京都おすすめ散歩道

定番から穴場まで京都のお散歩コースを地元民の視点からご紹介

六波羅蜜寺 ~現世と来世の境目に出来た空也上人の寺

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京都市 東山に位置する六波羅蜜寺は「六はらさん」と呼ばれる由緒ある寺院です。この辺りは鳥辺野(とりべの)に続く昔からの埋葬地であり、信仰の地でもありました。

約1000年ほど前の平安時代に、京都に流行り病が蔓延したため、空也上人が疫病退散のため、自ら十一面観音立像(国宝)を刻み、西光寺を創建しました。これが現在の六波羅蜜寺にあたります。

清水寺など周辺の寺社と比べ全国的な知名度は高くありませんが、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代とも深くかかわる大変興味深い寺院として、この六波羅蜜寺をご紹介します。

 

 

 

六波羅蜜寺の場所

goo.gl

 

六波羅蜜寺の行き方

電車で

 京阪電車清水五条駅」下車、徒歩約7分

 阪急電車「京都河原町駅」下車、徒歩15分

 

バスで

 京都市バス 京都駅206号系統「清水道」下車、徒歩約7分

 

 

 

 

今回のスタートは前回ご紹介した「建仁寺」からです。

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建仁寺で一番南にある「勅使門」を出ると、八坂通に出るので、左(東)へ向かいます。余談ですが、この「勅使門」は平教盛平清盛の異母弟)の館門を移築したものと伝えられています。

 

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こちらが八坂通で、進行方向右手に「ホテル ザ セレスティン 京都祇園」が見えていますのでそちらを目指して進みます。

 

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ホテル ザ セレスティン京都祇園の入口です。京都の伝統を映した入母屋屋根と現代建築を調和させ、京都産の杉をふんだんに用いたシックな外観です。

このホテルの向こうを右(南)へ曲がります。

 

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曲がり角にある電柱に、「→六波羅蜜寺」という案内板が出ていました。右へ曲がります。

 

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曲がったところです。道なりに南へ120mほど進みます。

 

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松原通に出るので、右(西)へ曲がります。

 

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松原通に出るとすぐ左(南)へ曲がりますが、ちょっと寄り道…

 

六道の辻と幽霊子育飴

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先ほどの曲がり角の反対側、松原通に面して「幽霊子育飴」という看板のお店が。

この辺りは「六道の辻」と呼ばれています。六道とは一切の人間が辿ることになる六種の世界、地獄道、餓鬼道、畜生道修羅道、人間道、天道のことで、この死後世界への境目という意味でこの辺りを六道の辻というそうです。今回は訪ねていませんが、先ほどの松原通を東へ向かうと六道珍皇寺があり、ここは古くから葬送地鳥辺野に近く、現世と来世を分ける地と認識されていました。平安時代小野篁(おののたかむら)はこの六道珍皇寺の井戸を通って冥界と往復したと言われているのもそんな土地だからです。

さて、その六道の辻にある「幽霊子育飴」のお店に、慶長4年(1599)、やせ衰えた女性がいつも赤ん坊を抱いて飴を買いにきたそうです。不審に思って跡をつけると墓地に消え、そこにある墓から泣き声がするので掘り返してみると赤ん坊がいて、それは臨月の女性を葬ったお墓でした。死してなお我が子を想い、幽霊となって飴を買い育てていたのです。このお店の人の話では、創業当時から銭函があり(現在は使用されていない)この中にしきみの葉が入っていたことから幽霊が飴を買いに来たとわかったそうです。京都ではお墓にしきみの葉をお供えしてご先祖の魂を供養するのです。そんな話が伝わっているのも、この辺りがこの世とあの世の境目にあたる場所として認識されていたことを物語っているのですね。

 

f:id:yomurashamroch:20220130223533j:plain少し脱線しましたが、「幽霊子育飴」のお店の前を左へ曲がると、曲がり角に「西国十七番六波羅蜜寺」の石碑があります。この道を南へ進みます。

 

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この道沿いに学校のような建物が。「東山開晴館 第二教育施設 六原学舎 京都市立開晴小中学校」と書かれています。調べてみると、こちらは旧京都市立洛東中学校跡地で、周辺の小中学校6校とともに2011年に「東山開晴館」に統合され、2018年に「京都市立開晴小中学校」になったそうです。

 

さらにこの道を進みます。

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京都市立開晴小中学校の隣に「六波羅蜜寺」と書かれた建物が。

 

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朱塗りの柱が鮮やかな本堂が見えてきました。かなりコンパクトなお寺のようです。

さらに進みます。

 

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こちらが入口です。さっそく入って行きましょう。

 

 

六波羅蜜寺とは

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六波羅蜜寺は、天暦5年(951)疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十七番札所として古くから信仰を集めています。空也上人の自刻と伝えられる十一面観音立像(国宝)を本尊としています。

 空也上人は醍醐天皇の第二皇子と伝えられ、若くして出家しました。この十一面観音立像を車に安置して市中を曳き回り、小梅干しと結昆布を入れ仏前に献じた茶を病人に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて病魔を鎮めたと伝えられています。(このお茶は現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与されています)

応和3年(963)には名僧600名を集めて、金字大般若教を読み、諸堂の落慶供養を盛大に行い、これが六波羅蜜寺の起こりと言われています。

空也上人没後は、高弟の中信上人により規模が大きくなり、平安時代の後期に平忠盛平清盛の父)が当寺内の塔頭に軍勢を止めたことから、以降平清盛・重盛に至り広大な寺域内には、平家一門の邸館が5200余にも及んだと言います。その後も鎌倉幕府六波羅探題が置かれるなど、源平盛衰の中心地でもありました。

時代や将軍が変わっていく中でも、再建復興が進められ、火災が起きるたびに修復されました。重要文化財にも指定されている本堂は、1363年に修復されたものを1969年に解体修理したものです。

 

弁財天堂

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入口から入って正面にあるのが弁財天堂です。こちらは崇徳天皇保元の乱後白河法皇に敗れ、讃岐に配流)の夢告により禅海上人によって造立されたものです。崇徳天皇が亡くなった後、寵愛されていた阿波内侍(あわのないし)の屋敷跡を寺とし、弁財天堂を建立して祀っていたと伝えられています。

廃仏毀釈により、六波羅蜜寺に移されたそうです。

七福神の中で唯一の女神である弁天様は、水を神格化した神で、神話によると、学問と技芸、そして仏教では人々に財宝を与え、障碍を取り除くとされています。

 

一願石

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弁財天堂のすぐ右横にあるのが「一願石」です。こちらは訪れた人の願いを一つだけ叶えてくれると言われています。石でできた柱の上部には、回転する円盤状の石が取り付けられています。石に書かれている黄金色の文字を正面にして、心の中で願い事を唱えながら、ぐるぐると三回まわすと願いが一つだけ叶うそうです。

私が訪れた時も、参拝者が横に置かれた消毒スプレーで手を消毒してから一願石を回している姿が見られました。私もこのコロナ禍が早く収まることを願って回してみました。

 

本堂

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六波羅蜜寺でひときわ目を引くのが、この朱塗りの本堂です。

貞治2年(1363)に再建され、蔀戸で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台敷建築です。文禄年間(1593~1596)に豊臣秀吉によって本堂に現在ある向拝が附設され、1969年に解体修理されました。国の重要文化財に指定されています。境内が非常に狭いため、正面からの写真撮影ができず、こんなアングルになってしまいました。

本堂には国宝の十一面観音立像が安置されていますが、12年に一度辰年のみに御開帳される秘仏です。像高258mの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一本の木から彫り出す一木造だそうです。

 

宝物館

本堂の左横の通路を奥へ進むと宝物館があります。こちらには、当寺を創建した空也上人立像を始め、教科書にも掲載されるような宝物が展示されています。

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空也上人立像(重要文化財

写真:六波羅蜜寺パンフレットより転載

鎌倉時代前期の運慶の四男康勝の作。空也上人が「南無阿弥陀仏」と唱えると、その一音一音(南・無・阿・弥・陀・仏)が阿弥陀仏になったという伝説を彫刻にしています。口から仏様が出ている空也上人立像の写真を歴史の教科書で見た時の衝撃は今でも忘れられません(笑) 胸に金鼓、右手に撞木、左手に鹿の角のついた杖を持ち、膝を露わにし、布教のために履きこんだ草履で大地をしっかり踏みしめ、痩せてはいるものの民衆と共に生活した空也上人は、布教だけでなく、橋を架けたり井戸を掘るなど「市聖(いちのひじり)」と呼ばれ民衆から慕われました。それまで貴族階級の独占物であった仏教を、念仏を通じて本当の意味で市民仏教へと発展させた空也上人の信念が感じられる力強い作品だと感じました。

 

 

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平清盛坐像(重要文化財

写真:六波羅蜜寺パンフレットより転載

こちらも歴史の教科書などで一度は目にした人も多いのではないでしょうか。

ゆったりとした衣を身にまとった僧侶姿で、少し上目遣いにこちらを見ている表情は、見ている私たちに向かって、今にも清盛が話しかけてきそうなリアルさがあります。

平家一門の武運長久を祈願し、朱の中へ血を点じて写経をした頃の太政大臣浄海入道清盛公の像です。経巻を手にしたその姿は平家物語に描かれている清盛の傲慢さではなく、仏者としての気品が感じられます。

平家物語」は、平家が敗れ、源氏の世となってから成立した物語なので、平家の受領として源氏と争った清盛が悪役として描かれていますが、実際の清盛は、京都に拠点を置き、都の貴族たちともきちんと文化的な交流をしなければなりませんでした。おのずと上流階級の人々を渡り合う気品も備えていたことは想像に難くありません。

 

