京都市の北西、紫野と呼ばれる一帯にある大徳寺は、京都屈指の禅刹です。京都市内の寺院のほとんどがそうであるように、大徳寺も応仁の乱の戦火で炎上し衰退しますが、その後あの有名な一休宗純和尚をはじめとする名僧により復興を遂げ、特に戦国時代以降、戦国大名や堺の富豪が次々と塔頭寺院を建立しました。堺の商人でもあった茶人 千利休によって山門の二階部分が増築され、大徳寺がそのお礼にと山門の堂内に千利休の像を安置したことから秀吉の怒りを買い、利休自決の一因となったというエピソードでも知られています。このように有名な大寺院大徳寺ですが、意外にも境内はいつ訪れても静かです。
今回はそんな大徳寺で普段非公開の塔頭寺院が、「京の冬の旅」で特別公開しているということで訪ねてみました。
大徳寺の場所
大徳寺の行き方
京都駅から
京都市バス101、205、206号系統で約30分「大徳寺前」下車
四条河原町から
三条京阪から
地下鉄北大路駅から
または北大路駅を西へ徒歩約16分
南改札から出て、前方左手へ進みます。
出口3に向かって階段を上がります。
階段を上がり切ると正面が北大路通です。北大路通沿いに西(右)へ進みます。
北大路通を西へ向いたところです。写真には写っていませんが、右手にイオンモール北大路があります。京都市民にとっては北大路と言えば「北大路ビブレ」ですが、2022年6月にイオンモールに変わりました。
北大路通を200mほど進むと立命館小学校があります。さらに北大路通を進みます。
北大路通を更に200m余り進むと北大路新町の交差点に出ます。信号を渡りこのまま北大路通沿いを進みます。
北大路新町の交差点から更に北大路通を200m余り進むと、昭和の雰囲気漂う純喫茶「翡翠」があります。昭和36年創業の老舗喫茶店です。私も20年以上前にお邪魔しましたが、その頃もすでにレトロな雰囲気でしたが、今はどうなっているのかな?口コミによると今もお食事はボリューミーで古びた雑誌や新聞が置いてある、ザ・昭和なお店のようです。
喫茶「翡翠」を少し進むと堀川北大路の交差点です。こちらの信号も西へ渡り、そのまま400mほど進みます。
北大路通を400mほど進むと、大徳寺通に出ました。こちらの信号を渡り大徳寺通を北(右)へ曲がります。
大徳寺前交番を通り過ぎ、大徳寺通を更に北へ進むと、京都らしい老舗のお店が並んでいます。
泉仙も老舗の精進料理専門店
大徳寺納豆のお店が並びます。
大徳寺通を200mほど進むと大徳寺の広々とした駐車場に出て、その向こうに大徳寺の総門があります。
総門の前には京の冬の旅の看板も出ていました。
大徳寺とは
総門を入ってすぐ右手にあるのが、この山内図です。多くの塔頭が立ち並んでいるのがわかりますね。
大徳寺は、臨済宗大徳寺派の大本山で、山号は龍宝山(りゅうほうざん)。開山は宗峰妙超(大燈国師)で、正中2年(1325)に正式に創立されました。
京都でも有数の規模を誇る禅宗寺院で、境内には仏殿や法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20を超える塔頭が立ち並びます。また、大徳寺は多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本文化に多大な影響を与え続けています。本坊および塔頭寺院には建造物・庭園・障壁画・茶道具・中国伝来の書画など、多くの文化財を残しています。なお、大徳寺の境内はいつでも参拝が可能ですが、大徳寺本坊(国宝の方丈や庭園)は一般には非公開であり、塔頭も非公開のところが多いです。
総門を入ってまっすぐ西へ進みます。
勅使門です。慶長年間(1596~1614年)建築の御所の御唐門を後水尾天皇より下賜され、寛永17年(1640 )に現在地へ移築したもので、重要文化財です。
勅使門を過ぎ、道なりに右へ曲がります。
