映画村で有名な太秦(うずまさ)から嵯峨野周辺は、古代豪族 秦(はた)氏の本拠地と言われており、京都最大の前方後円墳・蛇塚古墳やそれに次ぐ大きさの天塚古墳など大小200を超える古墳が確認されています。今回は長年発掘調査に携わってこられた考古学者 加納敬二先生ガイドのもと、古代豪族の古墳群をめぐるツアーに参加してきました。今回はそのツアーの後編です。
重機の無い古墳時代に巨石を運び石室を造った方法や石室内部の様子などをレポートします。
今回は「まいまい京都」が企画する「太秦 考古学者と古墳にコーフン!前方後円墳の内部を探検しよう~京都最大の古墳!蛇塚から天塚、古代豪族の聖地をめぐる~」というツアーに参加しました。「まいまい」とは「うろうろする」という意味の京ことばで、「まいまい京都」では、600人を超える各分野のスペシャリストが独自の視点でガイドする京都や近郊のミニツアーを多数実施されています。
太秦の古墳群
太秦から嵯峨野には、国指定の史跡である蛇塚古墳・天塚古墳や清水山古墳(全壊)そして仲野親王墓古墳(垂水山古墳)などの前方後円墳をはじめとする大小200を超える古墳が確認されています。さらに発掘調査や広域立ち合い調査などで広隆寺旧境内遺跡など集落遺跡も多数発見されています。古墳と集落遺跡は、古文献や地名伝承等から秦氏一族との関係が有力視されています。
コースルート
2.仲野親王墓古墳(垂水山古墳)
3.蛇塚古墳
4.西高瀬川沿い
5.天塚古墳
6.清水山古墳跡
7.千石荘公園 解散
今回はこのコースの3から7までをご紹介しています。
今回のお散歩コース
今回のスタートは蛇塚古墳です。
蛇塚古墳はどのようにして造られた?
蛇塚古墳までの道順は以下で詳しくご紹介しています。
蛇塚古墳は、京都府下で最大で、全国的にも有数の規模を誇る横穴式石室をもつ古墳で、古墳時代後期の6世紀末から7世紀前半に築造されたと考えられる前方後円墳です。この頃太秦一帯を支配していた秦氏一族の族長クラスの墓と言われています。早くから封土は失われ、残存する石室の周囲には民家が立ち並んでいますが、後円部の石室は全長17.8m、玄室長6.8m、玄室幅3.9mもあります。「蛇塚」の名称は、かつて石室内に蛇が多くいたことに由来するそうです。国の史跡に指定されています。
まいまい京都のこのツアー参加者全員(20人位?)が余裕で入れる巨大な石室です。
このような横穴式石室には、遺体を安置する玄室と、外部から玄室への通路である羨道(せんどう)があるのが普通です。そして、この蛇塚古墳などは、玄室が羨道幅より両側に広い両袖(りょうそで)式と呼ばれています。
石室を造る手順は、まず上の写真の一番奥に見える高さ3m以上はある石(鏡石;かがみいし)を置き、次に石室の一番手前の石(袖石)を置くことで、玄室の大きさが決まります。そして、鏡石と両袖の石の間に土を入れ、その土の周りに石を置いていき、石を安定させるために少しづつ土を盛っては突き固めるということを繰り返し、形が整ってから最後に土を抜くということをしていたようです。人力だけでこんなに巨大な石を積み上げて石室を造り上げた、当時の人間の智慧に脱帽です。
こんなに大きな石はどこから運んだかというと、京都市北西部の清滝周辺で採掘した石を筏に乗せて浮かべ、蛇塚古墳から100mほど離れた場所を流れる西高瀬川を使って運んだそうです。現在の高瀬川は幅5mほどの小さな川ですが、当時は現在の倍以上の運河だったようで、この時代の一般的な運搬方法だったそうです。現在は蛇塚古墳のすぐ近くまで住宅が建っていますが、当時はもっとずっと大きかったので、恐らく西高瀬川からすぐの所まで石室があったのでしょう。
この巨石はチャートという堆積岩です。何億年も昔、京都は湖だったので、湖の下に堆積した石が何千年、何万年の時間をかけて層状に堆積したのがチャートなのです。とても硬いのですが加工がしやすく、鉄の道具で削った跡が写真でも確認できます。石室内部はなるべく平面になるように削り、その削った石は、大きな石と石の隙間に詰めて、巨石が落ちてこないように無駄なく使用していました。ちょうど上の写真でも、加納さんの右手の後ろあたりに隙間に石が詰めてあるのが見えますね!