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写真:六波羅蜜寺パンフレットより転載

宝物館には、上記の他、平安時代、定朝作の地蔵菩薩立像(重要文化財)や、鎌倉時代に我が国の彫刻界の黄金期を築いた運慶・湛慶父子の坐像、運慶作の地蔵菩薩坐像など木造彫刻を代表する名宝が数多く安置され、間近に見ることが出来ます。

 

銭洗い弁財天

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宝物館を出て、再び本堂の前に出ると写真のような立て札があります。

六波羅蜜寺は「都七福神」の巡礼札所の一つとして弁財天が祀られています。

先ほどの弁財天堂の他に、もう一つお堂があります。

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それが銭洗い弁財天です。本堂脇のこのお堂内は撮影禁止となっているので、外観のみ撮影しました。銭洗い弁財天、水掛不動尊水子地蔵尊が安置されています。

銭洗い弁財天では、ざるの中に銭を入れ、洗います。洗い清めた銭は貯えておき、授与所で「金運御守」にしていただき、清めた銭はその中へ入れることの繰り返しで銭が貯まるのだそうです。

 

開運推命おみくじ

このおみくじは「四柱推命」をもとにした占いで、生年月日と性別から一年の運勢を占うというものです。13歳以上88歳未満の人が対象ということで、「生活の指針になった」「災難を逃れることが出来た」など、よく当たると評判で毎年お求めになる人もたくさんおられるそうです。初めての方や郵送でお求めの人も理解できるように、解説書もついているそうです。このおみくじのことは後で調べて知ったので、次回訪れた際には是非買い求めたいと思いました。

 

 

時の権力者の盛衰を見守った六波羅蜜寺

六波羅蜜寺のあった辺りは、冒頭でも触れた鳥辺野に続く葬送地でした。多くはほとんど遺棄に近いかたちで埋葬され、頭蓋骨が露出して辺りに散乱し、いつしか人々はそこを「どくろはら(髑髏原)」と呼ぶようになりました。それは「ろくはら」と訛って六波羅の字があてられ、地名になったと言われています。もとよりこれは音のこじつけで、六波羅とは仏教用語で、正しくは六波羅蜜すなわちよりよい仏教的結末を導くための六つの行い(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知慧)のことです。そういう意味では髑髏原という人の死に結び付けた理解もあながち間違っていないことになります。

そして六波羅蜜寺がある地の町名も「轆轤町(ろくろちょう)」で、これも髑髏(どくろ)の訛ったものだそうです。

六波羅蜜寺の周辺は最盛期には5200余りもの平家一族の居住区でした。なぜ、寺院や墓地が並ぶ六波羅の地に、平家は一大居住区を設けることが出来たのでしょうか。

それは、穢れを極端に忌避した当時の皇族・貴族階級にとって、死や死後世界に密着する場所に暮らすのはもってのほかでしたが、新興階級の武士たちはそのような習わしから自由であったことや、東山を越えて伊賀・伊勢という平家の出身地へ行くのに便利な場所だったからではないかと言われています。

その後この六波羅には鎌倉幕府により、六波羅探題が置かれました。当時、朝廷では平清盛の縁者が天皇となっており、平家と朝廷の繋がりを警戒した幕府が六波羅探題を置くことで、朝廷の監視や洛中の警護、西国支配の拠点としていたのです。

このように、六波羅の地はもとは葬送の地、死の世界への入口として都の果てで忌み嫌われていたがゆえに、新興勢力の平家の拠点となり、その後源氏による鎌倉幕府からは朝廷や都を監視する拠点とされるなど、時の権力者によりさまざまな意味づけをされてきました。幾度もの戦乱や火災に遭いながらも本堂はそれらの災禍をくぐりぬけ、南北朝時代の建物を当時と同じ都の近くにとどめ、貴重な文化財を多数有しているのは非常に稀有なことだそうです。それこそが、この寺の様々な力の源となり、多くの人々にとってのパワースポットとして親しまれる理由なのではないかと感じました。

建仁寺を始め、清水寺高台寺、八坂神社なども徒歩圏内ですので、是非合わせて足をお運びください。

 

 

周辺の寺社は下記ブログでもご紹介しています。

 

京都最古の禅寺建仁寺

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建仁寺塔頭両足院↓

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祇園のシンボル八坂神社↓

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両足院 ②2022年新春特別公開 ~庭園や襖絵など  

f:id:yomurashamroch:20220118163251j:plain京都を代表する花街 祇園 花見小路の南端に位置する建仁寺は、国宝 風神雷神図屏風や法堂の天井を彩る「双竜図」などで有名ですが、この建仁寺塔頭寺院である両足院は通常非公開ですが、新春と初夏などに特別公開で庭園や襖絵などが楽しめます。

今回は冬でも見ごたえのある池泉回遊式庭園や襖絵などをご紹介します。

2022年の新春特別公開はすでに終了しています。ご了承ください。

 

両足院の場所

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両足院の行き方

電車で

 ・京阪「祇園四条」駅下車 東へ信号二つ目、花見小路南へ突き当り徒歩7分

 ・阪急「京都河原町」駅下車 徒歩10分

 

市バスで

 JR京都駅より市バス 206系統、100系統

 ・「四条京阪」下車 大和大路通を南へ5分

 ・「東山安井」下車 安井通を西へ徒歩2~3分

 ・「南座前」下車 徒歩10分

 ・「祇園」下車 徒歩10分

 

建仁寺への行き方は以下で詳しくご紹介しています↓

www.yomurashamrock.me

 

 

今回のスタートは建仁寺の北門です。

前回のブログ「両足院①毘沙門天堂~虎が護る祇園のパワースポット」でも建仁寺の北門からの行き方をご紹介していますが、再掲します。

 

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建仁寺祇園 花見小路の南端にあります。

さっそく中へ入って行きます。

 

 

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観光客で賑わう花見小路から一変、京都最古の禅寺らしい凛とした空気が漂います。

道なりに右へ曲がります。

 

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先ほどの道を右へ曲がると左前方に鐘楼があります。この鐘楼の前を左へ曲がります。

 

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両足院の新春特別公開の案内板です。「虎みくじなくなりました」とあります。松尾大社の虎みくじも売り切れでしたが、ここでも虎みくじが人気のようです。

 

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案内板に従って進むと、前方左手が両足院の塀です。正面の石畳の小道を進みます。

 

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小道を10m余り進むともう両足院の入口です。門前に「毘沙門天王」の石碑があります。

 

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境内を入るとすぐ左手には狛犬ならぬ狛虎が護る毘沙門天堂が。よく見ると香炉や灯篭などにも虎がいますので、探してみてください。

何故毘沙門天堂を虎が護っているかについては、前回のブログをご参照ください。↓

www.yomurashamrock.me

 

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手水舎の横には、寅年にちなんで虎の絵の絵馬が鈴なりに。毘沙門天は勝利の神として、商売繁盛、合格祈願、誓願成就の他、祇園の芸妓、舞妓が「良い旦那さんが見つかりますように」などとお参りしたことから「祇園の縁結び」として良縁成就のご利益もあると言われています。

 

この手水舎の右横の階段を上ると、新春特別公開の受付があります。

写真を撮り忘れましたが、特別公開の受付のほか、御朱印や絵馬、お守り、おみくじ、お札などもこちらで授けていただけます。

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虎年にちなんだ虎の絵の絵馬です。

 

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受付を済ませたら、右奥に進み、靴を脱いで上がります。

 

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靴箱の横の小さなスペースにも枯山水の坪庭が。

 

両足院とは

両足院は、室町時代の1358年に龍山徳見(りゅうざんとっけん)により開山された臨済宗建仁寺派塔頭寺院です。

建仁寺京都五山の第三位に列せられ、京都最古の禅寺としても有名な名刹で、両足院はその塔頭寺院の一つです。

両足院は当初は「知足院」という名でしたが、1536年の火災で焼失し、再建にあたって現在の両足院と改称しました。

両足院は、室町時代中期まで「五山文学」の最高峰の寺院であり、江戸時代に入っても当院の住持が五山の中で学徳抜群の高層に与えられ最高の名誉とされる「硯学禄」を授与されるなど、「建仁寺の学問面」(建仁寺から詩文芸術に秀でた禅僧を多数輩出したことから、京都の人にこう呼ばれた)の中核を担いました。

また、天正年間から幕末までの間に長崎の対馬にあった、朝鮮との通交の要所寺院であった「以酊庵」に当院の住持が輪住したこともありました。以酊庵に輪住する和尚は、外交文書の交信、朝鮮通信使の応接など、五山の代表として、いわば外交官のような重要な役職を務めました。

また、両足院は「饅頭始祖の寺」としても有名です。開山の龍山徳見の弟子のひとりである中国の僧林浄因が、龍山和尚が修行した中国からともに来日し、両足院で「饅頭」の文化を日本に伝えたと言われています。

 

それではさっそく入っていきましょう。

閼伽井庭

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方丈と庫裏の間の中庭です。閼伽(仏前に供える水)を汲む井戸とその水を受ける水鉢がこの庭の象徴です。三尊石(写真左手)が中心にあり、その奥に前述の水鉢と灯篭を配しています。

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写真がうまく撮れていなかったのですがこの写真の左下あたりに水鉢と灯篭があります。小さいながら趣きのある石庭です。

 

方丈前庭

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方丈の前庭です。桃山時代に作庭されたそうです。

 

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苔地に松や石組みを配した枯山水庭園が、方丈の建物を取り囲むように続いています。手前の石組は豪快で力強さを感じます。

 

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更に奥へ進むと写真左に見える門の向こうは大書院前庭へと続きます。

 

大書院前庭

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先ほどの門を抜けると大書院の前庭です。こちらは江戸時代の作庭で、京都府の名勝庭園にも指定されている池泉回遊式庭園です。

 

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写真左手が先ほど通った方丈、正面が大書院です。

 

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池の北側には織田信長の弟織田有楽斎好みの如庵の写し「水月亭」、その右には六帖席の「臨池亭」が並びます。

