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大徳寺 ②芳春院 総見院 大仙院 ~京の冬の旅 非公開塔頭特別公開

京都市の北西、紫野と呼ばれる一帯にある大徳寺は、京都屈指の禅刹です。京都市内の寺院のほとんどがそうであるように、大徳寺応仁の乱の戦火で炎上し衰退しますが、その後あの有名な一休宗純和尚をはじめとする名僧により復興を遂げ、特に戦国時代以降、戦国大名や堺の富豪が次々と塔頭寺院を建立しました。堺の商人でもあった茶人 千利休によって山門の二階部分が増築され、大徳寺がそのお礼にと山門の堂内に千利休の像を安置したことから秀吉の怒りを買い、利休自決の一因となったというエピソードでも知られています。このように有名な大寺院大徳寺ですが、意外にも境内はいつ訪れてもそんなに混雑していません。

今回はそんな大徳寺で普段非公開の塔頭寺院が、「京の冬の旅」で特別公開しているということで訪ねてみました。前回は三玄院をご紹介しましたが、今回は芳春院、総見院と通常も公開している大仙院をご紹介します。

 

 

大徳寺の場所

goo.gl

 

大徳寺の行き方

京都駅から

 京都市バス101、205、206号系統で約30分「大徳寺前」下車

 

四条河原町から

 京都市バス12、205号系統で約40分「大徳寺前」下車

 

三条京阪から

 京都市バス12号系統で約40分「大徳寺前」下車

 

地下鉄北大路駅から

 京都市バス1,205、206号系統で約5分「大徳寺前」下車

 または北大路駅を西へ徒歩約16分

 

北大路駅から大徳寺までの詳しい行き方は前回のブログをご確認ください。

www.yomurashamrock.me

 

 

今回のスタートは三玄院です。

大徳寺法堂の向かいにあるのが三玄院です。こちらも「京の冬の旅」で特別公開され、沢山の方が参拝に来られていました。

 

 

松の木の向こうに見えるのが大徳寺の法堂です。修行者に法を説くための建物で、寛永13年(1636)に再建されました。桁行5間、梁間4間、一重裳階付き入母屋造の本瓦葺で仏殿と同様に禅宗様建築ですが、裳階部分は7間6間となり、大徳寺伽藍の中で最も大きな建造物です。大きすぎてスマホの写真では上手く撮影できず、スケール感が伝わらないのが残念です。

 

法堂の横の参道を北へ向かいます。

 

法堂の北に本坊の門があり、(写真右手)その脇の参道を北へ進みます。

途中に大仙院への参道がありますが、今はパスしてさらに北へ向かいます。

大徳寺の一番北の突き当りにあるのが芳春院で、その参道がこちらです。

 

受付で拝観料を納めて右へ曲がります。

芳春院の三門前にはちらほらと梅が咲いていました。

 

芳春院

芳春院は加賀藩主、前田利家正室まつ(芳春院)が慶長13年(1608)に創建した前田家の菩提寺で、開祖は玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)です。寛政8年(1796)に火災に遭いましたが、十三代藩主前田治侑によって再建されました。

 

境内は写真撮影禁止でしたので、ここからは「京の冬の旅」公式サイトから写真を拝借しました。

 

写真:京の冬の旅 公式サイトより

本堂(客殿)南にある「花岸庭(かがんてい)」は、枯山水庭園です。「昭和の小堀遠州」と称えられた作庭家・中根金作(1917~1995)により修復されました。手前の白砂は大海を表し、本堂の縁までは現世を意味しているそうです。悟りの世界を表した右手の石組、岩山(蓬莱島)へ、白砂に浮かぶ岩船(舟石)に乗り向かうさまを表していると言います。かつては庭一面に桔梗が咲き、「桔梗の庭」と言われていたそうです。

芳春院は大徳寺の最北に位置しており、京都市内は北へ行くほど緩やかに傾斜してますので、この辺りは京都市内でも一番標高の高いあたりです。大徳寺境内には電柱も無いので、南面するこの庭園から見える景色は、400年前とほとんど変わらないだろうとのことでした。芳春院創建当時の江戸時代に思いを馳せながら庭園やその先の大徳寺境内を見渡すのも、また趣き深いものがありました。

 

写真:京の冬の旅 公式サイトより

本堂には本尊の「宝冠釈迦如来」、右脇士に「文殊菩薩」左脇士に「普賢菩薩」の釈迦三尊像、さらにその右に開祖 玉室宗珀の木像、左に芳春院尼の木像が安置され、前田家歴代霊牌も祀られています。

