京都市 東山に位置する六波羅蜜寺は「六はらさん」と呼ばれる由緒ある寺院です。この辺りは鳥辺野(とりべの)に続く昔からの埋葬地であり、信仰の地でもありました。
約1000年ほど前の平安時代に、京都に流行り病が蔓延したため、空也上人が疫病退散のため、自ら十一面観音立像(国宝)を刻み、西光寺を創建しました。これが現在の六波羅蜜寺にあたります。
清水寺など周辺の寺社と比べ全国的な知名度は高くありませんが、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代とも深くかかわる大変興味深い寺院として、この六波羅蜜寺をご紹介します。
六波羅蜜寺の場所
六波羅蜜寺の行き方
電車で
バスで
今回のスタートは前回ご紹介した「建仁寺」からです。
建仁寺で一番南にある「勅使門」を出ると、八坂通に出るので、左(東)へ向かいます。余談ですが、この「勅使門」は平教盛(平清盛の異母弟)の館門を移築したものと伝えられています。
こちらが八坂通で、進行方向右手に「ホテル ザ セレスティン 京都祇園」が見えていますのでそちらを目指して進みます。
ホテル ザ セレスティン京都祇園の入口です。京都の伝統を映した入母屋屋根と現代建築を調和させ、京都産の杉をふんだんに用いたシックな外観です。
このホテルの向こうを右(南)へ曲がります。
曲がり角にある電柱に、「→六波羅蜜寺」という案内板が出ていました。右へ曲がります。
曲がったところです。道なりに南へ120mほど進みます。
松原通に出るので、右(西)へ曲がります。
松原通に出るとすぐ左(南)へ曲がりますが、ちょっと寄り道…
六道の辻と幽霊子育飴
先ほどの曲がり角の反対側、松原通に面して「幽霊子育飴」という看板のお店が。
この辺りは「六道の辻」と呼ばれています。六道とは一切の人間が辿ることになる六種の世界、地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道のことで、この死後世界への境目という意味でこの辺りを六道の辻というそうです。今回は訪ねていませんが、先ほどの松原通を東へ向かうと六道珍皇寺があり、ここは古くから葬送地鳥辺野に近く、現世と来世を分ける地と認識されていました。平安時代に小野篁(おののたかむら)はこの六道珍皇寺の井戸を通って冥界と往復したと言われているのもそんな土地だからです。
さて、その六道の辻にある「幽霊子育飴」のお店に、慶長4年(1599)、やせ衰えた女性がいつも赤ん坊を抱いて飴を買いにきたそうです。不審に思って跡をつけると墓地に消え、そこにある墓から泣き声がするので掘り返してみると赤ん坊がいて、それは臨月の女性を葬ったお墓でした。死してなお我が子を想い、幽霊となって飴を買い育てていたのです。このお店の人の話では、創業当時から銭函があり(現在は使用されていない)この中にしきみの葉が入っていたことから幽霊が飴を買いに来たとわかったそうです。京都ではお墓にしきみの葉をお供えしてご先祖の魂を供養するのです。そんな話が伝わっているのも、この辺りがこの世とあの世の境目にあたる場所として認識されていたことを物語っているのですね。
少し脱線しましたが、「幽霊子育飴」のお店の前を左へ曲がると、曲がり角に「西国十七番六波羅蜜寺」の石碑があります。この道を南へ進みます。
この道沿いに学校のような建物が。「東山開晴館 第二教育施設 六原学舎 京都市立開晴小中学校」と書かれています。調べてみると、こちらは旧京都市立洛東中学校跡地で、周辺の小中学校6校とともに2011年に「東山開晴館」に統合され、2018年に「京都市立開晴小中学校」になったそうです。
さらにこの道を進みます。
朱塗りの柱が鮮やかな本堂が見えてきました。かなりコンパクトなお寺のようです。
さらに進みます。
こちらが入口です。さっそく入って行きましょう。
六波羅蜜寺とは
六波羅蜜寺は、天暦5年(951)疫病平癒のため空也上人により開創された真言宗智山派の寺院で、西国三十三所観音霊場の第十七番札所として古くから信仰を集めています。空也上人の自刻と伝えられる十一面観音立像(国宝)を本尊としています。
