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法輪寺(達磨寺) ~七転八起の心を広めただるまの寺

JR嵯峨野線円町駅の近くにある法輪寺は通称「達磨寺」とも呼ばれ、全国から奉納された約8,000体もの大小様々なだるまがずらりと並ぶ、とても縁起の良いお寺です。

住宅街にある小さなお寺ながら、美しく整えられた枯山水庭園もあります。境内の芙蓉の花や百日紅が見ごろと思い、お盆休みに訪ねてみました。

 

 

法輪寺達磨寺)の場所

goo.gl

 

法輪寺達磨寺の行き方

電車で

 JR山陰本線嵯峨野線)「円町駅」下車 徒歩約7分

 

バスで

 京都市バス 各線より「西ノ京円町」下車 徒歩約5分

 

 

今回のスタートはJR山陰本線嵯峨野線)円町(えんまち)駅です。

京都の住所は、その場所が面している東西と南北の大きな通りの組み合わせに、上ル(北へ)、下ル(南へ)、入(いる:東や西へ)で表すことが出来ます。例えば京都一の繁華街、四条河原町四条通(東西)と河原町通(南北)の交差する辺りを指します。しかし、実際にはこうした通り名の組み合わせとは違う表記の住所の方が多く、電車の駅名などもそうです。

今回のスタート地点、JR嵯峨野線円町駅も、通り名で言うと丸太町通西大路通の交差する辺りなので、前述の法則で言うと「丸太町西大路(または西大路丸太町)」ということになるのですが、そうは言わないのがやっかいなところ。近隣の住民は円町駅がどの通りに面しているかよくわかっていますが、京都市内でも行きなれていない場所だと地名だけだとどの辺りか分からない場合も。
そんなことを考えながらJRを降り、改札を出て北(左)へ向かいます。

 

円町駅丸太町通に面して、通りの南側にあります。

 

先ほどの出口を背にして北を向くと目の前が丸太町通りです。前方に見えているバス停を目指し、丸太町通を東(右)へ進みます。

 

丸太町通を東へ進みます。

 

この辺りが円町の交差点です。丸太町通りを北へ渡ります。

 

次に西大路通を東へ渡ります。

 

丸太町通を100mほど東へ進みます。

 

昔ながらの定食屋さん「つたや」の角を北(左)へ曲がります。

 

住宅街の中の道を150mほど進みます。

 

突き当りまで来たら、東(右)へ曲がります。

 

目の前に緑色の小さな橋があるので渡ります。この橋の下は北野天満宮の近くも流れている紙屋川です。

 

橋を渡ったら、紙屋川沿いを北(左)へ40mほど進みます。

 

川沿いの道が終わり、下立売通に出るので、突き当りを東(右)へ曲がります。

 

下立売通を70mほど東へ進みます。

 

法輪寺(達磨寺)に到着です。

 

法輪寺(達磨寺)とは

法輪寺(達磨寺)は、臨済宗妙心寺派の寺院で、享保13年(1718)、大愚宋築(たいぐそうちく)禅師を開山とし、荒木光品居士が開基となり、万海慈源和尚が創建しました。開基の荒木氏は両替商で、武家の開基による寺院が多い妙心寺派にあっては異色の禅寺です。

同寺が「達磨寺」として親しまれているのは、第10代伊山和尚が昭和20年(1945)日本の戦後復興を祈念して「起き上がり達磨堂」を建立したのが始まりです。伊山和尚の偉業の一つに「白隠和尚全集」を刊行し、禅宗を当時の大衆に広めたことが挙げられます。白隠は、臨済宗の中興の祖と呼ばれる江戸時代の高僧で、達磨大師によってインドから中国へ伝えられた禅宗を、禅画や墨蹟によって庶民に分かりやすく広めたことで有名です。

法輪寺(達磨寺)のパンフレットも、白隠和尚の描いた達磨大師が表紙に登場。禅宗の始祖である達磨大師の七転び八起きの精神にあやかり、起き上がり、忍苦、不屈のシンボルとして多くのだるまが境内に奉納されています。

なお、嵐山の近くにも「法輪寺」というお寺があり、こちらは十三まいりや「嵯峨の虚空蔵さん」として有名ですが、また別のお寺です。

 

達磨大師とは

達磨大師とは、インドから中国へ禅を伝え、禅宗の始祖となった人です。西暦527年にインドから海路三年もかかって中国へ渡ります。洛陽郊外の嵩山 少林寺で忍苦の修行「面壁」(壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅)を9年間行い、手も足も無くなり、尻も腐ったと言われています。その修行の末、中国禅宗の開祖となりました。

起き上がり達磨とは、江戸時代に考案され、達磨大師の面壁の坐禅姿を模した日本の縁起物です。「七転八起」とは、倒れても自力で起き上がる力であり、一貫した忍苦の人間のシンボルとして「起き上がり達磨」に発展したのでしょう。

