京都市内随一の繁華街・新京極通に面して建つ、小さくとも立派な門構えの誓願寺。前を通る買い物客や観光客は多いものの、参拝する人はそんなに多くはありません。かく言う私も一度も入ったことはありませんでした。今回初めて誓願寺について調べてみると、実は大変長い歴史の中で、歴史上の偉人、特に女性たちが帰依した寺院であり、更に明治維新後に衰退しかけた京都の起死回生策の鍵となる重要な場所でもあったことがわかりました。
今回はにぎやかな繁華街の変遷を見守ってきた歴史ある寺院、誓願寺をご紹介します。
●誓願寺の場所
●誓願寺の行き方
≪市バスの場合≫
京都駅前(中央口)市バスA乗り場より[205系統]、[17系統]にて
「河原町四条」または「河原町三条」下車、どちらからも徒歩約5分。
≪電車の場合≫
・JR京都駅より
地下鉄にて「烏丸御池」駅で東西線に乗り換えて「京都市役所」駅下車。
ゼスト御池出口2番または5番より南へ徒歩5分。
または地下鉄「四条」駅で阪急電車に乗り換え「河原町」駅下車。
阪急ときわビル口を出て新京極通を北へ徒歩5分。
・京阪電車より
三条駅から徒歩約10分。
今回のスタートは、錦天満宮です。
錦天満宮から新京極通を北上し、徒歩3分とすぐ近くに誓願寺はあります。
錦天満宮は、京の台所、錦市場のある錦小路通の東の端、新京極通の真ん中辺りで、多くの観光客や買い物客が訪れる人気スポットです。
錦天満宮については以下のブログで詳しくご紹介しています↓
コロナ前の新京極通は、一年中、日本はもとより世界中の観光客や買い物客でごった返していましたが、この日は緊急事態宣言は解除されていたものの、あいにくの小雨模様で人通りは少なかったです。
更に北へ進むと、蛸薬師通と新京極通の交わる地点に出ます。写真右手が蛸薬師通です。
京都の通り名の唄「あねさんろっかくたこにしき~」を錦小路通→蛸薬師通と逆に進んでいます。京都では北へ進むことを「上がる(住所では上ル)」、南へ進むことを「下がる(住所では下ル)」と表します。新京極通と蛸薬師通の交わるこの写真の場所を少し北へ進んで「新京極蛸薬師上ル」となる場所に、蛸薬師通の名前の由来となった「蛸薬師堂 永福寺」があります。
両側は普通の商店ですが、突然、無数の赤い幟がはためく蛸薬師堂が現れます。
お寺の前の看板にも書いてある通り、病気平癒のご祈祷で有名で、ガン封じや心身の病気平癒、所願成就の祈願をする人で、大変人気の高い霊験あらたかなお寺です。コロナ前は、いつもたくさんの参拝客で賑わっていました。
養和元年(1181年)、比叡山の薬師如来を信仰していた林秀という人物が、夢のお告げにその薬師如来が現れ「最澄が石に彫った薬師如来が比叡山に埋められているので持ち帰りなさい」と告げられ、そのお告げ通りに石造を見つけて持ち帰り、その後お堂を建てて薬師如来を祀り永福寺と名付けたのが蛸薬師堂の始まりです。
昔、この寺が二条室町にあったころ、付近に池があったことから、水上薬師または澤薬師(たくやくし)と呼ばれ、これがなまって蛸薬師になったと言われているそうです。
また一説には、この寺の善光という親孝行な僧が、戒律に背いて病気の母のために蛸を買って帰るところを町の人に見とがめられ、蛸を入れた箱を開けるように求められたとき、薬師如来に「この難をお助けください」と念じたところ、蛸の足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れたといいます。その後、母の病気は薬を飲まずに全治し、これは親孝行の僧侶を護った本尊の霊験であるとして、本尊の薬師如来を蛸薬師と呼ぶようになったと伝えられています。
蛸薬師堂は、大変人気のスポットで見どころ満載なのですが、境内は撮影禁止となっています。そのため、今回は入口の写真のみご紹介しました。
境内には蛸をモチーフにしたおみくじや絵馬、お守りなどのグッズが多数販売されていました。また、本堂には左手で撫でるだけで病気が治るという木彫りの蛸の「なで薬師」や、額に「多幸(たこ)」と書かれた木彫りの蛸の像、恋愛結び不動明王、「だいじょうぶだいじょうぶ仏」などなど、見ているだけでも楽しくなる物がたくさんあり、一歩踏み入れるだけでもご加護があると言われているそうです。興味のある方は是非訪れてみてください。
