京都おすすめ散歩道

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雪化粧の金閣寺 ~おもてなしの心に支えられて

今季一番の大寒波に見舞われた1月25日、京都市内の寺院は交通網の乱れもあり軒並み閉門となりました。そんな中でも金閣寺はいつも通りたくさんの拝観者を迎えていました。Twitterでも「京都で大雪が降ってるようだな」「雪が降るとどうなる?」「知らんのか」「貴船神社金閣寺に行くカメラマンが増える」というつぶやきがあったほど、雪の金閣寺は大人気です。京都市内に住んでいながら、一度も雪の金閣寺を間近で見る機会が無かった私は、「こんな日に行くの?」と家族に白い目で見られながら、雪の町へと繰り出しました。雪化粧した金閣寺と雪の京都をご紹介します。

 

 

金閣寺の場所

goo.gl

 

金閣寺の行き方

バスで

 ・JR京都駅から 市バス205系統に乗車し約45分「金閣寺道」下車 徒歩5分

 ・阪急京都河原町駅、京阪祇園四条駅京阪三条駅から 市バス12、59系統に乗車し約45分「金閣寺道」下車 徒歩5分

 

電車で

 ・JR京都駅から嵯峨野線に乗車し約10分「円町」下車 市バス「西ノ京円町」から204、205系統に乗車し約9分「金閣寺道」下車 徒歩約5分

京福電鉄北野線北野白梅町」駅下車 市バス「北野白梅町」から204、205に乗車し約5分「金閣寺道」下車 徒歩5分

 

 

今回のスタートは京福電鉄(京都では嵐電と呼びます)「北野白梅町駅」です。

駅やその周りも雪化粧。大雪でJR各線は運休や遅れが相次ぎましたが、嵐電はほぼ通常通り運行していました。そのためか、普段の平日よりも嵐電の乗客は多かったように思います。大雪にも関わらず外国人観光客がぎっしり…私の予感は的中し、彼らも私と同じ北野白梅町駅で下車しました。

 

駅を降りると「北野白梅町」の交差点に出ます。ここは京都市の碁盤の目の縦の通り「西大路通」と横の通り「今出川通」の交差する地点です。西大路通りを北(左)へ向かいます。

 

西大路通を北へ向いたところです。信号を北へ渡りそのまま西大路通を直進します。

 

信号を渡って50mほど進むと市バス「北野白梅町」バス停です。先ほど一緒に嵐電を降りた観光客がずらりと並んでいました。

10分ほど待つと金閣寺方面のバスが2台通過しましたがどちらも満員で、降車する人は少なく、停留所で待つ人も数名しか乗れません。

 

市バス2台が通過した時点で、先ほどの外国人団体さん御一行はバスを諦め徒歩で金閣寺へ向かうことにしたようです。徒歩20分ほどなので、私も同じく歩くことにしました。

 

平野神社

西大路通を500mほど北へ進むと道の向かい側に赤い鳥居が見えてきました。桜で有名な平野神社です。

 

平野神社については以下でご紹介しています。

www.yomurashamrock.me

 

鳥居の奥が春には桜色に染まる桜の園なのですが、今日は雪化粧です。

 

 

わら天神

平野神社から西大路通を更に450mほど北へ進むと、わら天神があります。

「わら天神」は通称で、正式には「敷地神社」と言います。もともとは山背国葛野郡衣笠村(やましろのくにかどのぐんきぬがさむら)に降臨した北山の神でその創建は平安建都以前と推定されています。天長8年(831)その地に氷室が設けられ、その夫役として加賀国から移住した者は、崇敬していた菅生石部神社(敷地天神)の神を勧請し、北山の神の隣に祀った上、更に菅生石部神の母神である木花開耶姫命も祀って祭神に定めたそうです。応永4年(1397)に足利義満が山荘・北山殿(後の金閣寺)を造営するにあたり、参拝に不便になったことから両社を合祀して現在地に遷座しました。

