観光客で賑わう嵯峨嵐山から徒歩20~30分の嵯峨野周辺には、古墳群があちこちに点在しています。地元の人にとっては、田園風景の一部として溶け込んでしまっているのですが、実は古の京都を切り拓き、平安京の大スポンサーとなった渡来系豪族の古墳群なのです。今回は、考古学者の加納敬二先生ガイドのもと、ブラタモリでタモリさんも訪れた古墳群などを巡るツアーに参加してきました。
このブログはそのツアーの後半です
今回は「まいまい京都」が企画する「嵯峨野 考古学者と古墳にコーフン!石室の内部を探検しよう~古代豪族のびっくり土木技術!古墳が密集する聖地、10の古墳めぐり~」というツアーに参加しました。「まいまい」とは「うろうろする」という意味の京ことばで、「まいまい京都」では、600人を超える各分野のスペシャリストが独自の視点でガイドする京都や近郊のミニツアーを多数実施されています。
嵯峨野の古墳群
嵯峨野中心部の古墳は、渡来系豪族 秦氏(はたし)の太秦蜂ヶ丘(現広隆寺)を中心に、6世紀のものとしては全国でも有数の古墳群となっています。詳しい記録は残っていないようですが、この辺りを本拠池とした秦氏一族の墓といわれています。
コースルート
1.宇多野ユースホステル 集合
2.音戸山古墳群
3.移築御堂ヶ池1号墳
4.印空寺古墳
5.山越古墳群
6.嵯峨七ツ塚古墳群
7.入堂塚古墳
8.圓山古墳 解散
☆ おまけ 狐塚古墳
このブログでは後半の5~8までをご紹介します。
前半の1~4については前回のブログをご参照ください↓
今回のお散歩のコース
今回のスタートは印空寺古墳です。
一条通沿い、千代の古道の石碑の北側に印空寺があり、その東側の木がこんもりと茂ったあたりが「印空寺古墳」です。山越古墳群の一つで直径25m、高さ4mの円墳で、主体部は横穴式石室だそうです。
印空寺古墳の西隣に印空寺があります。
印空寺を後にして、一条通を更に西へ300mほど進みます。
広沢池に到着です。平安時代中期に寛朝僧正が朝原山の麓に遍照寺を建立した時に開削した池と伝えられていますが、嵯峨野一帯を開墾した秦氏が造成した溜池という説もあるそうです。平安時代は観月の名所として貴族が訪れ、多くの歌を詠み、松尾芭蕉も「名月や池をめぐりて夜もすがら」という句を残しています。
山越古墳群
広沢池の東に隣接する「平安郷」は、宗教法人世界救世教いづのめ教団が管理する一般非公開の広大な庭園です。今回はツアーのため特別な許可を得て入場できたようです。
敷地面積は約3万坪もあり、春や秋に数日間限定で一般公開もされているようですが、現在はコロナ禍でもあり公開は休止されています。
入場するとすぐ竹林があり、とても風情があります。
春や秋の一般公開の際は、野点会場が設けられ、お抹茶とお茶菓子が数量限定ですが無料でふるまわれるそうです。
この平安郷の敷地内の東に広がる東山にも古墳群があります。
ゆるやかな坂道を登って行きます。
崖の上にこんもりと三つの円墳(①左、②右、③奥の3基)があります。山越古墳群13,14,15号墳(順不同)です。加納さんによると三つの古墳は秦氏のもので、恐らく3人の近しい親族(親子や兄弟など)の墓なのではないかということでした。
手前が3基の古墳のうち一番大きな古墳③で直径が13mもあるそうです。この写真は古墳③の頂上付近から、古墳①を見下ろしたところです。「古墳の上に立って見ることが出来るなんて!」と一同大興奮。
先ほどの三つの古墳の後方、更に崖の上に、様々な種類の大きな石が。これらは古墳を造るために色々な所から集められたものの、何かの規定からは外れ最終的に使われなかった石だろうとのことでした。石の博覧会みたいですね。十分立派な石たちなのですが、残念ながら古墳にはなれずに残されたということなんですね…
嵯峨七ツ塚古墳群
さて、平安郷を後にして、再び広沢池の南東に戻って来ました。一条通を西へ向かいます。
この辺りは歴史的風土保存特別地区に指定され、美観や歴史的風情が保たれています。電柱なども無いので、平安時代とまではいかなくても昔話に出て来そうな風景が広がっています。
広沢池の西にある児(ちご)神社の北側の小道を北西へ向かいます。
広沢池の西に広がるのどかな風景の中、北西へ進んでいきます。
嵯峨七ツ塚古墳群(4号墳)です。農地一帯にこんもりと7基が点在していましたが、うち6基が今も残っているそうです。耕作によって墳丘の周囲が蚕食され、正確な規模は測定できませんが、いずれも直径20~30m程度の円墳だそうです。
大覚寺古墳群(入道塚古墳、圓山古墳)
嵯峨7ツ塚古墳群から更に西へ5分ほど行くと、京都府立北嵯峨高校があります。
この高校には、なんと敷地内外に古墳があるんです!