歩き始めて2分ほどで新京極通と六角通の交わるあたりにある三角公園「ろっくんプラザ」に「夢舞台」というイベントスペースがあります。ちょうど、風鈴が涼し気な音色を響かせていました。
この日は小雨が降ったりやんだりの梅雨の時期らしい蒸し暑い一日でしたが、爽やかな風鈴の音色に一時暑さを忘れました。
そしてこの風鈴の「夢舞台」の真正面が、今回の目的地「誓願寺」です。
●誓願寺とは
誓願寺は飛鳥時代、天智天皇6年(667)、天皇の勅願により創建されました。もともとは奈 良にあったのですが、鎌倉時代に京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、その後天正19年(1591)に豊臣秀吉の寺町整備に際して現在の三条寺町に移されました。
清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高い寺院です。
平安時代後期、浄土宗の法然上人が興福寺の蔵俊僧都より当寺を譲られて以降、浄土宗になりました。現在は法然上人の高弟・西山上人善恵房空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山です。
では、さっそく誓願寺に入っていきましょう。
門を入るとすぐに立派な本堂の入口です。奥には金色に輝くご本尊の阿弥陀如来坐像が見えます。その大きさは、なんと坐像で2.75m!見上げるような大きさです。
奈良時代の創建当時の阿弥陀如来像は、度重なる火災で焼失してしまい、現在のご本尊は、もとは石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に安置されていた阿弥陀如来坐像で、神仏分離が行われていた明治2年、誓願寺に移安されました。
体が光っているので金属製に見えますが木製です。幾度も塗り重ねられた漆で表面は覆われていて、寄木造布貼の丈六の坐像で、平安時代後期の定朝様で鎌倉時代から南北朝時代頃の作とみられています。
●誓願寺と女人往生
誓願寺では、平安時代に歴史上有名な二人の女性作家が極楽往生しているそうです。ひとりは清少納言。誓願寺で菩提心を起こして尼となり、本堂そばに庵室を結びました。その後、念仏を唱えて往生をとげたそうです。
もう一人は和泉式部です。娘に先立たれ、その哀しみから世の無常を感じた式部は、播州の書写山へ高僧・性空上人を訪ねました。ところが「京都八幡山の大菩薩に祈るべし」と言われ、石清水八幡宮へ参って祈ると、夢に老僧が現れて「誓願寺で祈るべし」と告げられました。そこで、誓願寺に48日間もこもって一心に念仏を唱えたところ、今度は夢に老尼が現れて「念仏を唱えれば女人の往生は疑いなし」とのお告げがあったそうです。式部は尼となって庵を結び、ここでめでたく往生したそうです。この庵室が、同じ新京極通にある「誠心院」です。
誓願寺は天正19年(1591)一条小川から三条寺町の現在の場所に移転しました。
その際、豊臣秀吉の側室、松の丸殿の深い信仰による助力があったそうです。そのころ松の丸殿は一条小川にあったすぐ近くの屋敷に住んでいて、誓願寺は天正元年の火災により荒廃していたそうです。松の丸殿は、和泉式部の女人往生伝説を耳にされ、誓願寺再興への思いから、諸大名の奥方にも勧進され、壮大な堂塔が建立されました。誓願寺の寺紋「三つ盛り亀甲に花菱」は、松の丸殿の京極氏の家紋「三つ盛り亀甲」に由来するものです。女人往生伝説のおかげで、時の権力者の奥方の深い信仰を得、荒廃した誓願寺が大寺院に再興されたのですから、信仰の力の大きさ、恐るべしですね…
山門の提灯に記された誓願寺の寺紋「三つ盛り亀甲に花菱」
●京都の起死回生策・新京極通の誕生
「都名所図会(安政9年(1780)刊行)によると、誓願寺の表門は寺町六角、北門は三条通りに面し、なんと6500坪もの境内に塔頭寺院が18カ寺もあり、三重の塔も見られます。