京都で「わら天神」というと安産の神様として有名です。安産御守として藁が授与されることからこう呼ばれています。お守りの藁に節があれば男児、節が無ければ女児が誕生すると云われています。

 

わら天神から更に400m弱進むと「金閣寺前」の交差点に出ます。こちらを西(左)へ曲がります。

 

雪の中たくさんの人が参拝を終えて歩いているようです。細い歩道も雪が残り、私もソロソロと転ばないよう気を付けて歩きました。

 

120mほど進むと金閣寺の黒門が見えてきました。

 

雪の日でも歩きやすいようにきれいに整備された参道です。さっそく中へ入って行きましょう。

 

金閣寺とは

金閣寺は正式名称を鹿苑寺といい、相国寺塔頭寺院の一つです。舎利殿金閣」が特に有名なため、一般的に金閣寺と呼ばれています。鹿苑寺山号は北山といいます。これは金閣寺を囲む左大文字山衣笠山一帯が「北山(きたやま)」と呼ばれているので、それをそのまま山号としたものです。

 元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を、室町三代将軍足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされます。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に表したと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国(明)との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名付けられました。

 

境内はすっかり雪景色です。

 

受付で拝観料を納めて参拝門から入山します。

 

こちらの参道も歩きやすいように雪はきれいに除けられていました。

 

鐘楼も雪化粧。

 

参道脇に広がる庭も一面の雪景色。

 

舎利殿金閣

そして、お目当ての金閣を臨む鏡湖池に到着!青い空と白い雲、雪のベールを頂いたモノトーンの山を背景に光り輝く金閣の神々しさは想像以上でした。すでに多くの参拝者が入れ替わり立ち替わり写真に収めています。

 

5分ほど待って最前列で写真を撮りました。風が吹いていたので、鏡湖池に映る金閣の姿にもさざ波が立っていますね。

通称金閣寺の由来となった舎利殿金閣は、二層と三層は漆の上から純金の箔が張ってあり、屋根は椹(さわら)の薄い板を何枚も重ねた杮葺(こけらぶき)で、上には鳳凰が輝いています。一層は寝殿造で「法水院(ほっすいいん)」、二層は武家造で「潮音堂(ちょうおんどう)」、三層は中国風の禅宗仏殿造で「究竟頂(くっきょうちょう)」と呼ばれ、三つの様式を見事に調和させた室町時代の代表的な建物と言えます。昭和62年(1987)に、漆の塗り替えや金箔の張替え、更に天井画と義満像も復元されました。

 

先ほどよりもう少し東から。境内約132,000㎡(4万坪)の内、92,400㎡(2万8千坪)が鹿苑寺庭園として特別史跡及び特別名勝指定地となっています。中心をなす鏡湖池は約6,600㎡(約2千坪)、ここに葦原島(あしはらじま)など大小の島々、畠山石などの奇岩名石が配されています。葦原島は「豊葦原(とよあしはら)の中つ国」すなわち日本の本州を暗示し、畠山石、赤松石などは義満が北山殿を造営する時に各大名が寄進した各地の名石です。義満は、金閣の中から鏡湖池の様々な島や石を眺め、日本国を支配する自分の権力に満足し、名石を献上した諸大名をどのように統治しようかと考えていたのではないでしょうか。金閣を王朝的な寝殿造武家的な書院造そして禅宗の仏殿造で見事に調和させることで、朝廷と幕府だけでなく仏法の世界をも支配する日本で最高の地位にあることを世の人々に示したかったのでしょう。そう考えると、後の織田信長豊臣秀吉が権力の象徴として高い天守閣を持つ城郭を築いたように、金閣も義満の権力欲の表れなのでしょうが、それを最高の芸術にまで高めることで、金閣は見る者の心をしんとさせる高貴で優美な輝きを放っています。

 

雪化粧した金閣は神秘的で幻想的、色々な角度から写真に撮りたくなる美しさです。

 