北嵯峨高校の東に隣接した敷地に佇むのが入道塚古墳です。こんもりとした低い丘の上に大きな石が数個、ゴロゴロとあります。
加納さんとの対比で石の大きさが分かりますね。加納さんの左にある巨石①が古墳の天井石で、写真左下の穴②が石室の入口です。こちらは横穴式石室をもつ、方墳だそうです。方墳は秦氏は使わないそうで、加納さんによると方墳は出雲系の豪族によるものではないか、ということです。
北嵯峨高校のグラウンドには「南天塚古墳」という古墳が地中に保存されているそうで、雨の日などはその形がぼんやりと浮かび上がるということです。
古墳の上で体育の授業や部活が行われているなんて、びっくりですね!
北嵯峨高校の西側に回ってきました。フェンスの向こうは高校のグラウンドです。
グラウンドに隣接して木がこんもりと生い茂って小山のように見えるところが圓山古墳です。京都でも有数の大型横穴式石室があり、直径が55mもあるそうです。
住宅街を北上し、圓山古墳の北西側からの写真を撮りました。手前の住宅との対比で、その大きさが分かるでしょうか。
住宅街を通り抜け、大覚寺の大沢門前に出て来ました。今回のツアーはこれで終了。アンケートを記入し、加納さんから次回のツアーのご案内の告知などがあり解散となりました。
おまけ 狐塚古墳
解散前に、加納さんの以前のツアーにも参加された方が、その時訪れた古墳について質問されていました。今回のツアーの予定にも入っていたのですが、時間の都合で割愛されたようで、私も気になっていました。ちょうど、帰り道の途中にあるということで、その方と一緒にもう一つ、古墳を探しに足を伸ばしました。
タモリさんも見学した「狐塚古墳」です。当時は竹藪の中にあり、特別な許可無しには入れなかったそうですが、古墳の外側から石室の入口は見えたそうです。直径20m程度の円墳で、横穴式石室だそうです。現在は周囲にマンションや住宅が建ち、フェンスで囲まれてしまってこの写真を撮るのがやっとでした。もう木や草が生い茂って、石室の入口も確認できなくなってしまいました。
今回、このツアーに参加して、平安時代よりもっと昔の4世紀末頃に日本にやってきた渡来人、秦氏のすごさを実感しました。近くにある「太秦(うずまさ)」という地名が示すように、この辺りは元々秦氏が切り拓いてきた土地だったのです。
秦氏は、土木や養蚕など、当時の最先端の技術を使って、自然の地形を見事に生かしながら、この地を住みやすい豊かな土地へと開拓していきました。そして、その秦氏の開拓の証の一つが、今回ご紹介した古墳群なのです。重機やクレーンなども無い時代にあれほどの巨大な石を運び、石室を作り上げるには、どれだけ多くの技術力と労働力が必要だったことでしょう。それが出来るだけの力があったということが、大きな石が残る古墳群を間近に見て肌で感じることが出来ました。
京都というと、日本のルーツというか、日本で一番日本らしさを感じられる場所、というイメージですが、その日本らしい京都の風景を作ったのが、秦氏を始めとする渡来系豪族だったというのが、とても興味深いな…と思いました。もともとは大陸からやってきた人々ですが、日本の自然と格闘し、開発や開拓をする中で、日本の土着の文化も吸収し(巨石への自然信仰など)文字通り帰化していったのでしょう。そんな古代豪族の努力と智惠の恩恵を受けて、嵯峨野や嵐山は発展してきたのですね。
コロナ禍の行動制限がほぼ撤廃され、嵯峨・嵐山周辺も国内外の観光客で賑わってきましたが、ちょっと足を伸ばすと、昔ながらののどかな田園風景が広がり、古墳群を間近で見ることができます。一味違った嵯峨野めぐりをされたい方にお勧めのお散歩コースでした。
参考文献
『京都嵯峨野誕生物語』NPO法人さらんネット 2018年
『平安京以前ー古墳が造られた時代ー』京都市文化市民局 文化芸術都市推進室 文化財保護課 2012年
『千代の古道2 ~文化財と遺跡を歩く~ 京都歴史散策マップ』京都市(㈶京都市埋蔵文化財
『ブラタモリ⑦京都(嵐山・伏見) 志摩 伊勢(伊勢神宮・お伊勢参り)』株式会社KADOKAWA 2017年
嵯峨嵐山周辺の見どころはこちら