水月亭は明治末期に大村家により寄進されました。臨池亭は高台寺にあった木村家の別荘の茶室を昭和元年に移築されました。

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大書院側から前庭を眺めると池が羽を広げた鶴のように見えます。

 

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飛び石沿いに池の周りを回遊すると一足ごとに見える景色の移り変わりが楽しめます。

 

 

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池の反対側から大書院を眺めます。池の水面に大書院が映り込んでいます。

 

雪舟天谿画伯筆 方丈襖絵32面

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今回の新春特別公開では方丈の襖絵も見どころでしたが、撮影不可だったため看板の写真から拝借しました。雪舟天谿(せっしゅうてんけい)画伯筆『方丈襖絵32面』です。この襖絵は、墨と水を使って仏の示す幽玄な世界を描いた『道釈画』と言われるものです。2014年に建仁寺開山 栄西禅師800年遠忌を記念し、5年の歳月をかけて制作されたそうです。

雪舟と言えば、室町時代水墨画家 雪舟等楊(せっしゅうとうよう)が有名ですね。雪舟は京都の相国寺に籍を置いた禅僧です。48歳で明に渡り、水墨画を学び、大陸の大自然を描きました。一方現代に生きる雪舟天谿画伯も2006年に48歳で雪舟が学んだ中国・禅宗五山の一つ『天童寺』に渡ります。「雪舟の再来」と称えられ、雪舟と同じ『天童第一座』の称号を授与され、2019年には相国寺の有馬頼底管長から『雪舟』の号を与えられました。道釈画の伝統を受け継ぎ、厳粛な精神世界を求める一方で、天谿画伯は道釈画の新しい表現にも挑戦しています。

天谿画伯は大学時代に油絵を専攻し、シュールレアリズムを学びました。特に影響を受けたのが、サルバドール・ダリの「ダブルイメージ」という手法です。これは一つのものを二つに見立てる、いわば「隠し絵」です。上記写真の奥に見えるのが「拈華微笑(ねんげみしょう)」という禅の起源を表した場面です。中央に座す釈迦が、大衆に向かって金波羅華(こんぱらげ)という花を高くかざして静かに示されました。この時大衆はその意味がわからずざわめきましたが、一番弟子の摩訶迦葉(まかかしょう)だけが真意を知って微笑したという場面です。以心伝心で法を体得する、禅の根本思想の一つです。この思想を絵画で表現するために、群衆の中の摩訶迦葉を「いるのだけれどいない存在」「いないけれどもいる存在」として、いわば隠し絵的に描いています。この襖絵を見て摩訶迦葉がわかれば摩訶迦葉と同じ、わからなければ群衆のひとりということを体験してほしいという意図がこめられているのです。

言葉を超えた仏の教えを画で伝える、という深い意図が分からなくても、繊細かつ大胆でのびやかな線で描かれた水墨画の数々は、従来のイメージを超えて、たおやかに、勇壮に、また時にユーモラスに現代を生きる私たちに訴えかけるものがあると感じました。

 

両足院では新春以外にも初夏の半夏生の美しい季節や春や秋などに特別公開を行っていますので、機会があれば是非、四季折々に美しい庭園や、時代を超えて見ごたえ充分な襖絵で禅の世界を堪能してみてはいかがでしょうか。

 

特別公開の日程は、両足院の公式サイトからご確認ください。

www.ryosokuin.com

両足院 ①毘沙門天堂 ~虎が護る祇園のパワースポット

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京都を代表する花街 祇園 花見小路の南端に位置する建仁寺は、国宝 風神雷神図屏風や法堂の天井を彩る「双竜図」などで有名ですが、この建仁寺塔頭寺院である両足院の境内に毘沙門天をまつるお堂があります。寅年にちなみ、毘沙門天の使い 虎のモチーフが境内のあちこちで見られるという両足院をご紹介します。

 

 

両足院の場所

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両足院の行き方

電車で

 ・京阪「祇園四条」駅下車 東へ信号二つ目、花見小路南へ突き当り徒歩7分

 ・阪急「京都河原町」駅下車 徒歩10分

 

市バスで

 JR京都駅より市バス 206系統、100系統

 ・「四条京阪」下車 大和大路通を南へ5分

 ・「東山安井」下車 安井通を西へ徒歩2~3分

 ・「南座前」下車 徒歩10分

 ・「祇園」下車 徒歩10分

 

建仁寺への行き方は以下で詳しくご紹介しています↓

www.yomurashamrock.me

 

今回のスタートは建仁寺の北門です。

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建仁寺祇園 花見小路の南端にあります。

さっそく中へ入って行きます。

 

 

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観光客で賑わう花見小路から一変、京都最古の禅寺らしい凛とした空気が漂います。

道なりに右へ曲がります。

 

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先ほどの道を右へ曲がると左前方に鐘楼があります。この鐘楼の前を左へ曲がります。

 

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両足院の新春特別公開の案内板です。「虎みくじなくなりました」とあります。松尾大社の虎みくじも売り切れでしたが、ここでも虎みくじが人気のようです。

 

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案内板に従って進むと、前方左手が両足院の塀です。正面の石畳の小道を進みます。

 

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小道を10m余り進むともう両足院の入口です。門前に「毘沙門天王」の石碑があります。

 

毘沙門天堂を護る虎たち

 

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こじんまりとした山門を入るとすぐ左手にあるのが「毘沙門天堂」です。

毘沙門天とは、仏道を歩む修行僧を守護する神の一人です。両足院の毘沙門天像は、鞍馬寺でお祀りされている毘沙門天像の内から出てきた胎内仏と呼ばれる仏像です。

戦国時代 比叡山織田信長によって焼き討ちにあった際、鞍馬の僧が尊像の安全を危惧し、疎開させたそうです。

黒田長政がこの尊像を内兜に収めて関ケ原の合戦で活躍し勝利を収めたと言われており、そのあと尊像は代々黒田家に信仰されましたが、明治維新で両足院に寄進されました。

それ以降、勝利の神として商売繫盛、合格祈願、誓願成就の他、戦前は祇園の芸妓、舞妓が「芸事が上達しますように」「良い旦那さんが見つかりますように」などとお参りしたことから「祇園の縁結び」として良縁成就のご利益があるとも言われています。

 

両足院は通常非公開ですが、毘沙門天堂は年中参拝することが出来ます。新春特別公開(1月1日~16日)では、お堂の扉を開放し、間近に毘沙門天像を参拝できます。機会があれば、勝利の神 毘沙門天像の力強い堂々としたお姿を拝んでみてください。

 

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ところで、毘沙門天堂を守護する狛犬ならぬ狛虎は、狛犬同様、右手には口を開いた「阿(あ)」、左手には口を閉じた「吽(うん)」の像になります。きりりとした表情に堂々とした姿の虎ですね。

 

なぜ、両足院の毘沙門天堂では狛犬ではなく狛虎が護っているかというと、これには諸説あるようです。

一つは信貴山朝護孫子寺(しぎさんちょうごそんしじ)~全国の毘沙門天を祀る社の総本山~にまつわる言い伝え。聖徳太子が朝敵物部守屋を討伐する際に、寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻に毘沙門天信貴山に出現し、必勝の秘法を授けてくれたことから、聖徳太子はこの山に毘沙門天を本尊として朝護孫子寺を創建し、虎は毘沙門天のお使いとされているという説。

もう一つは、鞍馬寺の開祖 鑑禎上人が霊夢で白馬に導かれて鞍馬山に登り、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられたのが寅の月、寅の日、寅の刻だったので、鑑禎上人は草庵を結び、毘沙門天を祀ったとされる説。そして寅にちなんで、鞍馬寺の仁王門や本殿金堂の前には神使として対の虎の像があります。

 

このような言い伝えから、虎は毘沙門天のお使いとされ、毘沙門天を祀る寺社には虎もお祀りされていることが多いようです。

 

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ちなみに百足(ムカデ)も古くから毘沙門天のお使いとされていて、先の朝護孫子寺の本堂の扁額などにもムカデが描かれているそうです。両足院毘沙門天堂の手水舎に掲げられた提灯にもムカデが!

これは「たくさんの足(百足)のうち、たった一足の歩調や歩く方向が違っても前に進むのに支障が出る。困難や問題に向かうには皆が心を一つにして当たるように」という仏教の教えに基づいていると言われているそうです。

 

再び虎にもどります。写真撮影はできなかったのですが、毘沙門天堂に安置されている毘沙門天像の前にも、ユーモラスな表情の虎の像が二体鎮座していました。大きな目にちょっとシナっとした体つきが、なぜかディズニーのキャラクターを思い浮かべたのは私だけでしょうか…?