空也上人は醍醐天皇の第二皇子と伝えられ、若くして出家しました。この十一面観音立像を車に安置して市中を曳き回り、小梅干しと結昆布を入れ仏前に献じた茶を病人に授け、歓喜踊躍しつつ念仏を唱えて病魔を鎮めたと伝えられています。(このお茶は現在も皇服茶として伝わり、正月三日間授与されています)
応和3年(963)には名僧600名を集めて、金字大般若教を読み、諸堂の落慶供養を盛大に行い、これが六波羅蜜寺の起こりと言われています。
空也上人没後は、高弟の中信上人により規模が大きくなり、平安時代の後期に平忠盛(平清盛の父)が当寺内の塔頭に軍勢を止めたことから、以降平清盛・重盛に至り広大な寺域内には、平家一門の邸館が5200余にも及んだと言います。その後も鎌倉幕府の六波羅探題が置かれるなど、源平盛衰の中心地でもありました。
時代や将軍が変わっていく中でも、再建復興が進められ、火災が起きるたびに修復されました。重要文化財にも指定されている本堂は、1363年に修復されたものを1969年に解体修理したものです。
弁財天堂
入口から入って正面にあるのが弁財天堂です。こちらは崇徳天皇(保元の乱で後白河法皇に敗れ、讃岐に配流)の夢告により禅海上人によって造立されたものです。崇徳天皇が亡くなった後、寵愛されていた阿波内侍(あわのないし)の屋敷跡を寺とし、弁財天堂を建立して祀っていたと伝えられています。
七福神の中で唯一の女神である弁天様は、水を神格化した神で、神話によると、学問と技芸、そして仏教では人々に財宝を与え、障碍を取り除くとされています。
一願石
弁財天堂のすぐ右横にあるのが「一願石」です。こちらは訪れた人の願いを一つだけ叶えてくれると言われています。石でできた柱の上部には、回転する円盤状の石が取り付けられています。石に書かれている黄金色の文字を正面にして、心の中で願い事を唱えながら、ぐるぐると三回まわすと願いが一つだけ叶うそうです。
私が訪れた時も、参拝者が横に置かれた消毒スプレーで手を消毒してから一願石を回している姿が見られました。私もこのコロナ禍が早く収まることを願って回してみました。
本堂
六波羅蜜寺でひときわ目を引くのが、この朱塗りの本堂です。
貞治2年(1363)に再建され、蔀戸で仕切られた内陣を一段低い四半敷き土間とする天台敷建築です。文禄年間(1593~1596)に豊臣秀吉によって本堂に現在ある向拝が附設され、1969年に解体修理されました。国の重要文化財に指定されています。境内が非常に狭いため、正面からの写真撮影ができず、こんなアングルになってしまいました。
本堂には国宝の十一面観音立像が安置されていますが、12年に一度辰年のみに御開帳される秘仏です。像高258mの巨像でありながら、頭・体の根幹部を一本の木から彫り出す一木造だそうです。
宝物館
本堂の左横の通路を奥へ進むと宝物館があります。こちらには、当寺を創建した空也上人立像を始め、教科書にも掲載されるような宝物が展示されています。
写真:六波羅蜜寺パンフレットより転載
鎌倉時代前期の運慶の四男康勝の作。空也上人が「南無阿弥陀仏」と唱えると、その一音一音(南・無・阿・弥・陀・仏)が阿弥陀仏になったという伝説を彫刻にしています。口から仏様が出ている空也上人立像の写真を歴史の教科書で見た時の衝撃は今でも忘れられません(笑) 胸に金鼓、右手に撞木、左手に鹿の角のついた杖を持ち、膝を露わにし、布教のために履きこんだ草履で大地をしっかり踏みしめ、痩せてはいるものの民衆と共に生活した空也上人は、布教だけでなく、橋を架けたり井戸を掘るなど「市聖(いちのひじり)」と呼ばれ民衆から慕われました。それまで貴族階級の独占物であった仏教を、念仏を通じて本当の意味で市民仏教へと発展させた空也上人の信念が感じられる力強い作品だと感じました。
写真:六波羅蜜寺パンフレットより転載
こちらも歴史の教科書などで一度は目にした人も多いのではないでしょうか。
ゆったりとした衣を身にまとった僧侶姿で、少し上目遣いにこちらを見ている表情は、見ている私たちに向かって、今にも清盛が話しかけてきそうなリアルさがあります。
平家一門の武運長久を祈願し、朱の中へ血を点じて写経をした頃の太政大臣浄海入道清盛公の像です。経巻を手にしたその姿は平家物語に描かれている清盛の傲慢さではなく、仏者としての気品が感じられます。
