京都でも有数の観光地、嵯峨嵐山。緊急事態宣言も解除され、観光客も戻ってきました。
11月に入り渡月橋周辺の木々や嵐山も色鮮やかに色づき始めました。JR、阪急、京福の各駅からの交通アクセスも便利で、有名な神社仏閣などの絶景スポットも多数集まっています。そんな嵯峨嵐山でも特におすすめの紅葉スポットを数回にわたりご紹介します。
今回は、藤原定家が小倉百人一首を選定した山荘があったと言われる小倉山の東麓にある紅葉の美しい名刹 二尊院をご紹介します。
二尊院の場所
二尊院の行き方
バスで
京都市バス、京都バス 「嵯峨釈迦堂前」下車 徒歩約10分
電車で
今回のスタートは清凉寺(嵯峨釈迦堂)です。
JR嵯峨嵐山駅から清凉寺までの道のりは以下のブログをご参照ください↓
二尊院は清凉寺から徒歩10分ほどと徒歩圏内なので、是非清凉寺も一緒に訪れてみてください。
清凉寺の西門を清凉寺の内側から見たところです。西門から見える正面の山が小倉山です。小倉山へ向かって西へ進みます。
西門を出たところです。住宅街の道を、小倉山へ向かって西へ進みます。
250mほど進むとゆるやかな上り坂になってきます。このまま小倉山へ向かいます。
150mほど進み、左に曲がると、もう二尊院です。
二尊院の総門です。慶長18年(1613)に伏見城にあった薬医門を角倉了以によって移築・寄進されたもので、京都市指定文化財となっています。
二尊院とは
写真:二尊院公式サイトより
二尊院はその名の通り、「釈迦如来」と「阿弥陀如来」の二尊を祀る寺院であり、正式には「小倉山二尊教院蕐臺寺」(おぐらやまにそんきょういんけだいじ)と言います。
開創したのは平安時代初期の承和年間(834~848)で、嵯峨天皇の勅願により円仁(慈覚大師)が建立したと伝わります。明治維新までは天台宗・真言宗・律宗・浄土宗の四宗兼学の道場でしたが、明治時代以降は天台宗に属しています。
二尊院と関わりのある天皇(嵯峨天皇、土御門天皇、後土御門天皇、後嵯峨天皇、亀山天皇)の御分骨を納めると伝わる三帝陵があり、また法然上人ゆかりの寺として二十五ヶ霊場の第17番札所となっています。
では、さっそく二尊院へ入っていきます。
紅葉の馬場
総門を抜けた先に広がる、まっすぐに伸びた参道は紅葉の名所として親しまれ「紅葉の馬場」と呼ばれています。小倉山を背景に、春は桜色に染まり、夏は青紅葉、冬は霜や雪に輝く木々が連なり、四季それぞれの風景を楽しめる二尊院一番の見どころです。
嵐山からは少し距離があるため、普段は参拝者もそれほど多くは無い二尊院ですが、紅葉が美しいこの時期はたくさんの人が、まさに錦秋の名にふさわしい紅葉のトンネルを楽しみに訪れます。
石段を登ると、更に色鮮やかな紅葉が見られました。
勅使門
本堂へと続く門は、天皇の意志を伝えるために派遣される使いである勅使だけが出入りする際に使われた「勅使門」です。弓を横にしたような形で中央が高い「唐破風形」の屋根をしています。かつては、勅使が訪れた時のみ開門していた格式高い特別な門です。今日では参拝した誰もが通ることが出来ますが、歴史的背景を知ると厳かな気持ち
になります。勅使門の周辺の紅葉を一緒に写真に納めたくて、変な角度から撮影したため、勅使門の前に枯れ木が入ってしましました。
本堂
先にご紹介した二尊を安置する本堂です。六間取り方丈形式の間口の広い建物が京都市指定文化財です。室町時代の応仁の乱(1467~77)の兵火で諸堂が全焼しますが、永正18年(1521)に三条実隆が諸国に寄付を求めて再建。本堂に掲げられている後奈良天皇の自筆による「二尊院」は、この再建時に与えられたものです。平成28年(2016)に、約350年ぶりとなる平成の大改修が完了し、由緒ある寺院にふさわしい壮麗さを取り戻しています。
本尊「釈迦如来」と「阿弥陀如来」
写真:二尊院公式サイトより
本堂には、寺名のもととなっている二尊が安置されています。
どちらも同じくらいの大きさで約80センチほど、ヒノキの寄木造です。ともに伏し目がちの良く似たお顔で、穏やかながら理知的な表情を浮かべておられます。
向かって右が極楽往生を目指す人を此岸から送る「発遣の釈迦」、向かって左が彼岸へと迎える「来迎の弥陀」の遣迎二尊です。つまり「極楽浄土」へ行くためには、この二尊の送り迎えが必要ということですね。そのため、この二尊院では「発遣の釈迦」と「來迎の弥陀」の二尊が仲良く並んで祀られているという訳です。この思想は、中国の唐の時代に善導大師が広めた「二河白道喩」というたとえによるもので、やがて日本に伝わり法然上人に受け継がれました。