 

 

では、法輪寺と達磨の関係がわかったところで、境内に入って行きましょう。

 

山門を入ると、すぐ右手に受付があります。起き上がり達磨堂は無料で拝観出来ますが、衆聖堂と方丈は拝観料が必要ですので、こちらで納めます。

受付の方に「拝観は初めてですか?」と聞かれ「はい」と答えると、受付から出てこられ、簡単に境内の案内をしてくださいました。

今回訪ねた時期がお盆だったので、檀家の方が次々と訪れ、お墓参りをされていましたが、衆聖堂や方丈を訪ねる人は、私が訪ねた間には一人もいませんでした。街中のお寺ですが、普段はとても静かな境内のようです。

 

起き上がり達磨堂

さて、山門を入って左手にある「起き上がり達磨堂」は三国最初随一とされ、昭和20年に第10代伊山和尚が戦後復興を祈念して信徒や市民に呼びかけ、建立されました。約8,000体ものだるまさんが所せましと祀られています。

 

お堂の入口の上の額にも「七転八起」の文字が掲げられています。

 

達磨堂に入ると、お腹に「おさいせん」と書かれただるまが。写真では「おさい」までしか写っていませんが…

 

無数のだるまさんが並んだ一番奥には達磨大師の像が。そしてご真言「おんだーまそわか」が掲げられています。ちょうどお墓参りに訪れていたおじいちゃんが、同行していたお孫さんたちに「おんだーまそわか、と唱えるんやで」と教えておられ、みんなで手を合わせてお参りされていました。

 

とにかくどちらを向いてもだるま、だるま、だるま…これらを眺めているだけでも、何か良いことがありそうです。

 

 

 

衆聖堂

起き上がり達磨堂の向かい側に建つ、美しい朱塗りの建物が衆聖堂です。

 

建物左手の下駄箱で靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて中へ入ります。

 

衆聖堂の一階にも、木造の達磨像や十六羅漢像などが所せましと並んでいます。

下調べ不足で写真が撮れていないのですが、天井にも達磨像が描かれていたそうです。

 

一旦廊下へ出て、左へ回ると

階段がありますので、二階へ上がります。

二階の正面には等身大の金箔等身涅槃木造が祀られています。

向かって左側にずらりと並ぶのは、第二次世界大戦戦没者の位牌。

そして写真には写っていませんが、右側に並ぶのは、「キネマ殿」と称した日本映画関係者の位牌の数々です。小津安二郎原節子森繁久彌、森光子、高倉健といった往年の大スターなど日本映画関係者の位牌が並んでいます。

日活太秦撮影所長だった池永浩久氏が、1940年に大日本映画大道会を設立して自宅に映画人の祭壇を祀っていましたが、大戦末期の1944年、当寺の伊山和尚に慰霊を託し、祭壇を奉納したことが、このキネマ殿の始まりだそうです。

 

 

無尽庭

階段を降りて、廊下でつながる方丈へと向かいます。

 

方丈は享保13年(1718)建立で、昭和58年(1983)に3年かけて解体修理して復元したもの。

方丈の南側には「無尽庭」という枯山水庭園があります。

昭和53年(1983)に作庭されました。悟りに至るまでの段階を10枚の図と詩で表した「十牛図」を題材としています。

 

ちょうど百日紅が見ごろでした。緑のグラデーションが美しい苔の庭に、紅色の百日紅が華やぎを添えています。右端の萩はまだ咲いていませんでしたが、百日紅は花の期間が長いので、一緒に咲いたらさぞかし美しいことでしょう。

 

十牛図にちなみ、方丈の広縁の端に牛の像がありました。

 

 

様々なだるまさん

だるまさんと言うと、手足の無いずんぐりとした「起き上がりだるま」のイメージが強いですが、これは面壁の修行の時の姿をモチーフにしたもの。等身大に近い木像や石像のだるまさんはもう少しスラリとしたものもありました。どれもぎょろりとした大きな瞳とへの字に結んだ口元が印象的で、手足が無くなるほど長い間禅の修行に励んだ達磨大師の、まさに七転八起、不撓不屈の精神を表しているようでした。

 

日本ではだるまというと当選や受験合格の願いをこめて、左目の部分に目を入れ、その願いが叶うと残りの右目にも目を入れるという風習がありますね。倒れても自力で起き上がる、転んだ力の大きさで起き上がり、苦労にもめげず楽にもおごらない、一貫した忍苦の人間のシンボルがだるまなのですね。

心願成就、厄除け開運、開運招福、商売繁盛、受験合格など、どんな願いも叶えてくださる法輪寺は、小さいながらもとてもご利益の多いお寺です。

紙屋川を北へ上がること徒歩15分ほどで北野天満宮などもありますので、機会があれば是非お参りください。