現在は写真のように、天井石は無く石室内部から見上げると空が見えます。天井石は落としやすいので、恐らく造園家が持ち去って個人宅の庭石や寺院などの庭園に使用されたのだそうです。
蛇塚古墳は研究資料を見ると、どれも前方後円墳とされていますが、加納さんの説によると巨大な円墳なのではないかとのことです。その理由は、前方後円墳では横穴式石室が一般的なのに、蛇塚古墳は竪穴式だからだそうです。古墳時代の初期から中期頃は「竪穴式」その後は「横穴式」のものが造られました。「竪穴式」は一度ふさげば二度と開けられず、基本的に一人のために造られていましたが、「横穴式」は棺を埋めた後でも、入口を塞いだ石や土を取り除けば、何度でも出入りすることが出来、親子や孫など複数の人が同じ墓に入ることもあったようです。
6世紀末から7世紀前半の、聖徳太子の側近として活躍した「秦河勝」の墓と言われていますが、定かではないものの、地理的にも古墳の規模からもこの一帯を治めていた秦氏のリーダーの墓であったことは間違い無いだろうとのことです。
再び古墳の外に出て来ました。ゴツゴツとした巨石を積み上げた石室と、その石の割れ目に木が生え、異様な姿です。
蛇塚古墳を後にして、100mほど住宅街の中の道を南西に進みます。
西高瀬川沿いの道
西高瀬川に出ました。この川から筏で運んできた石を陸揚げして、今歩いてきた道をゴロゴロと運び、石室を造るのに利用したそうです。写真奥にそびえているのが愛宕山、この西高瀬川は嵐山の渡月橋近くの桂川の脇から始まっています。石だけでなく、亀岡あたりの材木などもこの川を利用して運んでいました。
西高瀬川を渡り、住宅街の道を左へ曲がります。
住宅街の道を南へ100mほど進みます。
少し広い道路に出るので、東(左)へ曲がります。
東へ曲がったところです。この道を200mほど進みます。
200mほど進み、突き当りを北(左)へ曲がります。
北へ向いたところです。20mほど進むと三叉路に出ます。
三叉路を東(右)へ曲がります。
左前方に見えるガードレールと住宅の間が西高瀬川です。川沿いの道をしばらく東へ進みます。
川沿いを450mほど進むと左手におおの歯科があります。このあたりから道が南東にカーブしていますが、そのまま道なりに150mほど進みます。
150mほど進むと府道132号線(梅津街道)との交差点に出るので東へ渡ります。
渡った先の西高瀬川沿いの道から北方向を見ると、川の向こうに朱雀墳墓地が見えます。もともとこの辺りは円墳だったそうで、現在は共同墓地になっています。梅津街道と西高瀬川の交差する場所に古墳。恐らくこの辺りを管理していた秦氏の墓だったようです。直径14~15mほどだったそうです。
この西高瀬川、こんなに幅は狭いのにかなりの深さです。これは自然に出来たのではなく、人工的な運河で、この運河沿いに10~20基ほどの古墳があったようです。
更に西高瀬川沿いを南東へ500mほど進みます。
写真中央に見えている青い自販機の角を南(右)へ曲がります。
住宅街の道を南へ100mほど進みます。
突き当りを東(左)へ曲がります。
東へ曲がったところです。この道を40mほど進みます。
道の南(右手)に畑があり、その向こうがこんもりと丘になっています。
先ほどの道を40mほど進み、住宅街の中の細い路地を南(右)へ曲がると赤い鳥居と先ほど見えていた丘が現れました。
鳥居をくぐると、左手に石碑と案内板が見えます。天塚古墳に到着です。
天塚古墳とは
「白清稲荷大明神」と彫られた石碑。
その横には「史跡天塚古墳」の案内板。
天塚古墳は6世紀前半に造られたと推定される前方後円墳で、嵯峨野・太秦古墳群の中で蛇塚古墳に次ぐ全長70m余りの規模を持っています。墳丘には珍しく後円部西側の無袖式、西側くびれ部の片袖式と2基の横穴式石室があります。
明治20年(1887)の石室発掘調査の際には、銅鏡、馬具、勾玉など約400点の副葬品が出土し、それらは京都国立博物館や京都大学に保管されています。
近辺の古墳分布や遺物を考慮すると、近くの蛇塚古墳などと同じく秦氏一族の墓と推定されます。
さて、この天塚古墳になぜ「白清稲荷」があるのか?ということですが…
もともと天塚古墳は秦氏の墓で、こちらに伏見稲荷(伏見稲荷も秦氏が創建したと言われています)が祀られていました。そして明治20年に天塚古墳を調査した際に、近くにある同じ秦氏の神社である木島神社(蚕ノ社)に白清稲荷を移築したそうです。その後
、地元太秦村の人の夢に「天塚古墳に返してほしい」とお告げがあり、元の天塚古墳にも白清稲荷が祀られるようになったそうです。
先ほどの鳥居と階段を上り切ったところにあるお稲荷さん。この奥に後円部西側の無袖式の石室があるのですが、今回は管理者の方がご不在だったので、もう一つ西側くびれ部の片袖式の石室へ向かいました。