芳春院は前田利家正室で、名はまつ。学問や武芸に通じた女性と伝わり、芳春院は大徳寺塔頭22院の中で唯一、女性が創建した寺院です。全国的にも女性の法号命名した唯一例だそうです。

 

写真:京の冬の旅 公式サイトより

芳春院で有名なのがこの「呑湖閣(どんこかく)」。春屋宗園(しゅんおくそうえん。千利休などとも親しかった大徳寺の住持)の昭堂(禅寺で祖師の像や位牌を安置する堂)で、金閣銀閣飛雲閣西本願寺)とともに「京の四閣」のひとつとされます。1617年、前田利長小堀遠州に依頼して建てたという二重楼閣建築です。1796年の寛永の大火により焼失し、1798年前田利長により再建されました。現在の建物は江戸時代後期、1804年または1813年に再建されたそうです。

開祖・玉室宗珀が呑湖閣と名付けました。呑湖閣から望む比叡山に因み、その東に位置する琵琶湖の水を飲む干すという意味があります。こちらの庭園は、飽雲池(ほううんいけ)に打月橋が架けられ、玉室筆による「打月」の額が架けられています。その意味は、池に映る月に遊ぶ(打)だそうです。

写真にはほとんど写っていませんが、呑湖閣の右横には奇岩を配した滝石組もあり、創建当初はこの滝石組から飽雲池へ水が注いでいたそうです。非常に小さい空間に池も橋も楼閣も滝石組まであり、ぎゅっと凝縮した空間はここだけ別世界のような不思議な美しさを醸し出しています。



大仙院

さて、芳春院の次に訪れたのは大仙院です。こちらは非公開塔頭がほとんどの大徳寺の中では珍しく、通年公開されている塔頭の一つです。

芳春院の参道を南へ戻り、先ほどパスした大仙院の参道へ向かいます。

 

石畳に沿って広がる門前庭には、立派な松の木があります。

 

大仙院は永正6年(1509)に大徳寺76世住職 古嶽宗亘(こがくそうこう、大聖国師)によって創建されました。大徳寺塔頭22院中、北派本庵として最も尊重重視される名刹です。

本堂(方丈)は、永正10年(1513)に古嶽宗亘が自分の隠居所として建立したもので、日本の方丈建築としては東福寺龍吟庵方丈に次いで古い遺構です。

 

大仙院の床の間と玄関は日本最古のものだそうです。床の間や玄関を含む大徳寺方丈は国宝に指定されています。

 

国宝に指定されている玄関

 

大仙院も境内は写真撮影が禁止ですので、ここから先は大仙院の門前に掲げられた看板の写真を拝借します。

 

大仙院の庭園は、室町時代を代表する枯山水庭園で、方丈北東の室である「書院の間」の北から東にかけて築庭されています。鶴島と亀島の間の蓬莱山から流れ落ちる滝が、大河となって大海に流れ込む様を表現し、滝・橋・舟などをすべて石で表します。狭い面積に広大な景観を表現したもので、開祖古嶽宗亘による作庭と見られ、方丈を囲む庭園は国の名勝に指定されています。

玄関を入ってまず目にするのが方丈東「下の石庭」です。白砂の中に舟石や亀石を配して大河の流れを表す庭があります。この舟石は宝船を表したもので、その後の舟石のモデルになったと言われており、写真ではうまく伝わりませんが、今にも動き出しそうに感じられる名石です。

 

先ほどの下の石庭から渡り廊下を隔てた北側には方丈東「上の石庭」があり、こちらは1952年に国の特別名勝に指定されました。約30坪の小空間に大小の石を配した石庭です。樹木と石と白砂を巧みに配して深山幽谷の蓬莱山を表し、そこからあたかも水が流れ落ちているかのような滝と清流を三段の枯滝石組と白砂で表現しています。清流が下の石庭に流れ大河となり、次にご紹介する方丈南庭に至って大海となる様子が印象的です。コンパクトながら、遠近法をうまく利用し、さながら立体の水墨山水画を見ているような感覚になります。

 

方丈前庭(南庭)です。白砂と一対の砂盛だけの方丈前庭は、禅宗寺院南庭に見られる典型的な「無の空間」となっています。方丈東 上の石庭の蓬莱山より流れ落ちる清流が大河となり、大海原に流れ込む様子を表したシンプルで清浄な庭です。

 

 