 

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香炉の左右にも阿吽の虎が。すべり落ちないように必死でしがみついているように見え、思わず笑ってしまいました。そしてちょっとわかりにくいですが、この香炉の手前にも百足の彫刻が施されています。

 

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よーく見ると、灯篭の装飾にも虎のレリーフが。これはトラというより白虎という説もあるようです。白虎は虎という字を使いますが、中国の伝説上の神獣で、西方を守護しています。松尾大社の今年の大絵馬にも描いてありましたね。

 

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虎の絵の絵馬が鈴なりになっていて、参拝者の願いの強さを感じました。

その他、可愛らしい虎みくじや虎の絵の入った御朱印、お守りなどは「両足院オンラインお授け所」のサイトからも購入できます。

https://ryosokuin.myshopify.com/

 

 

虎は毘沙門天の使いとして一晩で千里を走ると言われ、毘沙門天の代わりに人々の願いを聞いて回るそうです。

また、毘沙門天を祀る寺院の縁日は寅の日で、よく願い事が叶う日であり、寅の年の寅の日は最強だそうです。寅の日に毘沙門天を祀る寺院にお参りすれば、寅の日詣でと言って、とても大きな力が頂けるのだそうです。

 

そして私がこの両足院毘沙門天堂をお参りしたのが、なんと寅年の寅の日でした。天気が良かったのでたまたま伺ったのですが、後で調べたら最強の日だということで、今年はきっと良い一年になりそうな予感がします。

 

両足院の毘沙門天堂は広い建仁寺の中でもこじんまりとして、拝観料も無料でお参りできます。

周辺には花見小路、八坂神社や高台寺、安井金毘羅宮なども徒歩圏内にありますので、寅年の運気アップも兼ねて足を運んでみてはいかがでしょうか。

 

次回は両足院の歴史や冬でも美しい庭園、方丈襖絵などの新春特別公開等をご紹介します。

 

 

 

近くの八坂神社についてはこちらで詳しくご紹介しています。↓

www.yomurashamrock.me

 

 

 

松尾大社 ~京の西を守る白虎の社

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2022年の干支は「壬寅(みずのえとら)」~厳しい冬を越えて、芽吹き始め、新しい成長の礎となるイメージの年だそうです。

一方、京の都においては、方角を司る四神である北の玄武、東の蒼龍、南の朱雀、西の白虎が守護する「四神相応の地」として平安京が造られました。そして、京都の西に位置する松尾大社では「白虎」が都を守護しています。

毎年松尾大社では新年にその年の干支にちなんだ大絵馬が拝殿に掲げられます。今年は松尾大社のシンボルでもある白虎がデザインされた大絵馬です。

2年にわたり様々なことが停滞した厳しいコロナ禍を越えて、京都と言わず世界中の新しい成長の礎が築かれることを願い、松尾大社へお参りしてきました。

今回は初詣の混雑を避けるため、12月末に伺いました。

 

 

松尾大社の場所

goo.gl

 

松尾大社の行き方

阪急電車松尾大社」駅下車

JR京都駅→(地下鉄)→四条烏丸→(阪急京都線)→桂→(阪急嵐山線)→松尾大社

所要時間:京都駅から約40分

 

●市バス「松尾大社前」バス停下車

JR京都駅→(市バス 嵐山大覚寺行き)→松尾大社

JR京都駅→(京都バス 苔寺行き)→松尾大社

所要時間:京都駅から約40分

 

 

今回のスタートは阪急「松尾大社駅」です。

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改札を出て左手が松尾大社です。

 

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交差点の向こうに立派な朱色の一の鳥居が見えます。

 

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一の鳥居の右横にある二つのオブジェは、お酒を入れる容器「瓶子(へいし)」をモチーフとして、「お酒の神様」である松尾大社に捧げられたものだそうです。

 

松尾大社の歴史とご祭神

松尾大社本殿の背後にある松尾山は、太古の昔から、山頂近くに「磐座(いわくら)」と呼ばれる、神が降臨するという岩があり、この地に住む人々が山の神として崇め、信仰してきました。大宝元年(701年)、京都盆地の西一帯を支配していた秦氏が「磐座」の神霊を勧請し、現在の本殿の場所に社殿を建立したとされています。その後も秦氏(はたうじ)により氏神として奉斎され、平安遷都後は東の賀茂神社賀茂別雷神社上賀茂神社賀茂御祖神社下鴨神社)とともに「東の 厳神、西の猛霊」と並び称され、西の王城鎮護社に位置づけられたました。中世以降は酒の神としても信仰され、現在においても醸造家からの信仰の篤い神社です。
御祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)です。大山咋神は、古事記によると山の上部に鎮座されて、山及び山麓一体を支配される神であり、近江の国の比叡山と松尾山を支配される神であったと伝えられます。一方、市杵島姫命は、中津島姫命(なかつしまひめのみこと)の別名で、古事記の記述によると、福岡県の宗像大社に祀られる三女神の一神として古くから海上守護の霊徳を仰がれた神です。おそらく外来民族である秦氏朝鮮半島と交易する関係から、航海の安全を祈って古くから同社に勧請されたと伝えられています。

 

さっそく中へ入って行きましょう。

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年末の参道ですが、私と同様に混雑を避けて訪れる参拝者もそれなりにおられました。

 

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ピンぼけの写真ですいません。ジュウガツザクラだと思います。秋から冬にかけて開花する、淡紅色で半八重咲きの桜です。ソメイヨシノなどと比べると派手さは無いですが、色味の少ない秋冬に見かけるとほっとする花ですね。

 

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参道を100mほど進むと二の鳥居(赤鳥居)です。鳥居の上部に榊の小枝を束ねたものがたくさん垂れ下がっています。これを「脇勧請」と言います。穢れ(けがれ)を祓う力があると言われる榊を、原始の神社では境内の大木に吊り下げることによって、神域と人の結界としていて、それが鳥居の始まりと言われています。

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榊の束は12個(閏年は13個)。榊の枯れ方によって月々の農作物の出来具合を占ったそうです。榊が完全に枯れると豊作で、一部が枯れ残ると不作。太古の風習を松尾大社ではそのまま伝えていると言われています。

 

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楼門です。

左右に随神を配置したこの楼門は江戸時代初期の作と言われており、屋根は入母屋造檜皮葺です。高さ約11メートルで大規模なもので、華美な装飾はなく和様系で古式の楼門です。

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楼門の左右に随神が安置されています。随身とは、平安時代、貴族の外出時に護衛のために随従した近衛府の官人で、神社においては神を守る者として安置される随身姿の像のことを随神と言います。この随神の座っている椅子?にご注目!黒い着物の随神の椅子はヒョウの顔、赤い着物の随神の椅子はトラの顔になっています。もともとトラとヒョウだったのか、寅年にちなんでなのかはわかりませんが、見つけてちょっと嬉しくなりました。

 

楼門をくぐり中へ入っていきます。

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境内を流れる用水路にかかる石橋を渡ります。

 

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手水舎です。

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手水舎に控えているのは龍が一般的かと思いますが、松尾大社では亀の役目です。

なかなかユーモラスな顔つきの亀です。

 

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「撫で亀さん」です。古来「亀」と「鯉」は松尾大神のお使いと伝えられており、中でも「亀」は健康長寿のシンボルとして親しまれてきました。賽銭箱の左に見える白い物体が「撫で亀さん」で、本来は直接この亀に手を触れて、その霊威にあやかってご利益を受けるものなのですが、現在は感染防止のため、このような姿となっています。

 

撫で亀さんの横の石段を登ると、目の前に拝殿があります。

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この大絵馬は、京都の版画家 故井堂雅夫氏の原画を元に作成された高さ3.2m、横幅5.5m、暑さ15センチ、総重量90kg余の京都で唯一の超大型絵馬で、昭和58年(1983)の新年以降毎年掲げられている伝統あるものだそうです。今年は3月末まで掲げられます。

今年の絵馬は、縁起の良い松・竹・梅に囲まれている「白虎」が、その前にある神亀が持つ寿の文字が描かれた漆塗りの酒杯を覗き込んでいる絵柄です。

神亀は、先ほどの撫で亀と同様、酒の神と言われる松尾大神のお使いで、境内にある霊亀の滝と、その前方にある亀の井を象徴するもので、また後程ご紹介します。

 

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拝殿の横には「樽うらない」があります。おもちゃの弓矢で樽を狙い打って運試しです。樽の真ん中には穴が開いていて鉄板が貼ってあるので、命中すると大きな音が出ます。新春の運だめしをしてみるのも楽しいかもしれないですね。

 

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樽うらないの横には社務所があり、樽うらないの受付はもちろん、お札やお守り、おみくじなどを授与していただけます。

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寅年にちなんだ置物が並びます。

 

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このブログの最初にもお伝えしたように、京都の西の守護神である白虎ゆかりの松尾大社では「白虎みくじ」が可愛いと、数年前から人気です。私が訪れた時は売り切れでしたが、年明けから販売予定とのことです。

 

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社務所や樽うらないの奥にある神輿庫前にはたくさんの奉納酒樽がずらり。京都はもとより全国のお酒が集まります。松尾大社を創建した秦氏は、この周辺の土地の開拓だけでなく、農業など各種産業にも従事し、その生業のひとつが「酒造り」などの醸造です。ご祭神の大山咋神(おおやまぐいのかみ)は「醸造祖神」として崇められ、平安時代以来、お酒をはじめ味噌や醤油、お酢など醸造に関わる方から篤く信仰されています。

 

神輿庫前の酒樽を見た後は、拝殿の向こうの本殿前を北へ進みます。

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初詣に向けた準備が境内各所で進んでいました。

 



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篝火(かがりび)の奥の西側に、「松風苑 神像館入口」があります。

本殿と客殿の間をつなぐ渡り廊下の下をくぐって奥へ進みます。

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渡り廊下をくぐった先に「神泉 亀の井」があります。西山から湧き出るこの霊水はとりわけ酒造りに霊験あらたかと言われています。

 

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酒造家は、「この霊泉の水を酒の元水として造り水に混和して用いると腐敗しない」と言い、延命長寿、よみがえりの水としても有名です。茶道、書道の用水として活用したり、飲用として地元の方たちが汲みに来られたりしています。

亀の井の奥の坂を上へあがっていくと、「霊亀の滝」があります。

 

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小さな滝ですが、澄んだ空気が感じられます。滝の手前の鳥居には「滝御前」と記されています。ご祭神は罔象女神(みずはのめかみ)で、万物生成を司る水神だそうです。

滝の左側に天狗の横顔にように見える「天狗岩」があるそうなのですが、よくわかりませんでした。でも、本当に天狗が出そうな雰囲気です。熱心に滝の写真を撮影されている人もおられました。

 

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霊亀の滝を後にして、また先ほどの渡り廊下をくぐり、本殿横に戻りました。