銀河泉

金閣の後ろを進むと銀河泉(ぎんがせん)があり、足利義満お茶の水に使ったと伝えられており、今も清冽な清水が湧き出しています。

 

巌下水

巌下水(がんかすい)は、義満が手洗いに用いたと言われています。

 

龍門滝

この滝は2.3mもの高さを一段落としにしたもので、龍門の滝を鯉が登り切ると龍に化すると言われる中国の故事登竜門に因んだ鯉魚石(りぎょせき)が置かれています。今まさに跳ね上がらんとする龍の姿が、滝壺の所に斜めに傾いた動きのある石で表現されているそうです。

 

金閣寺

龍門滝の左側山畔に石段があります。この小さな石段を中国の故事、虎渓三笑(ある物事に熱中するあまり、他のことを全て忘れてしまうことのたとえ)にちなんで虎渓橋(こけいきょう)といいます。その両側に低い竹垣があり、右と左の組み方が違うのが特徴です。これを金閣寺垣と称され、小竹垣の代表とされています。

 

 

安民沢と白蛇の塚

虎渓橋を登り切ると周囲を深い樹木に囲まれた静かな池に出ます。安民沢(あんみんたく)と呼ばれています。日照りが続いても涸れないので、雨乞いの場ともされていました。池中の小島には白蛇の塚という五輪の石塔があり、西園寺家の鎮守などとも伝え、この池はその当時の遺跡だそうです。

 

安民沢から振り返ると金閣の三層とその向こうの山々が臨めます。京都の北西に位置する金閣。夕日を浴びて輝く金閣とその向こうの山に日が沈む光景は、まさに極楽浄土を思わせる神々しいものであったことでしょう。

 

夕佳亭

安民沢から山路を奥へ進むと、山上にある茶室が夕佳亭(せっかてい)です。寛永元年(1624)に住職となり本格的な庭園の修復を行った鳳林承章(ほうりんじょうしょう)が造らせ、後水尾法皇を迎えるために営まれたそうです。夕日に映える景色が殊に佳(よろし)いことから夕佳亭の名が付けられたそうです。

 

夕佳亭の前の手水鉢は富士形と呼ばれ、足利義政が愛用したものだと言われています。

 

不動堂

天正年間(1573~92)に宇喜田秀家が再建したもので、金閣寺境内に現存する最も古い建物です。本尊は弘法大師空海作と伝えられる石(いわ)不動明王で、江戸時代から既に庶民信仰の対象であったそうです。

こちらで手を合わせてお参りし気づいたのですが、金閣寺は他のお寺のように一般の参拝者がご本尊に向かってお参りする本堂は無かったな…ということ。後で調べてみると、金閣寺では、鏡湖池の東にある方丈が本堂にあたるそうです。ご本尊は聖観世音菩薩坐像で、そのほか金閣寺の勧請開山夢窓国師像、足利義満像などが安置されていますが、普段一般には公開されていないようです。

 

義満の亡くなった後、庭園を含む壮大な別荘、北山殿の殆どの建築物は移設され、最後に舎利殿金閣と庭園が残されました。その芸術的な美を後世まで残すために金閣寺が取ったのは、拝観料を徴収し観光地化することでした。すでに江戸時代には、金閣寺は全国から京都見物にやってきた人々にとって欠かせない参詣場所の一つであり、その頃から「金閣寺」の通称で呼ばれるようになったようです。

大雪の中でも閉門せず多くの参拝者を温かく迎えるおもてなしの心が、現在まで続く金閣寺の歴史を作っているのでしょう。実際、金閣寺の公式Instagramでは、雪の降った日も雪かきし参道を清める職員の方の写真を挙げ、「今日も朝早くから参道や駐車場の除雪作業を行っております。お足元滑りやすい状態となっておりますので、お気をつけてお越しください」という丁寧な書き込みがあります。金色に輝く見た目の美しさだけでなく、金閣寺のおもてなしの心が、世界中の人々に愛される理由なのかもしれません。