うまく写真が撮れなかったので、wikipediaから写真を拝借しました。入口はこんな感じで、中は真っ暗でした。片袖式石室で全長7.7m。玄室の長さは4.7m、幅1.7m、高さ約2m、人が10人も入るともう満員です。側壁は蛇塚よりだいぶ小さ目の壊石の乱石積みによるもので、奥にはお稲荷さんの祠が祀られています。
ツアー参加者の半数が石室に入って満員状態だったので、こんな写真しか撮れませんでしたが、雰囲気は伝わるでしょうか?石室の中にお稲荷さんという何とも不思議な光景でした。
蛇塚古墳より100年ほど古いもので、蛇塚と同じチャート系の石が積まれています。同じく清滝から西高瀬川に筏を浮かべて運んで来たのだろうということです。
西側くびれ部の石室を後にして、更にもう一つの古墳の跡を目指します。
こちらもうまく写真が撮れなかったのですが、写真左手奥の辺りにも古墳があったそうです。こちらは戦争中に防空壕などにされたため無くなったそうです。天塚古墳の南に三菱の軍事工場があり、敵の攻撃を受けやすかったためです。
さて、天塚古墳から更に三つ目の古墳の跡地へ向かいます。住宅街の中の道を元来た方(西)へ戻ります。
突き当りを北(右)へ曲がります。
北へ向いたところです。このまま90mほど進みます。
東(右)へ入る路地を進みます。少し上り坂になっています。
突き当りを北(左)へ曲がると、加納さんが指さしている辺りの道は左へゆるくカーブした不自然な道の形です。今は駐車場になっていますが、これが前方後円墳の痕跡なのだそうです。一つ前の写真のあたりが上り坂になっていたのも古墳の墳丘地の痕跡です。
先ほどの道を北側から撮影。駐車場の前の道が不自然にカーブしているのがわかりますね。
駐車場の角を東(右)へ曲がると、また別の広い駐車場があり、その前にポツンと佇む「清水山古墳跡」の石碑が。かなり注意して見ていないと見過ごしてしまいます。
5世紀末から6世紀初頭の前方後円墳で墳丘長が約60mのかなり大きな古墳があったそうですが、1973年には破壊され消滅してしまったそうです。こちらも恐らく秦氏のリーダーの墓と推定されています。このように宅地開発のため、発掘調査もされずに破壊された古墳が多数あったのは本当に残念なことです。
清水山古墳跡の前の道路を東へ50mほど進みます。
道路の南側に児童公園があります。
今回のツアーの最終目的地「千石荘公園」に到着です。
千石荘公園
「瑞典」はスウェーデンの音訳表記です。大正15年(1926)9月日にスウェーデン王国皇太子グスターヴ・アードルフ夫妻が来日し京都に滞在した際、考古学者であった皇太子は京都帝国大学教授浜田耕作のすすめで天塚古墳を見学されました。古墳見学の途次、皇太子夫妻は篠田幸二郎の別荘千石荘で千石船を一見されたそうで、この碑はスウェーデン皇太子夫妻の来臨を記念するものです。
この公園には、大正末期から昭和にかけて千石船がありました。千石船とは米を千石(約150トン)積載できる大きさの船ということです。こちらの千石船は長栄丸といって若狭国と北海道の間を定期運航していましたが、転売されて大正14年に実業家篠田幸二郎の邸内の庭園に移されました。それを先ほどのスウェーデン皇太子ご夫妻が見学されたのですね。昭和14年にこの庭園と千石船は京都市に寄贈され、庭園は児童公園になり、千石船は一般に公開されました。現在もこちらの公園が「千石荘公園」と呼ばれる由来となっています。この千石船は戦後老朽化し撤去されたということです。
京都市のように四方を山に囲まれた地で、千石船の実物を見るのはとても稀なことで、写真は昭和16年に地元婦人会による千石船見学会が催された様子だそうです。
今回のツアーはこちらで終了、解散となりました。
太秦周辺の古墳群を巡り歩き、西高瀬川沿いにいくつもの古墳を確認し、重機やトラックも何も無い時代に清滝の山奥から運河を利用して巨石を運び石室を作り上げた古代の人々の智惠や技術力と権力の大きさを実感することが出来ました。
この一帯を開発した渡来人・秦氏は、一番有名な秦河勝が聖徳太子の側近として重用されて以降、ほとんど政治の世界に登場することはありませんでした。当時最先端の大陸由来の土木・農耕・養蚕技術などを駆使し、京都の産業の発展を支えた一族です。嵯峨野一帯がある京都市西部は、桂川がたびたび氾濫し農業には適さない非常に住みにくい一帯でもあり、それゆえ渡来系秦氏はこの地に目をつけ開発してきたのでしょう。
政治の表舞台からは距離を置き、産業面での発展に地道に努力を続けた秦氏は、実は日本人以上に日本人らしい勤勉さ、自然との調和を願った一族でもあり、もはや「日本人」「渡来人」という区別が意味を無さないほどに日本に溶け込んでいたのかもしれないと感じました。
太秦周辺は広隆寺や映画村だけではない興味深いスポットです。嵯峨・嵐山観光の折には少し足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。