初詣期間中はお札やお守りなどの売店が手前に設置されわかりにくいですが、篝火の向こうに「神使の庭」として、松尾大神のお使いである亀と鯉の石像があります。松尾大社では、大神様が太古、山城丹波の国を拓くため保津川を遡られる時、急流は鯉、緩やかな流れは亀の背に乗って進まれたと伝えられ、以来亀と鯉は神のお使いとして崇められているそうです。境内にはこの他に「幸運の撫で亀」や「幸運の双鯉」などのパワースポットもあるのですが、現在は感染防止の為、覆いがかかっていました。

 

平安遷都よりはるか昔から、この土地の守護神として地元の人々の崇敬を集めてきた松尾大社。きらびやかさは無いものの、常に人々の暮らしに寄り添い見守ってきた素朴な温かさが感じられました。神のお使いの亀や鯉、京都の西を守る白虎らのパワーをいただくことで、コロナ禍の閉塞感を越えて、新しい年を元気良く迎えたいものですね。

松尾大社は嵐山からも阪急電車で一駅とほど近いので、併せて訪れてみてはいかがでしょうか。

 

松尾大社については、以下のブログでもご紹介しています。

 

阪急嵐山駅から徒歩で松尾大社への行き方↓

www.yomurashamrock.me

 

松尾大社の歴史と概要↓

www.yomurashamrock.me

 

松尾大社の庭園↓

www.yomurashamrock.me

 

松尾大社末社や資料館など↓

www.yomurashamrock.me

 

 

建仁寺 ~名画と庭園に彩られた京都最古の禅寺

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古都京都らしい紅殻格子(べんがらごうし)や犬矢来(いぬやらい)をあしらった趣深い建物が立ち並ぶ、祇園のメインストリート 花見小路。この花見小路の南のスタート地点が建仁寺です。というのも、もともとこの通りは建仁寺の敷地だったそうです。そこから一歩建仁寺に入ると、禅寺らしい凛とした静謐な空気がたちこめます。

今回は京都一の繁華街 祇園に隣接する名刹建仁寺をご紹介します。

 

 

建仁寺の場所

goo.gl

 

建仁寺の行き方

電車で

 ・京阪電鉄祇園四条駅」より徒歩7分

 ・阪急電鉄「京都河原町駅」より徒歩10分

 

バスで

 ・JR京都駅より 市バス206系統、100系統

   「東山安井」より徒歩5分

   「南座前」より徒歩7分

   「祇園」より徒歩10分

   「清水道」より徒歩10分

 

今回のスタートは阪急「京都河原町駅」です。

前回ご紹介した八坂神社への道と途中まで道順は同じですが再掲します。

八坂神社の記事をお読みになった方は、適当に読み飛ばしてください。

 

八坂神社への行き方やご紹介はこちら↓

www.yomurashamrock.me

 

 

今回のスタートは、阪急電鉄「京都河原町」駅です。

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東改札口から出てそのまま北(前)へ進みます。

 

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1番出口へ向かいます。

 

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1番出口のうち出口Aでも出口Bでもどちらでも良いのですが、今回私は出口B(右側)から出ました。

 

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階段を上ると四条通木屋町通の交差したところに出ます。四条通りを右(東)へ向かいます。

f:id:yomurashamroch:20211209235114j:plain写真左手が四条通、前方が木屋町通です。木屋町通の信号を東へ渡ります。

 

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60mほど東へ進むと四条大橋です。そのまま東へ進みます。

 

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四条大橋から南側の風景です。少しだけ紅葉が残っています。

写真左端、鴨川の向こうに見えている建物は南座です。

 

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四条大橋を渡り切ると、川端通りです。写真左手に見えているのは京阪電鉄祇園四条」駅へ下りる階段の入口です。川端通りの向こう、信号を渡った先に見えている赤と白の華やかな建物は南座です。

 

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南座の傍らにひっそり立っているのが「阿国歌舞伎発祥地の碑」です。慶長8年(1603)この辺り鴨河原において歌舞伎の始祖出雲の阿国が初めてかぶきおどりを披露したと伝えられているそうです。

 

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阿国歌舞伎発祥の碑」を見た後、川端通りを北へ向かい「にしんそば」の看板の所を東(右)へ曲がります。

 

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四条通に出て少し歩くと、こちらが南座の正面入口です。

南座は江戸時代初期に起源を発し、元和年間に官許されたとされる劇場で、同一の場所で今日まで興行を続けてきたという意味では、日本最古の劇場です。「南座」という名称は、京都のメインストリート四条通の南側に位置しているためです。

 

 

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南座を後にして、四条通を更に東へ向かいます。

 

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南座から80mほど東へ進むとお土産物屋さんと並んでいるのが「仲源寺」というお寺です。

仲源寺は浄土宗に属する寺院で、一般に「目疾地蔵(めやみじぞう)」の名で人々に親しまれています。平安時代の治安2年(1022)仏師定朝が四条橋の東北に地蔵菩薩を祀ったことに由来します。

本尊の地蔵菩薩は、平安時代に鴨川の管理を行う役人が止雨を祈ったところ雨がやんで洪水も治まったことから「雨やみ地蔵」と呼ばれていましたが、次第に「目やみ地蔵」と呼ばれるようになり、参拝すると目の病が治るとされたそうです。

観光客でいつも賑わう町中に、そんな霊験あらたかなお地蔵さんがいらっしゃるのも京都ならではですね。

 

 

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仲源寺から四条通を150mほど東へ進むと、「祇園町南側 花見小路」の石碑が。こちらを南(右)へ入って行きます。

(ちなみに花見小路へ入らずにこのまま四条通を東へ進むと八坂神社に行けます。)

ところで先ほどの石碑に「祇園町南側 花見小路」とありましたが、このあたりのことをよく知らなかったので調べてみました。もともとこの界隈は、八坂神社(明治以前は祇園社祇園感神院と呼ばれていました)の門前町でした。祇園町四条通をはさんで「祇園町北側」と「祇園町南側」という住所になっていて、お茶屋は圧倒的に南側が多いそうです。北側にはもともと近江国膳所藩(現在の滋賀県大津市)の藩邸がありましたが、明治維新でこの屋敷が無くなった跡が花街として発展し、これが現在の祇園町北側の中心となっています。お茶屋が南側に集中した理由は、また後程紹介します。

 

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花見小路に入るとべんがら格子に犬矢来の京都らしい店が立ち並ぶ風情のある風景に変わります。

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べんがら格子は紅殻格子とも書き、酸化鉄を主成分とした赤色の顔料で塗られた千本格子のことです。格子は縦の桟が詰まっていて、横が荒いのが特徴で。中から外はよく見えるのに、外から中は見えにくい、昔ながらの知恵なんですね。

犬矢来は町屋の軒下に緩やかなカーブを描いた薄く削った竹の柵のようなもの。犬を追い払うことを「犬をやらう」と言い、その言葉に漢字を当てて「犬矢来」となったそうです。本来は名前の通り犬のおしっこ除けだそうですが、形がカーブ状になってよじ登りにくいことから泥棒除けや、雨が降った時の雨水の跳ね返りが家の板塀に当たるのを防ぐ効果もあるようで、実用性の高いものです。

べんがら格子も犬矢来も京都らしい町並みを彩る見た目だけでなく、昔の人の知恵が詰まった実用性も兼ね備えたものでした。

 

ところで先ほどご紹介したお茶屋祇園町南側に集中した理由ですが、これにはこれから行く建仁寺にそのカギがありました。

花見小路一帯は建仁寺の敷地でしたが、建仁寺も明治の神仏分離令のあおりを受けて境内の半分近くの土地を政府に納付しました。そして明治政府は、接収した土地を祇園の女紅場(にょこうば;芸妓、舞妓の学校)に払下げ、その土地にお茶屋が集まったというわけです。

花見小路に石畳が敷かれ、電線の地下化が完了したのは平成13年(2001)と、京都の長い歴史の中ではかなり最近のこと。

祇園を形容する際に「昔ながらの風情が感じられる」とか「ノスタルジックな雰囲気」などと言われることがありますが、実はそれだけではありませんでした。祇園町には「昔ながら」の京都だけではなく、明治以降の「新しい京都の街づくり」も詰まっていたのです。

 

 

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花見小路を300mほど南へ進むと建仁寺の北門です。さっそく入って行きましょう。

 

建仁寺とは

建仁寺建仁2年(1202)、将軍源頼家が寺域を寄進し、日本で初めて臨済宗を伝えた栄西を開山として建立されました。その時の元号を寺号とし山号を東山(とうざん)と称し、京都最古の禅寺と言われています。創建時は比叡山延暦寺の力が強大であったため、天台・密教・禅の三宗兼学の道場でしたが、第十一世蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の時から純粋な臨済禅宗の道場となりました。

室町幕府より中国の制度にならい京都五山が制定され、その第三位として厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により荒廃します。

その後天正年間(1573~1592)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿を移築し復興が始まり、徳川幕府の保護のもと制度や学問が整備されます。

建仁寺の学問面(がくもんんづら)」という言葉がありますが、これは詩文芸術に秀でた禅僧を多数輩出し、「五山文学」を作りだしたことから、京都の人からこのように言われているそうです。

明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派として分派独立、建仁寺はその大本山となります。

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北門から一歩入ると、賑やかな花見小路の華やぎとはうって変わった静謐な空気が流れています。禅寺特有の凛とした佇まいです。

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正面左側が有名な双竜図のある法堂ですが、まずは右側の本坊へ向かいます。

 

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本坊です。本坊とは住職の住む所で、その寺の寺務を取り仕切る僧房のことで、庫裏とも言います。京都府指定有形文化財になっています。

こちらから中へ入っていきます。

 

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本坊で受付を済ませ靴を脱いで入ってすぐの所にあるのが国宝「風神雷神図屏風」です。こちらは複製なので写真撮影できました。原本は京都国立博物館に寄託されています。広くとられた余白が広い空間を暗示し、天空を駆ける風神・雷神のダイナミックな動きが感じられます。落款も印章もありませんが、俵屋宗達の晩年の最高傑作とされています。

 