このほか、方丈の襖絵も室町時代の名作で、国の重要文化財に指定されています。相阿弥の山水図、狩野元信の四季の花鳥図、狩野幸信の四季の田園風景があり、現在は精巧に描かれたレプリカが寺院を飾り、実物は京都国立博文館に寄託されています。

 

 

大仙院を拝観した後は、参道を南へ戻り、総見院へ向かいます。

先ほどの大徳寺本坊南西あたりに出ました。石畳の参道を西へ向かいます。

 

鐘楼です。袴腰が漆喰で塗られている珍しい造りです。

 

参道を更に西へ進みます。

 

総見院

総見院豊臣秀吉が創建した織田信長菩提寺です。

 

天正10年(1582)10月、豊臣秀吉が中心となって、織田信長の葬儀が大徳寺で執り行われ、信長の位牌所、総見院の造営が開始されました。総見院の名もまた信長の法号に因みます。現在も総見院は信長の位牌と木像を安置し、境内には織田家墓所があります。

 

総見院も境内の庭園と茶室以外は写真撮影禁止でしたが、学生の方によるボランティアガイドがあり、とても詳しく説明していただきました。

 

境内を入ってすぐのところにある茶筅塚です。茶筅の供養塔となっており、毎年4月28日に茶筅供養が行われるそうです。写真では少し分かりにくいですが、供養塔の前の花を生ける入れ物が茶筅の形になっています。

 

明治時代、総見院廃仏毀釈により大規模な破却が行われ、その後大徳寺の専門道場として修行の場となりました。その後大正時代に堂宇は再興され、専門道場も移されました。1928年、現在の本堂は禅堂(修行のための堂)を再興、改修して建てられたということです。

 

写真:京の冬の旅 公式サイトより

本堂には「織田信長坐像」(重文)が安置されています。本能寺の変に斃れた(たおれた)信長の一周忌法要に合わせて彫られたもので、香木で彫られたもう一体は信長の棺に遺体の代わりに入れられたそうです。仏師・康清の作とされ、高さ約115㎝の衣冠帯刀の姿で、眼光鋭い表情は、私の持っていた織田信長のイメージにかなり近いものでした。この木像を見た豊臣秀吉も「お方様によく似ておる」と言ったとか…

 

本堂の裏には茶室が3つもあり、茶室までの道をつなぐ廊下の天井に、腰(こし)があります。これは信長の葬儀の時に信長の木像を載せるために使われたもので、使われたのはその一度きりだそうです。葬儀後、どこに置いたものか悩んだ末、廊下の天井に飾ることにしたんだとか。

 

さきほどの腰がある廊下の向かいあたりにあるのが茶室「香雲軒」です。8畳の茶室と書院(20畳、12畳)があり、かなり大きな茶会も催されるそうです。

 

廊下の突き当りにある茶室「龐庵(ほう-あん)」は三畳向切。

 

一番奥にある茶室が「樹庵席」

一休禅師の掛け軸が架けられていました。

 

加藤清正が朝鮮から持ち帰った石を井筒とした「掘り抜き井戸」。井戸の深さは10m以上もあり、鴨川の伏流水が今も湧くそうです。水は毎朝のお供えにも使われています。

 

侘助ワビスケ)椿。総見院ワビスケは、秀吉が千利休から譲りうけて植えたものと伝えられています。ワビスケは花が小さく早春から咲き、茶花としてもよく用いられるそうです。この木はこの品種の現存する最も古い個体として、昭和58年に京都市指定天然記念物に指定されました。

 

鐘楼を総見院の境内から撮影。

 

前回の三玄院のブログでも書きましたが、大徳寺は本坊をはじめ、多くの塔頭寺院も通常非公開で、公開時も写真撮影が一切禁止という所が多いです。大徳寺の公式サイトにも写真や詳しい説明なども少なく、実際に訪れてみなければわからないことだらけでした。その代わり、公開される時にはどの塔頭にもガイドの方がおられ、歴史や背景を詳しく説明していただきました。訪れてからだいぶ時間が経ってしまい、せっかくの説明や感想を詳しく文章にすることが出来ないのですが、訪れた時の空気感は、他のどのスポットよりも心に残っている気がします。これだけネットでの情報があふれる現代において、一期一会を大切にする茶道と深い関わりのある大徳寺ならではの「実際に来て見て感じてください」というメッセージなのかな、と思いました。

大徳寺京都市内の多くの観光地からは少し外れた所にありますが、徒歩圏内には今宮神社や織田信長を祀る健勲神社もあり、併せて訪れてみてはいかがでしょうか。