二尊院の遣迎二尊像は鎌倉時代中頃の、奈良在住の仏師であった快慶の作風に似ているのですが、作者がはっきりしないので、奈良の仏師を総称した「春日仏師」の作とされています。
本堂脇の小さな石庭です。紅葉の後ろからの日の光が後光が差しているかのようで、神々しいまでの美しさです。
石庭に面した縁側に、紅葉をあしらった可愛らしい鉢が並べてあり、おもてなしの心を感じました。
花手水
本堂右横にはサザンカやナンテン、ススキなどによる花手水が。紅葉で彩られた境内を、更に華やかに彩っていました。
鐘楼(しあわせの鐘)
二尊院では、かなり頻繁に鐘の音が響き渡っています。初めて訪れた時は「あれ?何時だったかな?」と時計を見ましたが、時刻に関係無く不定期に鳴り響きます。
その訳は、参拝者なら誰でも自由に無料で鐘を撞くことが出来るからです。
この梵鐘(釣鐘)をつるす堂「鐘楼」は、慶長年間(1596~1615)に建立、梵鐘は慶長9年(1604)に鋳造されました。平成4年(1992)に、開基嵯峨天皇1200年御遠忌法要記念として再鋳されました。「しあわせの鐘」と名付けられ、「自分が生かされているしあわせを祈願」「自分のまわりの生きとし生けるものに感謝」「世界人類のしあわせのために」と、鐘を三つ撞いてそれぞれに祈願することとしています。私も撞いてみると「心を落ち着けて静かに撞いてください」と立て札にもあるように、優しく穏やかな鐘の音が、小倉山全体に響き渡り、コロナで疲れた心を癒してくれるようでした。
小倉山と百人一首
二尊院が位置する小倉山は、渡月橋の下を流れる大堰川をへだてて嵐山と相対する山で、その東面に嵯峨野を擁しています。高さはわずか292mですが、その山容の美しさ、優雅さや四季折々の自然の美しさから、平安時代の皇族や貴族がこのあたりを別荘地として選んだ場所です。
この山が歴史上もっとも有名なのは、紅葉の名所として、多くの歌に詠まれていることでしょう。中でも藤原忠成の
小倉山 峰のもみじばこころあらば 今ひとたびのみゆき待たなむ
の歌は「小倉百人一首」にも選ばれています。
この「小倉百人一首」は藤原定家が選定したと言われていますが、その定家の山荘があったのが、現二尊院の裏山(小倉山)の中腹で「時雨亭(しぐれてい)」と言われる場所であったそうです。
小倉餡発祥の地
本堂の北、鐘楼の東あたりにも小さな苔庭があります。その傍らにひと際立派な石碑があり「小倉餡発祥之地」と刻まれています。
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安時代の初め820年のことです。
当時このあたりの小倉の里に和三郎という菓子職人がいて、809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培し、それに御所から下賜された砂糖を加え、煮詰めて餡を作り、これを毎年御所に献上してしていたのが始まりだそうです。
ところで、和菓子に欠かせないあんこには「こしあん」「つぶあん」のほかに、「小倉あん」と呼ばれているものがありますね。小倉あんとは、こしあんに蜜で煮た大納言小豆などの大粒の小豆を粒状のまま混ぜたあんこのことです。他のあんこよりひと手間多いのですね。そして小倉あんに使われている大納言小豆が、この小倉山周辺を産地とするものが最も良質と言われていたそうです。
小倉あんの小倉が小倉山から来ていたとは、二尊院で初めて知りました。京都の和菓子がおいしいのは、もともと日本文化の最先端であったからだけでなく、おいしい小豆の採れる産地でもあったからなのですね。
法然と二尊院・皇族や公家などの墓
二尊院は平安時代に創建されたものの、以降荒廃していきます。その後鎌倉時代になり、法然が九条兼実の支援を得て二尊院を再興します。法然は一時、二尊院に住んで多くの弟子にその教えを説きました。二尊院所蔵の「法然上人足曳きの御影」(重要文化財)は、先の九條兼実の命により絵師 宅間法眼が描いたもので、画面の損傷が激しいものの、法然の画像としては最古級のものです。
生前 比叡山から敵視されていた法然は、比叡山の僧徒が法然の遺骸を掘り出そうとしたため、法然の門徒が遺骸を嵯峨に移し火葬しました。この時に、法然の高弟であり二尊院の中興の祖でもある湛空が、法然の遺骸の一部を分骨し、二尊院に御廟を建てて祀りました。
本堂と鐘楼の間にある長い石段を登り切った先に、その御廟があります。湛空廟とも呼ばれています。
周辺のおすすめスポットは以下のブログでもご紹介しています。
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