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本坊の中庭にある潮音庭(ちょうおんてい)は、中央に三尊石、その東に座禅石、周りに紅葉を配し、四方向から眺められる枯山水の禅庭です。12月初旬でしたが、まだ紅葉が残っていて、小さいながら京都の秋をぎゅっと閉じ込めたような美しさで、参拝者はみな足を止めて写真を撮ったり、ゆっくり眺めたりして楽しんでいました。

 

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〇△▢乃庭(まるさんかくしかくのにわ)です。単純な三つの図形は宇宙の根源的形態を示し、禅宗の四大思想(地水火風)を象徴したもので、地(▢)は手前の井戸、水(〇)は庭の中心の苔、火(△)は奥の白砂で表しているそうです。現代アートのようで面白いですね。平成18年(2006)に作庭家 北山安夫が作庭しました。

 

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納骨堂と方丈の間は白砂の庭園となっており、飛び石が配されています。燃えるように色づいた紅葉が印象的でした。

 

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方丈の南側に広がる枯山水の庭園「大雄苑(だいおうえん)」です。

白砂に巨石や苔島などを配した庭園は、余分なものを省いた洗練した美しさです。

 

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方丈の西側にも庭園が続いており、苔島や岩が配されています。

 

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写真:建仁寺公式サイトより

方丈の襖には、桃山画壇を代表する巨匠 海北友松により描かれた「建仁寺方丈障壁画 雲龍図」があります。もともとは襖の障壁画でしたが、襖から掛け軸に形を変えて、京都国立博物館で保管されています。現在の方丈にある襖絵は2014年に複製されたものです。筆の軽快さとダイナミックな構図で、今にも龍が襖から飛び出して来そうなほど生き生きと描かれています。

建仁寺は創建当初から、京の中心地にあったため、火災や戦災で何回も焼失と再建を繰り返しながらも、多くの貴重な美術工芸品を有しています。

先にご紹介した国宝「風神雷神図」や重要文化財「障壁画雲竜図」をはじめ、「竹林七賢図」「山水図」など多くの名画(やその複製)が、ガラスケースごしでなく、間近に見ることができ、まるで美術館のようです。

 

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さて本坊、方丈の参拝を終え、次は法堂へ向かいます。参道脇の紅葉が色彩の少ない境内を鮮やかに彩っていました。

 

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現在の法堂は明和2年(1765)に再建された、五間四間・一重・裳階(もこし)付の堂々とした禅宗様仏殿建築です。仏殿(本尊を安置する堂)と法堂(はっとう、講堂にあたる)を兼ねている「粘華堂(ねんげどう)」です。正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像が安置され、天井には平成14年(2002)に、創建800年を記念し小泉淳作「双竜図」が描かれました

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二頭の「阿吽」の龍が絡み合うように描かれたこの天井画は畳108枚もの大きさで、圧巻の迫力です。龍は仏教を守護する八部衆に数えられ「龍神」と言われます。禅寺の本山の多くでは龍が天井に描かれているのは、水を司る神様である龍を描くことで、火災から建物を守るという意味もあるそうです。

 

日本に禅と茶を伝えた栄西禅師

開山の栄西という名は、歴史の教科書では「えいさい」と書いてありましたが、建仁寺の寺伝では「ようさい」と言うそうです。栄西禅師は永治元年(1141)備中(岡山県)に生まれ、14歳で落髪、比叡山天台密教を修め、その後二度 宋へ渡り、日本に禅を伝えました。また、中国から茶種を持ち帰って、日本で栽培することを奨励し、喫茶の法を普及した「茶祖」としても知られています。

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境内には「茶祖」栄西を記念した茶碑が。その後ろには茶の招来800年を記念して平成3年(1991)に作られた茶園があります。

 

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茶碑の奥にあるのが開山堂です。建仁寺開山の栄西禅師の廟所(お墓)です。「千光祖師栄西禅師入定塔」の石碑が手前にあります。写真に写っているのは、二層の立派な楼門です。栄西禅師八百年大遠諱(おんき)の事業として楼門修復工事が行われ、平成25年(2013)1月に完了しました。この楼門がもともと京都の宇多野鳴滝にある建仁寺派妙光寺にあったもので、明治18年(1885)に移築されました。

国宝「風神雷神図屏風」は、もともとこの妙光寺にありましたが、文政12年(1829)、妙光寺六十三世・全室慈保が、本山建仁寺に移るにあたり、この屏風を帯同したとも言われています。以降、この屏風は建仁寺の寺宝として所蔵されてきたのです。

 

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三門(さんもん)です。大正12年(1923)、静岡県浜松市の安寧寺から移築したものです。空門(一切は空と悟る)・無相門(一切の執着を離れる)・無作門(一切の願求の念を捨てる)の三境地を経て、仏国土に至る門・三解脱門のことです。「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼(ぼうけつろう)」と名付けられました

 

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この写真は三門から勅使門方向を撮影したものです。手前両側の松の木の周囲には放生池が広がっています。今回は12月だったので静かな水面が広がるのみでしたが、夏には見事なハスの花が咲き乱れ、さながら極楽浄土のような美しさだそうです。

 

 

 

京都の一大観光スポット祇園にありながら、建仁寺は禅寺らしい凛とした佇まいの寺院でした。ただ古く広いだけでなく、国宝や重要文化財といった美術品の名品の宝庫であり、四季折々の自然の美を堪能できる庭園もいくつもあり、見どころがこれでもかと詰まっていて、雨の日でも十分楽しめます。建仁寺は基本的にどこでも写真撮影が可能です。かつて京都五山の第三位であったという格式高い寺院ですが、素晴らしい名画や庭園の数々をゆっくり楽しんで欲しいというおもてなしの心も随所に感じられる親しみやすさもあります。

周辺には花見小路、八坂神社や高台寺、安井金毘羅宮なども徒歩圏内にありますので、是非一度足をお運びください。

 

 

 

八坂神社についてはこちらで詳しくご紹介しています。↓

www.yomurashamrock.me

 

 

 

 

八坂神社 ~東山に鎮座する京都の守護社

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京都のメインストリートの一つ四条通の東のスタート地点に位置し、京都東山随一の観光地でもある八坂神社は、一年を通して多くの参拝者で賑わっています。

京都人は八坂神社のことを親しみをこめて「祇園さん」や「八坂さん」と呼びます。それは八坂神社が元は「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたからです。花街として知られる祇園の名も、その門前街として栄えたことに由来します。

そして日本三大祭の一つ「祇園祭」も、疫病が鎮まるようにと平安時代に始まった八坂神社の祭礼としてあまりにも有名です。

平安時代から京都を守ってきた八坂神社の歴史と魅力を、八坂神社の奥に広がる「円山公園」とともにご紹介します。

 

 

八坂神社の場所

goo.gl

 

八坂神社の行き方

電車で

 京阪電車祇園四条」駅より徒歩約5分

 阪急電鉄「京都河原町」駅より徒歩約8分

 

バスで

 JR京都駅より市バス100・206番

  「祇園」下車すぐ

 

今回のスタートは、阪急電鉄「京都河原町」駅です。

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東改札口から出てそのまま北(前)へ進みます。

 

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1番出口へ向かいます。

 

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1番出口のうち出口Aでも出口Bでもどちらでも良いのですが、今回私は出口B(右側)から出ました。

 

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階段を上ると四条通木屋町通の交差したところに出ます。四条通りを右(東)へ向かいます。

f:id:yomurashamroch:20211209235114j:plain写真左手が四条通、前方が木屋町通です。木屋町通の信号を東へ渡ります。

 

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60mほど東へ進むと四条大橋です。そのまま東へ進みます。

 

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四条大橋から南側の風景です。少しだけ紅葉が残っています。

写真左端、鴨川の向こうに見えている建物は南座です。

 

南座

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四条大橋を渡り切ると、川端通りです。写真左手に見えているのは京阪電鉄祇園四条」駅へ下りる階段の入口です。川端通りの向こう、信号を渡った先に見えている赤と白の華やかな建物は南座です。

 

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南座の傍らにひっそり立っているのが「阿国歌舞伎発祥地の碑」です。横の立て札によると、慶長8年(1603)この辺り鴨河原において歌舞伎の始祖出雲の阿国が初めてかぶきおどりを披露したと伝えられているそうです。この石碑は昭和28年11月吉例顔見世興行を前に歌舞伎発祥350年を記念して松竹株式会社により建設されたものです。我が国が世界に誇る文化財歌舞伎を日本の至宝として末永く後世に伝えたいという願いがこめられているそうです。

 

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阿国歌舞伎発祥の碑」を見た後、川端通りを北へ向かい「にしんそば」の看板の所を東(右)へ曲がります。

 

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四条通に出て少し歩くと、こちらが南座の正面入口です。

南座は江戸時代初期に起源を発し、元和年間に官許されたとされる劇場で、同一の場所で今日まで興行を続けてきたという意味では、日本最古の劇場です。「南座」という名称は、京都のメインストリート四条通の南側に位置しているためです。

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南座の正面上部には、文字や絵を使って飾った「まねき看板」がずらりと並びます。まねき看板の上部に庵形をつけ、勘亭流(かんていりゅう)文字で俳優の名前を記し、上部をその俳優の紋で飾ります。

今年も12月1日に南座のまねき上げが行われました。総数47枚のまねき看板が南座の正面に掲げられると、一緒に飾られた松や短冊とともに、南座は「吉例顔見世興行」一色となります。まねき上げのニュースを見ると、ああ師走だなあと思う京都人が多いのではないでしょうか。

 

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南座を後にして、四条通を更に東へ向かいます。

 

仲源寺

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南座から80mほど東へ進むとお土産物屋さんと並んで「仲源寺」というお寺がひょっこり現れます。京都はこんな風に商店街の中にも普通にお寺や神社が同居しているんですよね~