「平家物語」は、平家が敗れ、源氏の世となってから成立した物語なので、平家の受領として源氏と争った清盛が悪役として描かれていますが、実際の清盛は、京都に拠点を置き、都の貴族たちともきちんと文化的な交流をしなければなりませんでした。おのずと上流階級の人々を渡り合う気品も備えていたことは想像に難くありません。
写真:六波羅蜜寺パンフレットより転載
宝物館には、上記の他、平安時代、定朝作の地蔵菩薩立像(重要文化財)や、鎌倉時代に我が国の彫刻界の黄金期を築いた運慶・湛慶父子の坐像、運慶作の地蔵菩薩坐像など木造彫刻を代表する名宝が数多く安置され、間近に見ることが出来ます。
銭洗い弁財天
宝物館を出て、再び本堂の前に出ると写真のような立て札があります。
六波羅蜜寺は「都七福神」の巡礼札所の一つとして弁財天が祀られています。
先ほどの弁財天堂の他に、もう一つお堂があります。
それが銭洗い弁財天です。本堂脇のこのお堂内は撮影禁止となっているので、外観のみ撮影しました。銭洗い弁財天、水掛不動尊、水子地蔵尊が安置されています。
銭洗い弁財天では、ざるの中に銭を入れ、洗います。洗い清めた銭は貯えておき、授与所で「金運御守」にしていただき、清めた銭はその中へ入れることの繰り返しで銭が貯まるのだそうです。
開運推命おみくじ
このおみくじは「四柱推命」をもとにした占いで、生年月日と性別から一年の運勢を占うというものです。13歳以上88歳未満の人が対象ということで、「生活の指針になった」「災難を逃れることが出来た」など、よく当たると評判で毎年お求めになる人もたくさんおられるそうです。初めての方や郵送でお求めの人も理解できるように、解説書もついているそうです。このおみくじのことは後で調べて知ったので、次回訪れた際には是非買い求めたいと思いました。
時の権力者の盛衰を見守った六波羅蜜寺
六波羅蜜寺のあった辺りは、冒頭でも触れた鳥辺野に続く葬送地でした。多くはほとんど遺棄に近いかたちで埋葬され、頭蓋骨が露出して辺りに散乱し、いつしか人々はそこを「どくろはら(髑髏原)」と呼ぶようになりました。それは「ろくはら」と訛って六波羅の字があてられ、地名になったと言われています。もとよりこれは音のこじつけで、六波羅とは仏教用語で、正しくは六波羅蜜すなわちよりよい仏教的結末を導くための六つの行い(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・知慧)のことです。そういう意味では髑髏原という人の死に結び付けた理解もあながち間違っていないことになります。
そして六波羅蜜寺がある地の町名も「轆轤町(ろくろちょう)」で、これも髑髏(どくろ)の訛ったものだそうです。
六波羅蜜寺の周辺は最盛期には5200余りもの平家一族の居住区でした。なぜ、寺院や墓地が並ぶ六波羅の地に、平家は一大居住区を設けることが出来たのでしょうか。
それは、穢れを極端に忌避した当時の皇族・貴族階級にとって、死や死後世界に密着する場所に暮らすのはもってのほかでしたが、新興階級の武士たちはそのような習わしから自由であったことや、東山を越えて伊賀・伊勢という平家の出身地へ行くのに便利な場所だったからではないかと言われています。
その後この六波羅には鎌倉幕府により、六波羅探題が置かれました。当時、朝廷では平清盛の縁者が天皇となっており、平家と朝廷の繋がりを警戒した幕府が六波羅探題を置くことで、朝廷の監視や洛中の警護、西国支配の拠点としていたのです。
このように、六波羅の地はもとは葬送の地、死の世界への入口として都の果てで忌み嫌われていたがゆえに、新興勢力の平家の拠点となり、その後源氏による鎌倉幕府からは朝廷や都を監視する拠点とされるなど、時の権力者によりさまざまな意味づけをされてきました。幾度もの戦乱や火災に遭いながらも本堂はそれらの災禍をくぐりぬけ、南北朝時代の建物を当時と同じ都の近くにとどめ、貴重な文化財を多数有しているのは非常に稀有なことだそうです。それこそが、この寺の様々な力の源となり、多くの人々にとってのパワースポットとして親しまれる理由なのではないかと感じました。
建仁寺を始め、清水寺や高台寺、八坂神社なども徒歩圏内ですので、是非合わせて足をお運びください。
周辺の寺社は下記ブログでもご紹介しています。
京都最古の禅寺建仁寺↓
祇園のシンボル八坂神社↓