三門です。朱塗りで重層造の豪壮華麗な門です。5間3戸、二階二重門で入母屋造本瓦葺、両翼に山廊(さんろう)がついています。下層は大永6年(1526)に連歌師宗長の助力によって造営されたものですが、未完であったために天正17年(1589)に千利休が上層を造営して完成させました。上層には「金毛閣(きんもうかく)」の扁額が掲げられています。利休の恩に報いるために大徳寺は上層に利休の木像を安置しましたが、これにより門を通る者は利休の足下をくぐることになり、これが豊臣秀吉の怒りを買って利休切腹の一因になったと伝わっています。
三門を過ぎ、更に北へ進みます。
三門の北に並んで建つのが本尊の釈迦如来坐像を安置する仏殿ですが、現在は修復中でした。その仏殿の手前に植えられているのが、イブキの木です。
仏殿が寛文年(1665)に再建された頃に植栽されたものと言われています。イブキは一般に長命の木ですが、これほどの大木になることは稀であり、昭和58年(1983)に京都市指定天然記念物に指定されました。
三玄院
仏殿を過ぎ、法堂の向かい辺りにあるのが、今回一つ目の目的地「三玄院」です。
三玄院は天正14年(1586)、春屋宗園を開祖して、浅野長政、石田三成、森忠正らによって創建されました。黒田長政や古田織部など多くの人々が、開祖 春屋宗園(大宝円鑑国師)に禅を学び、たくあん漬けの考案者という説もある沢庵宗彭(たくあんそうほう)や千宗旦(利休の孫)も修行しました。当初は西隣に建てられましたが、明治11年(1878)に現在地に移転。茶室「篁庵(こうあん)」は古田織部好みの小間の中では現存する最古のものです。
「京の冬の旅」では初公開とのことで、静かな大徳寺にあっても、門前には10数人の人が並んでいて、10分から15分間隔で順次案内されていました。
残念ながら、受付から奥、庭園や建物は全て写真撮影禁止でした。ここからは「京の冬の旅」のパンフレットに掲載された写真や看板に映った襖絵の写真などを借用して、ご紹介します。
写真:「京の冬の旅」パンフレットより
表門から入ってすぐ右手にあるのが「咋雲庭(さくうんてい)」という枯山水庭園です。咋雲とは迷いのあとも留めない人間本来の清浄な姿を表すといい、その名の通り、小さいながらすっきりと整えられています。白砂に立石、苔地、植え込みで構成され、塀の向こうに見える大徳寺の法堂や松を借景とすることにより、実際より奥行も広さもある雄大な庭園のように感じられました。
写真:三玄院「京の冬の旅」看板より
方丈には、江戸期の絵師 原在中(はらざいちゅう)が、各室ごとに異なる技法を用いて描いた襖絵が残っています。
特に咋雲庭に面した部屋の左側の「八方睨みの虎」の絵は、繊細な濃淡の墨筆でどこから見ても虎と視線が合うように描かれた秀逸な作品です。その虎図の向かい側、同じ部屋の右側には龍図があります。龍の動きがあまりにも速いため、頭部などは描かれず、逆巻く波と雲、わずかに龍の鱗がたらし込み技法(墨色のにじみ効果を用いたもの)によって描かれていて、その余韻のある描き方に想像力が搔き立てられます。
その他の部屋にも四季の図として「花鳥図」やユーモラスな「猿猴図(えんこうず)」、「雪景山水図」「芦雁図」があり、江戸時代のものとは思えないほど、どれも非常に良い保存状態でいきいきと描かれていて、本当に見ごたえがありました。
あまりにもきれいな状態の絵だったので、レプリカでは?と思い、部屋におられたガイドに方に「この絵は本物ですか?」とお尋ねしたところ「本物ですよ。今回が初公開ですからね」と話され、大徳寺の本坊や塔頭が通常非公開の所が多い理由の一つがわかった気がしました。数々の文化財を有していながら、そのほとんどを非公開とし、また公開しても写真撮影禁止にすることで、長年受け継いできた品々を当時のまま大切に大切に守って来る道を、大徳寺は選んだのではないでしょうか。その姿勢はある意味潔いとも言えますが、参拝者にとってはその時の感動を胸に収めておくことしか出来ず、少し残念でもあります。とは言え公開されることも稀で、公開されても写真で後日見返すことも出来ない分、その品々との一期一会をより強く意識することとなり、それは大徳寺が千利休との縁をはじめとする茶の湯文化と深く関わっていることからくるものなのかもしれません。
茶室「篁庵(こうあん)」は今回は公開されていませんでした。
この後、総見院、芳春院、大仙院を訪ねましたので、次のブログへ続きます。