仲源寺は浄土宗に属する寺院で、一般に「目疾地蔵(めやみじぞう)」の名で人々に親しまれています。平安時代の治安2年(1022)仏師定朝が四条橋の東北(四条通をはさみ現在地の向かいほどでしょうか?)に地蔵菩薩を祀ったことに由来します。

安貞2年(1228)の鴨川氾濫時に、鴨川の管理を行う防鴨河使(ぼうおうかし)という役人の中原為兼が、河原にあったこの地蔵菩薩に止雨を祈ったところ雨がやんで洪水も治まったことから「雨やみ地蔵」と呼ばれるようになったそうです。そして朝廷から「中原」の名字をもじって「仲源寺」という寺号が下賜されました。本尊の地蔵菩薩は当初「雨やみ地蔵」と呼ばれていましたが、次第に「目やみ地蔵」と呼ばれるようになり、参拝すると目の病が治るとされたそうです。

天正13年(1585)に現在地へと移転しました。

観光客でいつも賑わう町中に、そんな霊験あらたかなお地蔵さんがいらっしゃるのも京都ならではですね。

 

漢字ミュージアム漢検 漢字検定博物館・図書館)

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さて、仲源寺から300mほど四条通を東へ進むと、右手に大きな黒い和風の建物が。

これは漢検 漢字検定博物館・図書館(通称 漢字ミュージアム)です。

漢字をテーマとした日本初の博物館・図書館で2016年6月に京都市立弥栄小学校の跡地にオープンしました。漢字をただ見るだけでなく、触れたり、学んだりできる展示で、世界へ向けて発信し、漢字の普及を目指す施設です。

漢字ミュージアムへは訪れたことは無かったのですが、今回は時間の都合で入館は見送り。また別の機会にゆっくりと訪れたいと思います。

 

漢字ミュージアムまで来れば、もう八坂神社は目の前です。

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四条通の突き当り、信号の先におなじみの八坂神社の西楼門が見えます。四条通から来られる人が多いので、この門が一番有名ですが、実はこちらは正門ではなく、正門は南楼門だそうです。

 

八坂神社とは

八坂神社の創祀には諸説ありますが、社伝によると、一つは斉明天皇2年(656)に高麗より来朝した伊利之(いりし)が新羅国の牛頭山(ごずさん)に座した素戔嗚尊(すさのをのみこと)をこの地の祀ったのが始まりとされます。

また一説には貞観18年(876)、南都(奈良)の僧 円如(えんにょ)がこの地にお堂を建立し、同じ年に天神(祇園神)が東山の麓 祇園林に降り立ったことに始まるとも言われています。

その後元慶元年(877)、疫病流行に際して「東山の小祠」(祇園社)に祈りが捧げられ流行が止んだことが八坂神社の発展の景気とされています。

長徳元年(995)には王城鎮護の社として崇敬された二十一社(のちに二十二社)に数えられました。

 

それでは、この西楼門から八坂神社へ入って行きます。

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石段を登り、西楼門をくぐってすぐ左手にあるのが手水舎です。現在は感染防止のため柄杓の使用を中止しています。

 

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手水舎のすぐ右手、西楼門をくぐった真正面にあるのが疫神社(えきじんじゃ)です。

名前の通り疫病除けの神社です。

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むかし素戔嗚尊(すさのをのみこと)が旅された際、二人の兄弟の神様に宿を請います。弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は裕福でしたが宿を貸さず、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しいながらも粟で手厚くおもてなしをし、それに感激した素戔嗚尊は、後に疫病が流行しても「茅の輪」をつけて「蘇民将来の子孫なり」と言えば災厄から免れると約束されました。以来、疫病退散のご利益のある神様として信仰されています。祇園祭で売られている粽(ちまき)にも疫病退散を願って「蘇民将来之子孫也」と書かれた札が付けられています

 

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疫神社をお参りし、更に境内を右の奥へ向かいます。

 

境内にはたくさんの摂社・末社があります。

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太田神社のご祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)、宇受女命(うずめのみこと)で、ご利益はみちしるべ、芸能です。

 

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北向蛭子社(きたむきえびすしゃ)のご祭神は事代主神(ことしろぬしのかみ)で、俗に「えべっさん」とも称される神様です。商売繁盛のご利益があります。

 

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大国主社(おおくにぬししゃ)のご祭神は大国主神(おおくにぬしのかみ)です。「因幡の白兎」(いなばのしろうさぎ)で知られる神様で「大国さん」と親しまれ、縁結びの神様としても知られています。

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大国主社の前にある因幡の白うさぎの石像にもマスクがかけられていました(笑)

 

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大国主社の向かいが社務所とお札・お守りなどの授与所です。

 

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本殿前にあるのが舞殿(ぶでん)です。祇園祭の際に三基の神輿が奉安されるほか、結婚式や各種奉納行事(舞妓による舞踊等)が行われます。

花街の置屋や付近の料亭から奉納されたたくさんの提灯は、毎夜明かりが灯され幻想的な雰囲気を醸し出しています。

余談ですが、17時以降に閉鎖する神社やお寺が多い京都で、八坂神社は四方に門があり夜間も参拝できる珍しい神社です。

 

 

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本殿に着きました。令和2年(2020)12月に国宝に指定されました。

現在の本殿は承和3年(1654)に徳川四代将軍の家綱が再建したものです。一般の神社では別棟とする本殿と拝殿を一つの入母屋屋根で覆った独特の建築様式を取り「祇園造」と言われています。

祀られているのは素戔嗚尊とその妻 櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、その間に生まれた子どもである八柱御子神(やはしらのみこがみ)の三柱のご祭神です。

 

古から京を守ってきた八坂神社

八坂神社は明治までは牛頭天王(もとはインドの祇園精舎を守護する神様)が祀られていましたが、後に素戔嗚尊と習合され現在は素戔嗚尊を祭神としています。

八坂神社のご利益として牛頭天王が防疫神であることから疫病除け、厄除けのご利益があるとされ、日本三大祭の一つ「祇園祭」も貞観11年(869)に全国で疫病が流行した際に祇園社にお祈りした祇園御霊会が起源とされています。

また夏越の祓の神事で茅の輪をくぐり穢れを払う風習や蘇民将来之子孫也のお札をつけた粽(ちまき)を受け疫病除けとするのも牛頭天王信仰からきており、更に大晦日の夜から元旦にかけて行われる年越しの伝統行事「をけら詣り」で灯される灯篭の火には邪鬼を払う力があるといわれています。

このように八坂神社の祭神 牛頭天王素戔嗚尊は古来より災厄除けの神様として信仰され、京都の町を見守ってきました。

 

京都は、方角を司る「四神」が守護する土地として造営されたため、四神相応といわれます。方角すなわち、東西南北とその要所に鎮座するお社のうち、八坂神社は東を守る青龍をシンボルとしています。

一方、八坂神社にはたくさんの不思議な伝説が伝わっていて、本殿にもその一つがあります。それは、本殿の下に大きな池があり、水脈が平安京の西に位置する神泉苑や南の東寺まで続いているというのです。またその池は大地のエネルギーが集まる場所として、青龍が棲む「龍穴」になっていて、古くから都を守ってきたと言われていたそうです。大地のパワーの面からも、八坂神社は古来より京都を守る存在だったのですね。

 

 

本殿の周りにはそのほかにもたくさんの摂社末社があります。

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悪王子社です。ご祭神は素戔嗚尊です。神様には「和魂(にぎみたま)」と「荒魂(あらみたま)」という魂が存在していると考えられており、本殿に祀る素戔嗚尊の「荒魂」を祀っています。悪王子の「悪」とは「強い力」の意であり、所願成就の御神徳があるそうです。

 

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美御前社(うつくしごぜんしゃ)です。ご祭神は宗像三女神(むなかたさんじょしん)という容姿端麗な3人の美の女神です。舞妓さんや芸妓さんなどの芸能関係をはじめ、美容や化粧品関係の方から篤い崇敬を集めています。

また、社殿前にはご神水が湧き出ており、身も心も美しく磨かれる「美容水」と言われています。飲料水ではないので飲めませんが、美御前社にお参りして、この美容液を肌に2~3滴つけると美のご利益があるそうです。

 

八坂神社にはこのほかにも10以上の摂社・末社があります。それぞれの由緒をたどりながらお参りして歩けば、この上ないご利益があるかもしれませんね。

 

さて、本殿・舞殿の南側には入母屋造の立派な南楼門がそびえています。

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南楼門の建立は明治12年で、国の重要文化財に指定されています。四条通に面した西楼門のほうが有名ですが、南楼門が八坂神社の表参道・正門です。祇園祭の神輿や結婚式の際は必ずこちらの門より出発します。
 
南楼門から更に表へ出ると石鳥居があります。

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こちらも国の重要文化財に指定されていて、建立は正保3年(1646)。鳥居をくぐると南に向けて、高台寺清水寺へと続く道が伸びています。

 

円山公園とは

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八坂神社の境内を巡ったあとには、隣接する円山公園にも足を伸ばしてみてください。

国の名勝にも指定されており、四季折々に美しい自然が楽しめる都会の癒しスポットになっています。

円山公園明治維新までは八坂神社(当時は祇園感神院)や慈円山安養寺、長楽寺、双林寺の境内の一部でした。明治初年の廃仏毀釈の一環として、明治4年(1871)に上知令によって土地が没収され、明治19年(1886)に総面積約9万平方メートルの公園が設けられました。明治20年(1887)には京都市へ移管され京都市初の都市公園となりました。大正元年(1912)に小川治兵衛により池泉回遊式の日本庭園が作庭され、現在の姿になりました。

 

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東山を背に池泉回遊式の日本庭園を中心に、料亭や茶店が点在し、四季を問わず風情があります。京都随一の枝垂桜の名所ですが、12月初旬の園内は枯れ木が並んでいました。

 

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それでもまだ紅葉が残っている木もありました。終わりかけの少しくすんだ紅葉もまた風情があり、見ごたえがありました。