その当時、三条から四条の間の「寺町通」には大小11カ寺の寺院があり、盛り場を回るには、いちいち寺の門から出て次の寺の門をくぐる、つまり塀で仕切られた寺ごとに独立して盛り場が続いていたそうです。「誓願寺さんへ行こう」「道場へ行こう」と言えば遊び場を意味するほどに寺町界隈は洛中一賑わっていたそうです。ところが、明治維新で都が東京へ移り、幕末の戦乱「禁門の変」(蛤御門の変)で辺りは焼け野原となりました。こうした背景のもと、京都の町の復興のため、明治5年(1872)、時の京都府参事・槇村正直は、すでに芝居小屋、見世物小屋の集まっていた誓願寺境内と、四条寺町を上がった位置にあった金蓮寺境内(時宗・四条道場)に目をつけ上知(没収)し、三条~四条間に新しい路を通し、一大歓楽街を作ろうとしました。
これが現在の「新京極通」です。このため誓願寺は6500坪を有していた境内のうち、4800余坪を没収されることになりました。
しかし、そのおかげで新京極は京都第一の繁華街となり、演劇、活動写真、浄瑠璃、軍談、落語の興行場から酒場、肉屋、カフェ、球技場などまであって、昼夜賑わっていたそうです。現在は主に観光客向けの土産物屋や飲食店、ショップなどに変わっていますが、その賑わいは変わっていません。
誓願寺の門には、観光地によくある、顔だしパネルが…
お寺にこれがあるのは珍しいのではないでしょうか。「新京極Since 1872」の文字は、明治時代に誓願寺などのお寺境内を通す形で新京極通が作られ、演劇や活動写真などのエンターテインメントで賑わっていたことを表しているのだと思います。
この写真を見た私の家族も「ああ、これが誓願寺かあ~この前はよく通るけど入ったこと無かったわ!」と話していました。これが平均的な京都人かもしれません(笑)
世阿弥の作と伝えられている謡曲「誓願寺」は、和泉式部と一遍上人が誓願寺の縁起と霊験を物語るものです。和泉式部が歌舞の菩薩となって現れることから舞踊家の間に和泉式部信仰が生まれ、能楽など芸能の世界の人々の信仰が厚くなりました。これが「扇塚」に芸道上達を祈願して扇子を奉納することにつながっているそうです。
また、誓願寺の住職であった策伝上人が「落語の祖」と仰がれていることも扇子との絆を象徴しています。
誓願寺第五十五世の安楽庵策伝上人(1554~1642)は、戦国時代の僧侶として布教に励むかたわら、文人や茶人としての才にも優れていました。教訓的でオチのある笑い話を千余り集めた著書「醒睡笑」八巻は後世に落語のネタ本となり、策伝上人は「落語の祖」と称されています。誓願寺では毎年10月初旬の日曜日に「策伝忌」を催し、奉納落語会を開催しています。
●迷子の道しるべ
誓願寺の山門の外、北側にある石柱です。正面に「迷子のみちしるべ」、右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあります。まだ警察の無かった江戸末期~明治中期に迷子が深刻な社会問題となり、各地の社寺や盛り場に石柱が建てられたそうです。迷子や落とし物などをした時、この石に紙を貼って情報交換したそうです。
「月下氷人」(仲人)役の石ということから、別名「奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)」とも呼ばれています。
現存の石柱は明治15年(1882)に建立されました。
誓願寺は京都の中心地に位置するために戦乱の影響を受けやすく、これまでに10回の火災に遭っています。しかし、そのたびに多くの信者たちによって再建されてきたそうです。現在の鉄筋コンクリートの本堂は昭和39年(1964)に建てられました。
度重なる火事の悲劇は、かえって多くの人々を誓願寺に結縁させ、念仏の信仰をはぐくんできたのだそうです。
にぎやかな新京極通に面しているにも関わらず、一歩境内に入ると表の喧噪が嘘のように静かで穏やかな時間が流れています。長い歴史の中で多くの人々の信仰によって支えられ、また誓願寺も京都の町を見守ってきたのですね。
京都の寺院は拝観料が必要な所も多いですが、この誓願寺は拝観無料です。観光やショッピングに歩き疲れた時に、ちょっと訪れてみて、誓願寺の歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。立派な阿弥陀如来坐像もお参りできますし、芸事をされている方は、扇塚もお参りすることで芸事上達のご利益があるといいですね。