その表情は大らかで包み込むような慈愛に満ち、切れ長の大きな瞳は、一度目を合わせたら目が離せなくなるような不思議な魅力に溢れています。

 

東寺の講堂は密教を伝え広めるために建立された建物で、元々は僧侶たちの修行の場でした。そのため、一般の人々はこの貴重な仏像群を目にすることはできませんでした。限られた者しか見ることが出来ないからこそ、そのありがたさは相当なものだったことでしょう。現代に生きる私たちは、この立体曼荼羅を自由に拝観出来るという幸運に恵まれています。堂内には修学旅行生や私のような一般の拝観者、そして地元の方でしょうか?講堂の一番南端の壁際にあるベンチに腰掛けて熱心に読経を唱える方の姿もあり、皆思い思いに空海の伝えたかった密教の世界を全身で感じているように見えました。

 

金堂

平安遷都直後の延暦15年(796)に東寺が創建され、最初に工事が着手されたのがこの金堂です。金堂には、国立の寺院にふさわしい荘厳な姿が求められました。以後600年以上、都の正面で威風堂々とその姿を残していました。しかし、文明18年(1486)に土一気のため焼失、現在の建物が関ケ原の合戦の後に豊臣秀頼の寄進により再建されました。宋の様式を取り入れた天竺様と和様を合わせた桃山時代の代表的な建物です。

 

重要文化財 薬師如来三尊像 写真:東寺公式サイトより

この金堂は、東寺の本堂にあたり、本尊は薬師如来坐像。薬壺を持たない古い様式の仏像で、光背に七体の化仏を配する七仏薬師如来です。本尊に対して右側には日光菩薩、左側には月光菩薩が控えています。薬師如来と言えば、あらゆる病や苦しみから人々を護ってくれ、世間の災禍を消してくれるという頼れる存在。

本尊 薬師如来像は、像高288㎝、先ほどの大日如来坐像とほぼ同じぐらい巨大な仏像で、仏教界のお医者様のような存在だからか、表情は理知的でクールな印象です。

金堂にある本尊 薬師如来坐像と、講堂の立体曼荼羅の中心となる大日如来坐像、一体どちらが東寺の中心なの?と疑問を持たれる方も多いと思います。

元々、東寺は空海に託される前にすでに金堂が建築されており、本尊としての薬師如来坐像がありました。その後、空海嵯峨天皇より東寺を賜り、密教を世に広めるために作ったのが講堂であり、立体曼荼羅です。

密教としての最高仏、宇宙の根本とされているのが大日如来ですが、鎌倉時代真言密教の仏教書「覚禅抄」によると、大日如来薬師如来は同体と書かれているそうです。

平安時代薬師如来を本尊とする寺院が多く作られました。天変地異や疫病、政変など、度重なる禍を避けて安寧な世の中を目指して遷された平安京とそれを護る東寺に、ご本尊として薬師如来坐像が真っ先に安置されたのも頷けます。

そして、空海自身も薬師如来を好み、高野山金剛峰寺の本尊も薬師如来であることからも、従来の東寺の本尊、薬師如来坐像はそのままに、大日如来坐像を中心とする密教の世界は、金堂とは別の講堂に設置したのではないでしょうか。(これはあくまで私の個人的な想像ですが)

空海の真意は分かりませんが、薬師如来坐像大日如来坐像どちらも、「平安な世を」と望んだ当時の人々の祈りや願いを受け止め導いてくださる存在として、崇敬され続けたことは間違いありませんね。

 

五重塔

東寺のみならず京都のランドマークとして有名な国宝 五重塔は、高さ54.8m、木造建築としては日本一の高さを誇ります。空海が建立に着手した時、費用も人手も不足しており、実際に創建されたのは、空海没後の9世紀末でした。落雷などで合計4回焼失しますが、その度に多くの人が奔走し再建され、現在の五重塔寛永21年(1644)に再建された五代目です。

 

写真:東寺公式サイトより

五重塔の初層内部には、極彩色で彩られた密教空間が広がっています。五重塔の各層を貫いている心柱は、大日如来として、その周りを四尊の如来、八尊の菩薩が囲んでいます。さらに四方の柱には金剛界曼荼羅が描かれています。また、四面の側柱には八大龍王、壁には真言八祖像を描き、真言の教えが弘法大師空海に伝えられた歴史を表しています。

普段は非公開となっている五重塔内部ですが、特別公開される時期もあるので、興味のある方は最新情報をチェックしてから拝観してください。

 

ちょうど修学旅行生のグループが五重塔の足元でガイドさんの説明を受けていました。

こうやって比較すると、五重塔の高さが実感できますね。

 

講堂、金堂東側の有料エリアに広がる瓢箪池付近から見る五重塔は、周囲の木々の瑞々しい緑と五重塔のモノトーンがお互いを引き立てあって、一幅の絵のような美しさです。ハス池からの眺めも素晴らしかったですが、こちらの庭園からの眺めも歩みを進めるごとに違った景色が楽しめ、本当に見ごたえがあります。

 

 

教王護国寺

東寺には「教王護国寺」というもう一つの名称があります。東寺の公式サイトにはその名称が全く出てこないのですが、東寺も教王護国寺もどちらも正式名称なのだそうです。

「教王」とは王を教化するという意味で、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められています。東寺の成り立ちを考えると、この名称はとてもしっくりと来ます。平安遷都を決めた桓武天皇による、都の南端の東を守護するべく建立された当初の東寺、そして、その次の嵯峨天皇から空海へ下賜され、更に都を護り発展させるようにと託された東寺、どちらも時の天皇から東寺へ国家鎮護を目指し託された、厚い信頼と崇敬の念がありました。そしてその信頼が、弘法大師信仰と相まって、一般の人々にまで広がり、平安の世から現在まで続き、この歴史ある寺院を存続させてきたとも言えるのでしょう。

 

東寺は国宝、重要文化財を多数所蔵しており、今回ご紹介したエリアでは写真撮影が許可されていない物が多く、公式サイトからの転載ばかりになってしまったことをご了承ください。写真が少ない分、文章で説明を…と頑張ってみましたが、かえってわかりにくかったかもしれません。

実は私も東寺を訪れるのは数十年ぶり(!)それも、前回は弘法市で境内をぶらっとしただけだったので、ゆっくりと諸堂を拝観するのは今回が初めてでした。

歴史の教科書にも必ず登場し、京都の観光地としてもあまりにも有名な東寺を、実はほとんど知らなかったなあ、と反省しかり。まだまだ紹介しきれていないこともたくさんありますが、今回はこの辺にしたいと思います。

京都駅から徒歩圏内で、周辺にも興味深いスポットがたくさんありますので、機会があれば是非足をお運びください。

 

 

東寺と同じく嵯峨天皇による弘法大師空海への信頼と崇敬から生まれた寺院大覚寺

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京都駅近くの穴場の名勝 渉成園

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東寺から徒歩10分ほどの自然豊かな梅小路公園

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