 

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円山公園は、京都の繁華街のすぐそばにありながら、奥に進んでいくと渓谷のような景色が広がり、季節の移ろいを感じさせる美しい景色を楽しめます。日本庭園の奥には坂道があり、道沿いに流れる小川は静かな水音を感じられる癒しのスポットです。奥に進むほど観光客がまばらになり、意外と穴場です。

平安時代から京都の東に鎮座し、京都の町と人々を守ってきた八坂神社。そして隣接する円山公園と合わせて、京都の自然の美しさと歴史の奥深さを感じる絶好のお散歩コースとなっています。周辺には清水寺高台寺知恩院建仁寺など名だたる観光スポットも徒歩圏内にありますので、併せて訪ねてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

秋の嵯峨嵐山 おすすめ紅葉スポット ⑤大悲閣 千光寺

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京都でも有数の紅葉の名所、嵐山。そのランドマーク的存在である渡月橋から保津川沿いを川上へ歩くこと約1キロ。そこには土産物屋や飲食店の立ち並ぶ観光地嵐山とは全く別の世界が広がります。12月に入り、紅葉のピークは過ぎましたが、まだまだ錦秋の名にふさわしい風景が見られるのが大悲閣千光寺です。

今回は、目的地までの行きかえりの道中も素晴らしい風景が楽しめる、超穴場紅葉スポット 千光寺をご紹介します。

 

 

大悲閣 千光寺の場所

goo.gl

 

大悲閣 千光寺の行き方

京福電気鉄道嵐山駅より徒歩19分
JR嵯峨嵐山駅より徒歩27分
阪急嵐山駅より徒歩20分

 

京福嵐山駅から千光寺までの行き方は以下のブログで詳しくご紹介しています↓

www.yomurashamrock.me

 

今回のスタートは嵐山の渡月橋です。

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11月末の嵐山は紅葉のピークで、平日でも観光客でごった返していました。

渡月橋を南へ渡ります。

 

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渡月橋を南へ渡り、渡月小橋も渡って西(右)へ曲がると「大悲閣(千光寺)」の看板があります。そのまま川沿いを西へ進みます。

 

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左手に嵐山モンキーパークの入口があります。

このまま西へ進みます。

 

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保津川にはたくさんのボートが停まっています。緊急事態宣言中は営業休止だったので、カバーが掛かっていましたが、今は営業再開されているので、乗船客を待って川岸で待機しています。

 

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保津川の南側の道から対岸の亀山公園入口付近を眺めると、今まさに見ごろの紅葉が川面に映り、絵画のような美しさです。

 

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左手に小さな滝があります。立て看板によると「戸無瀬の滝」というそうです。

 

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平安時代から多くの和歌に詠まれた滝で、江戸時代には嵐山の名所として「都名所図会」や歌川(安藤)広重の「六十余州名所図会」などにも描かれているそうです。現在は小さい滝ですが、昔は対岸からも見えるほどの大きな滝だったそうです。

その後、江戸時代初めに角倉了以によって行われた保津川の開削工事により、その多くが削り去られたと言われています。

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現在はチョロチョロとしか水が流れていませんが、時代の流れには逆らえないですね。

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更に進むと、水の色が深い碧色になってきました。紅葉とのコントラストがえも言われぬ美しさです。

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また水の青さが変わりました。この辺りを嵐峡と言うのでしょうか。

 

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屋形船が通りかかりました。何とも風流な眺めです。

 

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どこを切り取っても絵になる景色です。

 

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渡月小橋を渡ってから西へ向かい、アップダウンもある道を歩くこと1㎞ほどで、星のや京都の入口に突き当たります。その隣が大悲閣千光寺への参道になります。

 

大悲閣千光寺とは

大悲閣千光寺は、江戸時代の豪商 角倉了以(すみのくらりょうい)が、大堰川を開削する工事で亡くなった人々を弔うために、嵯峨の清凉寺近くにあった千光寺を移転し建立させたものです。源信の作と言われる千手観音菩薩像を本尊としています。境内にある大悲閣は、保津川の切り立った岩肌に建つ観音堂で、嵐峡の絶景を眺めることが出来ます。

 

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ゆるやかに続く石段を登っていきましょう。

 

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つづれ織りの石段が続きます。

 

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千光寺の郵便ポストと掲示板。英語の得意なご住職が英文でも千光寺や仏教についての解説文を書いておられるのでしょうか。コロナ前は日本人より外国人参拝客のほうが多かったそうです。

 

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更に登っていきます。

 

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10分ほど登って行くと千光寺の山門です。拝観料は400円です。

山門の向こうに鐘が見えます。

 

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鐘は一人三回まで無料で撞けます。撞いてみると厳かな音色が山々に響きわたります。

 

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この辺りから見上げると、断崖に張り出したように客殿があります。これが「大悲閣」と呼ばれているものです。

 

さっそく拝観料を払い、崖の上に建つ客殿の中へ入っていきます。

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客殿の中は畳の部屋になっていて、様々な資料が並び、気に入った資料のコピーは自由に持ち帰って良いそうです。そして、客殿の奥には嵐山の絶景が広がっています。

 

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千光寺側のカエデの紅葉は終わりかけていましたが、保津峡と向かい側の小倉山の紅葉はまだ十分楽しめました。遠く霞んでいるのは比叡山で、京都市内が一望できます。

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少し角度を変えて撮影。光の当たり具合で、また違った色合いに見えます。

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再び畳の部屋です。写真下の方に長~いそろばんがあるのが分かりますか?

255桁のそろばんで4m以上あるそうです。白いパネルのようなものに「一十百千万億兆京…」と書いてあるもののすぐ奥です。

 

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窓際に無造作に置かれているのはそろばんで作られた三重塔です。

京都でそろばん関係の物品を製造販売されている方から、先ほどの長~いそろばんと共に寄贈されたそうです。

なぜ、千光寺にそろばんが寄贈されたかと言うと…

江戸時代初期の書物に「塵劫記」という、そろばんの基本的な計算や掛け算、割り算を図入りでわかりやすく解説した本がありました。商業が発展してきたこの時代に、金、銀、銅など貨幣の流通に伴い、商人が計算が速く正確にできるそろばんを欲し学びたがっていたため、この本は大ベストセラーとなりました。

この本の著者吉田光由は、この大悲閣を作った角倉了以の一族で、了以の子 素案に算法統宗を学んだと言われており、角倉一族を祀っているのが大悲閣千光寺なのです。

そんな関係で、この千光寺は「そろばん寺」とも呼ばれており、角倉了以400回忌に先ほどご紹介したそろばんと三重塔が寄贈されたのでした。

 

大悲閣からの眺めを満喫したあと、ご本尊の千手菩薩観音像と、角倉了以像をお参りし、境内にある庵(?)で作業をされていたご住職に少しお話を伺いました。

ご住職は元は天龍寺で修行をされていましたが、この千光寺の元住職ご夫婦が高齢となり跡継ぎもいないということで、知人の紹介により千光寺を継がれたそうです。

気さくなご住職は人気者で、参拝者からしばしば声をかけられていました。私もお話させていただき楽しかったです。ありがとうございました。

 

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看板犬のすみれちゃん。寒くなってきたので、参拝者から暖かい上着?をプレゼントされたそうです。この日も暖を求めて日差しの温かい場所で日向ぼっこしていました。もう13歳(うろ覚え?)のおばあちゃん犬で、目も鼻もだいぶ弱っていてアレルギーもあって、よくくしゃみしてますよ、とご住職に教えていただきました。日向ぼっこしているすみれちゃんを見ていると、それだけで穏やかな気分になり癒されるので、どうか元気で長生きしてほしいと願うばかりです。

 

最後に、受付スタッフの女性の方に、「大悲閣の写真をきれいに撮りたいのですが、どこから撮ったらいいですか?」とお尋ねしました。「住職はよく受付付近から大悲閣越しに奥の小倉山と一緒に写真を撮っていますよ」と教えてくださいました。

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教えてもらったアングルがこちら。

 

 

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同じく受付付近から、大悲閣とは反対側の紅葉。

 

 

千光寺の裏手に大きなイチョウの木があり、遠目に見てもわかるほど黄金色に色づくそうですが、私が訪ねた前日の風でほとんど散ってしまいました。来年こそは、その大イチョウと紅葉のベストタイミングを狙って伺いたいと思います。

 

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帰り道、石段の傍らに小さな観音様を発見。その時は気づかなかったのですが、後で写真をチェックしたら、観音様の横に小さなお地蔵様が。クールな表情の観音様に対して、お地蔵様の笑顔が全力な感じで、その可愛らしさにこちらまで笑顔になりました。

 

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石段を下り、また川沿いの道を渡月橋へ向かって帰ります。

屋形船に遭遇。船からの嵐峡の紅葉も見てみたいですね。

 

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写真奥に見えるのは渡月橋です。

いつもテレビなどで紹介されるのと反対側からの風景も、また違った趣があります。

 

紅葉のピークは過ぎていましたが、途中の保津川沿いの景色も楽しめたお散歩でした。石段や落ち葉もありますので、必ず歩きやすい靴で行かれることをお勧めします。

おなじみの観光地嵐山とは全く違う、素晴らしい眺めを満喫できます。

 

 

嵯峨嵐山周辺には他にもたくさんの紅葉スポットがあります。

以下のブログでご紹介しています。

 

世界遺産 天龍寺

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天龍寺塔頭で庭園が美しい宝厳院↓

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渡月橋の西にある日本画の美術館二館↓

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天龍寺の西にある絶景スポット亀山公園↓

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小倉山のふもとの日本で唯一の髪の神社 御髪神社

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奥嵯峨の竹林に佇む祇王寺

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国宝釈迦如来像を有する名刹 清凉寺釈迦堂↓

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奥嵯峨の紅葉の名所 二尊院

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